無条件の忠誠の誓い
車の免許を取るために自動車教習所に行った時のことです。 「はいはい」と返事すると、「『はい』は一回でええんや!」と中尾彬調の教官に叱られたことがあります。なぜ叱られたのはよくわかりません。 だれにでも同じことを言っているのならいいですが、おそらく教習生などにしか言っていないでしょう。相手がそこそこの大人ならきっと言っていないはずです。 「教えてもらいに来てるんやろ?」と彼は言いました。 すいませんが、あなたは僕からお金をもらっています。 脳筋教官が求める忠誠 なぜお金を払ってまで、忠誠まで誓わねばならないのかよくわ
優美さがない
彼には優美さが欠けており、それが分かっている。おお、何と彼はこれに仮面をかぶせる術を心得ていることだろう! 曙光 266 「イメージ作り」という事を商売にしているような人がいます。ビジネスの場において、好印象を得れるようにその人をプロデュースするといったことのようです。 声のイメージなどもプロデュースすると謳っていましたが、当の本人が野暮ったく、京都で言えば「もっさい」の部類に入るような人です。 その人は、事あるごとにSNSで、高級車を乗っている人の高級車の写真などにコメントを加え、情報操作と、「知り合いにも持って
「主観」の未知の世界
太初の時代から現在にいたるまで、人間にとって非常に理解しがたいことは、人間の自分自身に関する無知である! 曙光 116 冒頭 人間の自分自身に関する無知ということですが、誰かに「自己分析ができていない」と言われることがあっても、そういう時の自己分析など、いわゆるカテゴリの中に自分を当てはめていくだけのことなので大したことではありません。そしてそれは社会的なカテゴリであり、誰かの都合で分類されたようなものです。 そういった人に触発されて自己分析を行い、その時に意識をあるカテゴリの中に当てはめてしまうと、それはそれで様
力の魔物
必要でもない、欲望でもない―否、力への愛こそ人間のもつ魔物である。人間に一切のものを、健康を、栄養を、住居を、娯楽を与えよ。― それでも人間は相変わらず不幸であり、気まぐれであるだろう。というのは、魔物が待ちに待ち、満足しようと望んでいるからである。人間から一切のものを取り去れ、そして魔物を満足させよ。そうすればそれらはほとんど幸福になる。― まさしく人間や魔物たちがなり得る限りの幸福になる。 曙光 262 前半 「力への愛こそ人間のもつ魔物である」ということで、力への執着は一種の魔物です。 「力が欲しい」と思った
従属的な人々のお守り
支配者に従属することの避けられぬ者は、恐怖感を起こさせて支配者を抑制するような何ものかを、例えば正義とか、率直とか、毒舌とかを所持するべきである。 曙光 260 図体だけ見れば、勝てそうにないようなものでも、その対象が意識を持っているようなもの、つまり生命体であれば、意識に働きかけることによって物理的な限界を超えることができます。 社会構造上、支配者に従属することが避けられない場合や組織の大きさに怯んでしまうという場合でも、見方を変えれば想像した限界を乗り越えることができたりします。 実際に起こっている出来事よりも
先取りする人々
詩人的な性格の人々を特徴づけるもの、しかし危険であるものは、彼らが余すところのない想像力である。起こるであろうこと、起こるかもしれないころを先取りし、先取りして享楽し、先取りしてまねき、そして待ちかねた出来事と行為の瞬間になると、もう疲れているような想像力である。 曙光 254 だいたいの事に予想がつくようになると、だんだん何事も楽しくなくなっていきます。想像を超えるものを求めて、もっと刺激的なものを、と求め続けても、それにはキリがありません。そのうち「まあこんなもんだろう」という感覚ばかりばっかりになっていきます
考慮せよ
