新年 2019
みなさまあけましておめでとうございます。 2019年になりました。 亥年ということで歳男です。 今年も例のごとく早速白味噌の雑煮で餅を7つ食べました。 年明けの瞬間は草津温泉の湯の花を入れた風呂に浸かっていたので、はっきりとしたタイミングはわからないまま新年を迎えることになりました。 亥年がやってきた! 亥年ということ
鈍い人たちの言動に直接反応せず、自らの洞察力を活かす
「鈍い人たちの言動に直接反応せず、自らの洞察力を活かす」ということで、世の中にいる鈍感な人たち、図太い人たちなど、いわゆる「気が回らない人たち」に対して辟易するのをやめて、そうした人たちの気の使えなさを見抜ける自分の洞察力を活かしていきましょうというようなことについて触れていきます。 以前、鬱になる人は繊細で頭が良いと
確かなデータと事実の意味
著しく自信がないのか、誰かへの言い訳が必要なのか、データに期待をしすぎているのか何なのかはわかりませんが、無駄にデータから未来を決めようとする人たちが増えてきたような気がします。 「確かなデータであっても事実の意味が違う場合を考慮する」ということを完全に無視しているような気がしています。 人間ではすべて把握できないほど
AI(人工知能)への皮肉とドラえもんの設計
AI(人工知能)への皮肉として、先程無駄な遊びをしてみました。人工知能自体への否定的な考えは無いのですが、人工知能への期待を寄せている人たちへの皮肉的な遊びとして個人的に楽しんでみたという感じです。 いつの時代も、革新的な考えを提唱する人たちは概ね「人が良すぎる」と言えばいいのか何というか考えが甘い人たちばかりだったり
自己主張の強すぎる家電
「近年、家電にもいろいろな技術が組み込まれてきて、便利になる一方だ」なんてなことは言いません。むしろ逆で、家電の自己主張が強すぎて迷惑をしています。 アプリケーションからの通知しかり、家電から発する光や通知音然り、鬱陶しくてたまりません。 特に「寝る時のことを考えているのか?」ということをよく思ったりします。 「ITだ
曖昧さのもつ力
抽象的で曖昧な言葉ほどものすごい力を発揮したりします。 言葉が抽象的である場合、その分だけ包括する概念の範囲が広く、解釈可能性もたくさんあるということになります。 ただ、具体性からは逆行することになるので意味を捉えにくくなるということになり、その分だけイライラするということもありますが、やはり曖昧な言葉は凄まじい効力を
人を信用することと人間不信
「人を信用することができない」 ということが人を苦しめる最たるものの一つです。 しかしながら、人間不信ということに限定することなく、何事も信用し切ることはできませんし、かといって一切の信用がなければ社会生活はままならないという構造になっています。そんな中「信用しようとすること」自体が疑いを含んでいるため理屈の上でどう考
蓋然性とあいまいさ
思えば「蓋然性」と「あいまいさ」が長年僕を苦しめていました。それは哲学的問いであり、とりわけ哲学的領域と社会との整合、社会生活における自分のあり方としての課題です。 ふと病中で活字中毒だった頃を思い返すと、この「蓋然性」というものをどう取り扱うか、どの程度の曖昧さならば良しとするのかの線引が難しく、その問いに真剣に向き
縁起が良い動物とか悪い動物という発想
世の中では縁起が良い動物とか悪い動物という発想をする人たちがいます。もちろん本来の意味での縁起、「因縁生起」とはまた少し異なった感じで俗っぽくこうした縁起の良い動物や縁起の悪い動物について考えてみましょう。 縁起が良い動物は何か? 縁起の悪い動物は何か? A そんな分類は意味をなさない 単純な答えとしては以上となります
思考の罠
思考の罠ということで、思考がすべての展開にブレーキをかけたり、絶え間ない重圧をかけたりしてしまうことや、「考えないほうがうまくいき安らぎに帰する」というようなことについてでも触れていきます。 少しばかり「苦」ばっかり扱ったので今回は明るいテーマです。 なんだかんだで哲学的なテーマは重く感じたりします。その重さは人を幸せ
