八百長の胸算用

世の中のいたるところで出来レースが展開されています。いかに作品に作者が記載されていても、ゴーストライターが書いたものかもしれないという点は、どこまでも疑問として残ってしまいます。

作詞が歌い手名義になっていても、トークの機会を観察する限り、ご本人の気質や語彙力から「本当のところはわからない」と感じるときもあります。

「まあわざわざそんなことはしないだろう」という感じなら特に疑いも生まれませんが、「売り出すために凄腕の才能だと演出する」という演出の意図があったりもしますのでなんとも言えません。アイドルではなくアーティストというような雰囲気で売り出したいなどという場合もあるからです。

成功した場合は他人の発案でも自分の名義に

そのような感じで「若社長のご提案で…」などと言いながら、それが成功事例ならば、他人の発案でも自分の名義にし、自分の案が失敗に終わればそれは誰かに押し付けられるか、世間には隠されるという感じのこともよくあるのではないかと思っています。

「成功すれば自分の手柄に、失敗すれば他人の責任に」ということはいくらでもできます。ブラック企業では想像に容易いですし、大企業でも異常に創業家への忠誠を誓わせるような会社は怪しい雰囲気を持っています。

そういえば先日、友人のすすめで映画「切腹」を観ました。その中には、何事もその仔細なプロセスを観察できない限り、事実として伝えられていることも本当かどうかわからない、というような描写がありました。

「細かいところ」にこそ価値がある歴史

歴史の勉強なんかでも、たいてい結果だけが語られており、細かいところは特に触れられることはありません。まあ資料が残っていないという点もあると思いますが、そんな「細かいところ」にこそ価値があるのに、とすら思ってしまうこともよくあります。

細かいところがわからなければ、その結果的なものに関しての信憑性も薄れていくはずです。といっても、その仔細な部分すらフィクションであればもうお手上げなので、結局事実などわからないという感じになるのでしょう。

民主主義正当性と出来レース

正当性を支えるものの一つとして民主主義正当性というものがあります。民主主義的に選ばられたものなのであれば何かの権限を与えてもよいだろうというような感じで、その人のその立場の正当性を投票行為などで支えようというようなものです。

ただしそれは社会的な正当性であって、普遍的な正当性でもなければ哲学的な正しさを帯びるわけでも何でもありません。

そしてそうした多数決的な正しさは社会では結構用いられることが多いので出来レースというものも出てくるという感じです。

出来レースや演出の背景にある「必要以上の価値」

出来レースや演出などが行われてしまう背景には、「外部の人達が対象に対して価値を与えすぎている」という部分があります。

例えば何かの試合で「勝つこと」に対して、試合に挑んでいる当事者たちの広くまた深い意味での楽しみ以上の価値が与えられているという場合です。

切磋琢磨するといった部分も含めた「本人たちの楽しみのため」ではなく、外部の人達の都合が影響していたり、外部からの評価が当事者たちの人生に大きく影響を与えてしまうからこそという感じです。

スポンサー商売であり、推薦で学校に入れたりするスポーツ

身近なところで言えば、スポーツだ何だといったところで、プロ領域になるとスポンサー商売であり、その手前でも推薦で学校に入れるとかそうした構造があり、果ては賭博にまで絡んだりしています。そうしたわけで、スポーツを行う当事者、つまり選手たち以外の人たちとの関連性や、競技そのもの以外との関連性が強すぎるからこそ、時に出来レースなどが行われてしまうのです。

表彰行為があるからこそ人は目標を持って頑張れる、という側面もあるのかもしれませんが、そうしたものに価値を与えすぎるからこそ、出来レースや嘘の演出が行われたりもする、という感じです。

蓋を開けてみれば「何がしたいの?」と思ってしまうようなことでも、金銭や社会的評価が絡んでいるのでそうは言っていられなくなるのでしょう。

個人レベルでスポーツを楽しむという点はいいですが、それに対して社会が価値を与えすぎると「勝つ」というところに注意が向きすぎてしまいます。そして「勝つために」ということで、裏切りや不正も起こってきますし、出来レースや嘘の演出も生まれてきます。

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