罰をうける者は、行為をしたものともはや同じではない。彼はいつも罪を贖(あがな)う山羊なのである。 曙光 252 「本を読めば、本を読む前とは別の人間になる」、よく言われるキャッチコピーのようですが、確かにある経験をする前とした後では、当然に別の意識を持っているので別の人間になります。 本を読む前と読んだ後では、意識の中に入っている情報内容が変化するので、少なからずは変化するはずです。 しかし、癖というものはなかなか取れません。 これは、行動の元になった原因が消滅していないと、また同じようなことをするという因子を内在
身近なものがますます遠くなるわけ
家族がいる人には、「家族」というものは嫌でも身近にいてしまいます。離れて欲しくても近くに寄ってきます。 「家族には寄りつかれる」という属性を持っていますが、家族だからといって気が合うかどうかは別問題です。ほとんどの場合は気が合わないでしょう。気が合いすぎるというのも、自分よりも子どもや両親などを優先してしまう要因になるので、適度な距離を置かねばなりません。 近くにいる者同士ほど軋轢が生じるのは当然のことです。国家間一つとっても近隣諸国とは仲が悪いのに、遠く離れた国とは仲がいい、ということはよくあることです。家が隣同
いわゆる「自我」
いわゆる「自我」ということでアイツこと自我について触れていきましょう。 まず、自分とは一体どこにあるのでしょうか? 認識している主体でしょうか? しかし、この主体は受け取っているだけで、しかもこれ以外に認識の間口はありません。 個人という人格は、外部からのラベリングや関連性を示されたもので、カテゴリなどから付けられた様な属性は、属性であって、自分ではありません。以前少し触れましたね。認識の悲劇の終幕 生存本能に支配され、恐怖心にやられ、渇望感は沸き起こり、それを消すことがなかなかできない、やっているつもりがやらされ
現実的なものを喜ぶ
評価は評価として「現実的なもの」として扱われますが、その評価からの喜びは、頭の中で「作り出しているもの」です。喜びも作り出しているのだから、苦しみも頭の中で作り出しているものです。 温泉につかるように直接心地良いというわけではありません。温泉での心地よさも、結局は体からの信号を感じているだけですから、さほど変わりありません。 しかし、どうしてわざわざ苦悩を抱えて基準を作り出し、その基準が満たされた時にだけ喜ぼうとするのでしょうか。 ただでさえ体は自分の意志とほとんど関係なく基準を設けています。その基準は生命維持とし
二つの方向
もしわれわれが鏡それ自体の観察を企てるなら、われわれは結局鏡に映った物以外の何ものをも見出さない。もしわれわれが物を把握しようとするなら、われわれはついに鏡以外の何ものにも到達しない。― これが、認識の最も一般的な歴史である。 曙光 243 一般的な「物の把握」ならばそのような形になりそうですが、視覚情報は光の情報です。慣れれば立体感を消すことも、光としてのみ把握することもできるようになります(空間認識をちょっとだけ突破)。 感覚というものは不思議なもので、前後と上下の空間認識にも大きな違いがあったりしますし、集中
恐怖と知性
恐怖心を抱く度合は、知性のひとつの分度器であるから。そして、しばしば盲目的な怒りに身を委ねることは、動物界がまだ全く近くにあり、それが再び確かな地歩を占めたいと思っていることのしるしであるから。曙光 241 抜粋 ある対象について、それがうまくいくか、どのようなものなのか把握できていれば、大半の恐怖心は和らぎます。「それがうまくいくかどうか」という把握したい気持ちがなければ、恐怖に駆られることもありません。 だからこそ若干大雑把であっても常に今に集中しておくべきなのです。なぜなら、そうした恐怖心は過去の記憶や未来へ
道徳学者への忠告
