メソメソ男子 改

純粋に悲しいだけならすぐに泣けるものですが、「虚しい」「寒い」が入り混じることがたまにあります。

そういう時は泣きたくても涙も出ず、なかなか気持ちが悪く、またなかなかすぐには感情が消えてくれない時もあります。

一時期、全く泣かないような頃がありましたが、「もしかしたら感性が鈍っているのではないか」と、無駄に不安になった時もあります。

僕はたまには「泣きたい!」と思う時があります。悲しいからでも辛いからでもなく、なにか奥底でくすぶっているような感情があるような気がするからです。

頑張っている姿と虚しさが組み合わさった時

そして、私事ではないものの、泣きたくなるような他人の姿を見て、代わりに泣きたくなります。それを感じるのが、「頑張っている姿を見せられた時」です。

ここ数年、たくさんの虚しいストーリーを実写で体験しました。心のどこかにその時に感じたエネルギーが停滞していて、僕の内部をぐるぐる循環しています。

普通は泣いて済ませられるものが多いのですが、どうも泣きたくても涙が出ません。そんなストーリーたちを何かの形で昇華させようと思います。ということで、いずれ別の場で、何かの作品にしてしまおうと思っています。

頑張っている姿

モテのコーナーなので、モテの代名詞とも言える「頑張っている人はカッコイイ」というものについて少し触れていこうと思います。

脇目も振らずに何かに集中しているさまは、男女問わずにカッコよさを感じるものですが、「頑張っている姿はかっこいいのだ」ということで、頑張っている姿を人に見せようとします。

カッコイイとされるのは、「脇目も振らず」という条件があるはずなのに、「こちらを見てください」という姿勢で脇見運転をしています。

集中している顔は、それが「バレてしまったとき」がカッコイイ、と呼べるはずなのに、バレるように仕向けていくのだから絶望的です。

ただ、僕がもっと感情を揺さぶられるのは、虚しさです。

一生懸命

たとえば、一生懸命に作ったものが一切売れなかったとき、それはそれでいいのですが、そこに思い入れがあったと思うと、それまでの一生懸命が苦しさを感じさせます。

たとえば、ニートが脱ニート、営業さんになったとしましょう。

それまでの堕落した生活を払拭するために、一生懸命に商品の勉強をし、一生懸命に仕事をします。

そして、ようやく社会に溶け込んだと思った瞬間、自分が売っていたものは「詐欺的商品」だったことに気づきます。

自分の「一生懸命さ」を買ってくれたお客さんに申し訳ない気持ちになります。

同時に社会復帰を果たしたことを喜んでくれた、身の回りの人たちにどう説明したらいいかわかりません。

気づいてしまった瞬間から、以前のようには一生懸命になれません。

そんな時、営業成績優秀で表彰され、ボーナスが出たりします。

諸手を挙げて喜べない自分に気づきます。

そんな時、泣きたくても涙が出ません。無理に泣いてやろうと思っても、涙は出てくれません。

どうしたらいいのでしょうか。

自分の感情に従い、自分の行きたい道を探すことです。

それでも、まだ気持ちは残ります。ただ、気持ちに嘘をついてはいけません。周りの理解は不要です。

そんな詐欺的な会社を全滅させるため、起業し、シェアを奪えばいいことです。

その時には、苦しんだ分だけエネルギーになるでしょう。

直接、戦う必要はありません。

まともな会社だらけの市場に、そんな会社が入る余地を与えなければいいのですから。

過去記事⇒メソメソ男子

Category:さよなら私 / モテないが正しい

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