徳としての高尚な残酷さ

優越への衝動に全く依存している道徳がここにある。― それをあまり立派だと考えてはならない。

― まさしく彼が自分の残酷さをぶちまげてやりたいと思うある人々がいる。そこに偉大な芸術家がいる。彼が偉大になるまでは、征服される競争者の嫉妬心を痛切に感じる快楽が、彼の力を眠らせなかったのだ。― 偉大になるために、彼は他の人々にどんなに多くつらい瞬間を支払わせたことだろう!修道女の純潔。彼女は何という非難のこもった眼差しで、違った生活の女性を真面(まとも)に見ることだろう!この眼差しには何と多くの復讐の快感があることだろう! 曙光 30 抜粋

修道女の件については現代でいうところのロハスな人です。

「修道女の純潔。彼女は何という非難のこもった眼差しで、違った生活の女性を真面に見ることだろう!この眼差しには何と多くの復讐の快感があることだろう!」

ロハスな人は今一度、この箇所をよく噛み締めたほうがいいでしょう。復讐の快感が潜んでいないか、自らの心を見つめるといいでしょう。

表舞台には出ない一流の存在

ニーチェは「嫉妬心を痛切に感じる快楽が芸術家を育てた」というふうに言いますが、そんな芸術家は二流以下ではないでしょうか。

彼の生きたヨーロッパにはそういうふうに感じざるを得ない人が当時たくさんいたのかもしれませんが、明らかに「競争していない」類の人達がいます。

「競争していない」類の人達

腕は確かなものの、他の誰とも競争していない、武道を極めれば結局戦わない、というようなもので、日本の文化の中にはたまに見受けられます。

そのような感じで本質的には強くても「競争していない」類の人達もいるはずです。

表舞台には出てこないだけで、テレビに出る格闘家や世界の舞台で戦う人より強い達人がいるかもしれません。

わざわざ表に出ない

「そんなに強いんだったら、どうして世界選手権に出ないのか?」と思ってしまうのは、競争することが人を成長させるとアイツに騙されている人たちの世界の話で、達人はそういうことに関心がないだけかもしれません。

競争世界が当然であると思い、強さがあるのならば競争の世界に入ってトップを目指すのが当然だろうというようなことを思う人ばかりだけでないという感じになります。

ということで「わざわざ表に出ない」というタイプの人は結構いるのかもしれません。

ロハスを主張する人のルサンチマン

ロハスを主張する人は捻じ曲げられた道徳のようなもので、「そういう本来的な暮らし方を選んでいる自分たちは優れている」と「周りに主張」して、「優越感を得たい」という、最初に引用したようなことで、「基準を変える」というニーチェ風に言えばルサンチマンの典型例です。

それは復讐の快感が含まれた非難の眼差しがあるからです。そこには解釈変更により復讐をしているという奴隷精神が見出だせるでしょう。

優越感自体が自尊心の回復の方向性を持っているため、異なる価値基準をもって優越感を得ようとする試みは、怨恨感情を保持しながら解釈変更を行うという構造が揃っています。それを周りに主張する場合はもちろん、周りに主張しなくてもそうした意志を保持している事自体がルサンチマン的になってしまいます。

解釈変更による「復讐」の快感

修道女にしろ、ロハスな人にしろ、自らの価値基準に従って、その価値基準に合致しない人は排除しようとする傾向があります。

しかし、その排除は合理的なものというよりも、優越感であり、解釈変更によって「自らを尊い存在だと思いたい」ということの表れです。

「修道女の純潔。彼女は何という非難のこもった眼差しで、違った生活の女性を真面に見ることだろう!この眼差しには何と多くの復讐の快感があることだろう!」

「復讐」のような動機

そこには一種の虐げられた奴隷精神からの「復讐」のような動機も内在しているのかもしれません。そしてそこには優越感という快感があるということでしょうか。

この快感は、自分で決めて、自分で勝手に「勝った」と思っているという自作自演ゲームです。そこには手前にどこか劣等感があり、その克服をしなければならないという動機があります。

そのようなことで、「優越への衝動に全く依存している道徳がここにある。― それをあまり立派だと考えてはならない」といったところでしょうか。

わざわざ何かに「勝つ必要」などありません。

徳としての高尚な残酷さ 曙光 30

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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