われわれの音楽家たちは大きな発見をした!興味を引く醜さは、彼らの芸術でもやはり可能なのである! 曙光 239 冒頭 「フックとしての醜さ」という手法が取られるようになりました。違和感を覚えさせることによって、興味関心を惹くという手法です。怒りやがっかりすら使われるようになりました。アイドルにボクシンググローブを付けさせるような手法ですね。 そうした手法を垣間見た時、ふとイワン・シャポヴァロフ氏を思い出したりしてしまいます。 t.A.T.u.とイワン・シャポヴァロフ氏 そういえば、十年ちょっと前にt.A.T.u.とい
名声を憚る
甲。人がその名声を避けるということ、彼に讃辞を述べる者を故意に侮辱するということ、讃辞を憚って、自分に関する判断を聞くのを憚ること。― これは見当たることだし、よくあることだ。― 信じようと信じまいと! ― 乙。それは明らかだし、当然のことだ!一寸だけ我慢したまえ、高慢な貴公子殿! 曙光 224 「憚る(はばかる)」は、差し障りをおぼえてためらい、遠慮することさすようですが、名声を避けるという点については、先日の威厳と恐怖心で触れましたね。これは相手の高慢を避けるという意味で、こちらが高慢になってしまうという一種の
「良心的」な人々
最も厳しく良心的であることに最も多くの価値を認めるのはどういう人間であるか、諸君は注意したことがあるか?多くの悲惨な感覚を意識し、自分のことを自分で心配し、他人を恐れる人々、その内心を出来る限り隠そうとする人々、― 彼らは、あの良心的であることの厳しさと義務の苛酷さによって、他人が(ことに部下が)それによって受け取るに違いない厳しくて過酷な印象の力で、自分自身に畏敬の念を起こさせることを努めるのである。 曙光 233 昔、といっても小学生くらいから「あの人はいい人だ」と言われる人に対して何かの違和感を感じていました
讃辞の中の復讐心
讃辞、つまり褒めの言葉には、皮肉に代表されるように同一コミュニティに属しているかというような確認の属性から、お世辞のように煽てて物買わせようというもの、ただの羨望からの賞賛といった具合に、ただ単には測れず、一律には論じ得ないという属性があります。 皮肉の中には、相手の反応で相手の教養高さを測るというものもありますが、タダ単なる攻撃の場合ももちろんあります。ほめる・ほめられるという関係で自分の力を誇示しようというケースもあります。 讃辞と皮肉 讃辞(さんじ)とは、その字面のごとく賞讃の「讃」であり辞典の「辞」であるた
急速に軽蔑される手段
早口に沢山のことを口にする人間は、ほんの短期間交際しただけで、たとえ彼がもっともなことを口にするとしても、われわれの尊敬を異常なほど大きく低下させる。 曙光 225 前半 早く多くしゃべることは、マイナスだとよく言いますが、早く多くしゃべることには、その奥に様々なタイプの動機があります。マイナスになるのは印象ですが、間を埋めて、相手が理解する前に、何か別の話題に切り替えようというものから、要約力がないというものから、必死の暑苦しさまで様々です。急速に軽蔑される手段ということになりましょう。 早口で話すことついては、
病人の認識について
病人に気を使いすぎると、かえってその人の治りが悪くなるという場合があります。病中のままの方がその人にとって都合のいいケースがあるからです。 そういう考え方の原因は、人にもよると思いますが、特に幼少期の記憶があります。学校はサボれる、テレビは見放題、ジュースとまではいかないがスポーツドリンクは買ってもらえる、周りが優しくなる、というような記憶です。 そしてもうひとつ厄介なのが、医者に通ってよくならないのに、まだ医者にばかり頼るという点です。もう特にできるようなことがなく、痛み止め程度しかしてくれることはないのに、病院
人間と物
なぜ人間は物を見ないのか?彼自身が妨害になっている。彼が物を蔽っているのである。 曙光 438 パスカルが嘆いたように、花の絵は見て実物の花は見ないという不可解な現象があります。目の前にある花を感じず、名作とされた花の絵にこそ関心が向くという、人間だけが持つ変な現象です。芥川龍之介氏が春画を買いあさっていた時に菊池寛氏が「そんなことにカネを使うなら本物のほうがいいだろう」というようなことを言ったことは結構有名ですね。 実際の景色よりも写真が評価され、実物よりも絵が評価され、オリジナルよりもアイドルがカバーした方が売