目先しか見えないと改善の価値がわからない
目先しか見えないと改善の価値がわからないということで、目先の物事しか見えない人たちにとっては工夫や改良を継続して繰り返していく「改善」の価値がわからないというようなことについて触れていきます。 人は感情的になっているときほど本能よりの思考しかできなくなっているため、思考としての「過去」や「未来」というものを想定できなく
「生苦」生きる苦しみ
生苦(しょうく)という「生きる苦しみ」についてでも触れていきます。四苦八苦のうちの四苦「生老病死」の最初の苦しみがこの生苦です。生苦とは、生きる苦しみのことを意味しますが、基本的には「生存本能にただやらされているだけ」というのが「生苦」・「生きる苦しみ」です。 これから「四苦八苦シリーズ」としてあらゆる苦しみについて、
思考を整えることと自然体になること
特にうつ状態の時に限ったことではなく、いつでも思考は静まり整っていることが理想的です。 感情は即時的でそれ自体が現在の答えのような性質を持っていますが、当然のものではありながら結局は何かの反応にしか過ぎません。 生理的な恐怖のようなものなら、いわば「身体の都合」ということにもなりますが、思考上で起こる恐怖や不安など、所
偏りに対する矯正の提案の一般化
プロダクトアウトに対するマーケットインや、減塩・炭水化物制限などなど、この世の中にはたくさんの提案がありますが、まずこれらは「ある偏りに対する矯正の提案」であることを捉えておくほうが賢明です。 ところが世の中では、何か必殺技があるかのように一つの方法論を一般化する傾向にあります。そしてそれはまた次の極端を呼び、物事をお
情報の整理と情報源
少し前からチョロチョロとブログ内を編集したりしています。まあ鋳直しというか情報の整理という感じになるでしょう。 文字として書き起こす手前にはまとまりとエネルギーがあり、それが言語として具体化されているということになっていますが、それが具体的情報として形なって、さらに配列されていくになると一種の僕の頭の中と同じような構造
倫理と道徳が陥る罠
倫理と道徳が陥る罠ということで、倫理と道徳について触れていきます。徹底的に書いてもいいのですが、深く触れていったところであまり意味を成さないためふんわり書いていきます。 倫理とは、人が生きる上で、理と関係性の中での基準となる行動基準、いわば秩序としての行為の基準という感じです。単純には「人はどうあるべきか」というような
「真理」と「真理とは呼べないもの」
「真理」と「真理とは呼べないもの」について触れていきます。 もちろん「あなた達の言う真理が正しい真理ではなく、私の説が正しい真理だ」というような感じではありません。 真理とは、誰にでも再現可能であり、今すぐに確認できるものであり、誰かの主義や考え方で変更できないようなものです。誰がどう考えたところで揺らぐことのない「理
合理化によって失われた分を何かで補う
合理化が進んだ分だけ何かが失われて、その失われた分は何かで補わなければバランスがおかしくなるということで、結局かけているコストの総量としてはあまり変化がないような気がしたりもします。 ということで、便利になってできた余白は何かに使わねばなりません。でないとただ愚化していくだけになってしまいます。 「求める結果を最短最小
哲学と未成年の感覚
哲学の領域は、哲学を勉強することで完結するものではありません。柔軟な感覚で自ら紐解き、自ら超える領域であるのが哲学領域です。誰かが考えたことをを理解するということも、自らの検討材料として良いきっかけとなりますが、知り、理解することが哲学ではないのです。 そう考えると、最も重要なのは「未成年の感覚」です。哲学に限らず全て
親友からの宗教勧誘とアンチ宗教の終わり
以前に触れたことがありましたが、僕が膨大な量の書物を読み漁るようになったきっかけは、18歳の時の彼女からの宗教勧誘でした。 もちろんそれだけではありませんが、その時人生屈指の集中力を持って考え、考えた結果宗教の教義に対して「価値観が合わない」と話すと大泣きされたという出来事がその後の人生観を大きく変えてしまいました。