恐れられる眼
威嚇された時よりも、こちらがギクッとする時の「こちらを見ているの眼」の方が恐ろしく感じる時があります。 それはまさに電車の中で英書を読んでいる人が、その真意を悟られた時です(電車で隣に掛けた客の本)。 世の中には、恐れられているものがたくさんありますが、その相手が「強いかどうか」より、「本気かどうか」の方が重要な事は言うまでもありません。 一見体つきは弱そうな人でも、命がけになればどんな手でも使いますから、そちらのほうが厄介です。 ミナミの帝王で、強面のお兄さん相手に、零細企業の社長が、「社員や家族守るためやったら
言葉がわれわれの妨害になる
言葉に力を与えた時、というよりも意識的無意識的問わず「力があると認めている」時、言葉は力のようなものをもちます。 それが「アイツ騙し」であり、宣言効果であり、アファメーションと言われるものです。言葉を繰り返すことによって、その言葉の影響を利用しようというものです。それは実際の力というよりも、擬似的な力です。 特に「ポジティブな言葉を使おう」という場合、目の前の現象の属性をポジティブなものに解釈するようにフィルターを少し変更するような力です。 言葉によってフィルター変更する 本来無属性の現象を、経験の記憶と恐怖心のフ
狂信が望まれる場合
粘液質の人々は、狂信されてわずかに感激するだけである。 曙光 222 狂信の対象は、いわゆる宗教的なものだけではありません。企業や政治思想、末端はアイドルまで、様々です。 狂信といえば代表的なものは変なカルト宗教ですが、気が狂れているとしか思えないほど熱烈な信仰というものは、愛社精神や政治思想への信奉、アイドルへの陶酔といったものまで様々なタイプのものがあります。 実際にあった話ですが、強烈な寒気を催したことがあります。 昔の勤め先ですが、そこまで大々的ではないものの、変なコンサルか何かに吹き込まれたのでしょうか、
優越への努力
優越感を刺激するものに対する批判への批判としてルサンチマンが使われたりします。つまり弱者の怨恨であり、「僻みだ」と居直るようなことです。 優越に対する批判に対して「それは僻みである」という批判を繰り返すというような感じですが、そういった使われ方もあたっていることはあります。ただ、これは水掛け論であり、「見栄の塊だ」という批判への反論が「僻みだ」というのも、構造上決着がつきません。 「僻みである」ということに対する批判も可能であり、さらにその批判に対する批判も可能であるからです。 優越感を刺激するもの 優越感を刺激す
威厳と恐怖心
儀式、職務と地位上の服装、真面目な顔つき、厳かな眼つき、ゆったりした足どり、曲がりくねった話しぶり、威厳とよばれるもののすべて、これは実際のところ恐怖心をもつ人々の偽装形式である。― 彼らはそれによって(自分を、あるいは彼らが代表するものを)恐怖を与えるものにしようとする。恐怖心をもたない人々、すなわち、もともといつも明らかに恐ろしいものをもっている人々は、威厳と儀式を必要としない。彼らは誇りとする恐ろしいものの徴候として、正直と言葉や挙動の率直さとが評判になり、その上排斥までされる。 曙光 220 坊主がやたらと
気づかれないままでは破壊しない
そもそもは認識の誤謬、錯覚というものから起こる悲劇ばかりですが、単純に日常のモヤモヤというものは、奥深くに眠っている「何か」が引っかかっていることがほとんどです。怒りの本音で触れましたね。錯覚がなくなればすべてがガラッと変わり、一気に消えますが、それは少しハードルが高いのかも知れません。 トラウマはそれが何かがわからないからトラウマと呼ぶのと同じように、無意識レベルでの心配事などなど、その奥にあるものがなかなか見えません。 理由が見えにくいモヤモヤ モヤモヤは自分が意識して思っている思い込みによるものもありますが、