一切行苦
一切行苦(いっさいぎょうく)、あるいは一切皆苦(いっさいかいく)について哲学的に紐解いていきます。一切行苦も仏教用語にはなり、諸行無常や諸法無我といった単なる理(ことわり)を表しますが、それら2つに比べてやや「どう生きるか」にわかりやすい側面を持ち、生きていく上での認識のあり方をつかみやすい面を持っています。ということ
八百長の胸算用
世の中のいたるところで出来レースが展開されています。いかに作品に作者が記載されていても、ゴーストライターが書いたものかもしれないという点は、どこまでも疑問として残ってしまいます。 作詞が歌い手名義になっていても、トークの機会を観察する限り、ご本人の気質や語彙力から「本当のところはわからない」と感じるときもあります。 「
無尽蔵の耳学問
ちらっと聞いたり耳にした情報にとらわれている人を相手にする場合、そうした変に固定観念化した知識を壊すことから始めなければならなくなったりします。 マスコミの情報ももちろんですが、そうしたものや井戸端会議などで登場したワンフレーズを変に覚えていたりして、そのフレーズをあまり吟味しないまま解釈していたりして下手に固定観念が
朴念仁と没交渉
日常、特に人と関わりたいということを思うことがありません。拒否することはありませんが、積極的に人と会うということは全くといっていいほど無くなりました。 昔は積極的に人を誘って遊びに行ったりもしましたが、人と会うという空間にそれほど快さを感じなくなったのでしょう。遊びの誘いを断るということはないものの、自発的にこちらから
無頼漢の屁理屈
たいていの人とは難なく接することができるのですが、強烈な感情によって頭が働いていない人を相手にするときは少し辟易したりすることもあります。 なぜなら話が通じないからです。 最終的には話が通じるのですが、「己の都合」しか見えなくなっている人を相手にするときは若干厄介です。 もちろん己の都合を伝えてもらうのはいいのですが、
鉄面皮との天王山
世の中には考えられないほど厚かましい人もいますが、そうした図々しい人の意見を受け入れるべきか否か、というところは少しばかり俯瞰しながら対処する必要があります。 ひとまず騒がれるのも面倒なので、特殊事案として適当に対処するというのもひとつですが、下手にそうした図々しさを受け入れるとそれが基準となり、今後その基準の上で対処
断末魔の長広舌
もう明らかに諦めたほうがいいのにまだしつこくのらりくらり感を出して意味不明な弁明をしているような会見なども多々あります。 ただやはりそれは客観的に見ているからこそ相手が変に見えるだけで、実際の当事者ともなるパニックでまともな思考力を保てなくなるということになるのでしょう。 当の本人も冷静なときであれば自分を客観視して、
先祖の数は想像できないほど多い
占い師や墓ビジネスを展開しているような霊感商法系の人たちはすぐに「先祖」を話題に出してきますが、やはり「知っている対象」程度しか話題に出てこないという感じのことを思ったので少し計算してみました。 「墓場ビジネスと霊感商法」で「どの先祖のことを指しているのか?」ということについて触れていたり、諸法無我などなどで、思考の対
諸法無我
諸法無我(しょほうむが)について触れていきます。諸法無我あるいは諸法非我(しょほうひが)は、仏教用語にはなりますが、諸行無常と同じく単なる理(ことわり)を表すにしか過ぎません。 諸法無我についても仏教的な解説や哲学的なアプローチを行っていますが、仏教的な諸法無我の正確な説明、解説を示し、辞書的・教科書的に終わるつもりは
千里眼への先入観
遠くにあるものが見渡せたり、人の未来が見えたりするという能力は開眼後に発揮される能力であるというような伝承が一部であります。 「そんなことはないだろう」 と思う人も多いと思いますが、少なくとも世の中の「占い師」みたいな人たちのそれはデタラメです。そういえば某カルト宗教の教祖もそのような能力を持っていると自称していました