際限のない「何をどこまで」を防ぐ表現
良いことと悪いことを考える時、通常の加点方式で考えてしまうと限界がなく「これでよし」という定義ができません。 「この心が苦しみを受け取る」という視点から考えた場合、いわゆる幸せ的なものは加点方式ではなく「本来の完全で理想的な状態を阻害しているものを削ぎ落としていく」という構造になるはずです。 「対人恐怖と人間不信への対処」や「この世界のささやかな全て」などで善行為的なことについて「表面的な作為のみならず不作為すらも、不善ではないという事自体が、絶対値的に差分だけ与えられたということになる」という感じのことを書いたこ
妄想は感情を知識がこじつけることで生まれる
妄想は感情を知識がこじつけることで生まれるということで、謎のスピリチュアルとかカルト宗教のカルト臭い論理と感情について少しだけ触れておこうと思います。 世の中にはそうしたものに違和感を感じている人も多いと思いますが、それでも一定数気が狂れたように盲信している人たちもいます。 そうした霊魂系の話は、多少なりと具体的に示し得ないメタ領域的な要素を含んでおり、具体論で論駁しても示し得ない領域のため決着がつきにくかったりします。そして、なぜかつじつまが合っているようなこともあるのでさらに論駁がしにくかったりもします。 また
起こった出来事に対する処理と今後の予防
社会における物事の善悪や正義的な判断には、処理と予防という視点が必要になります。いわば非難する側される側といった人達の間にある紛争においても「起こった出来事に対する処理」の意味合いと「今後の予防」としての観点を検討するのが一番です。 そしてその対象範囲を個人間という範囲、そして社会全体という範囲、それぞれで俯瞰しておくとすぐに解決するはずです。そうしたメリットを知ってか知らずか、こうした点はかつて暗黙の了解的であった印象があるのですが、あまりにも自己という視点のみしか見えていないような印象を受けました。 単純には言
頻発した自転車トラブル
令和に入ってからというもの、家族たちに若干のトラブル的なことがよく起こりました。といっても自転車トラブルで、一方的に被害を受けるような感じのことばかりです。 それもなんだか変な感じで、一昔前ならあまり起こり得なかったような事柄ばかりです。少し全体を見れば問題点もすぐに発見できそうなことばかりで、いかに加害者が近視眼的かということがよく分かるような事例ばかりでした。 ― 以前までは前に出てこなかった人たちが変に前に出てきたり、責任感があったであろう人たちが責任回避をしだすという部分などが影響しているような気がします。
物事の完璧さプロの定義
物事を完璧にこなそうと思っても、やはり多少はアラが出ます。 完全な状態を目指すというのはいいですが、あまり根を詰めるとその分緊張するので、結果的にミスを生み出してしまったり、カリカリして空気が悪くなったりして物事がうまくいかなくなってしまうことがあります。 ― 小学生の時はテストが簡単だったので「100点中100点でクリア」という感覚でした。が、中学生くらいになってから、平均点云々の話になり、テストは100点じゃなくても良いという感じだったので、「そうかぁ、100点じゃなくていいのかぁ」ということを知りました。 そ
目の痛みによって体がパソコンから逃げる
どうも昔から何事もスイッチが入るとやりすぎる傾向にあり、今までの間も何度か「過労によって体が震える」というような感じを経験しています。 先日から、公私共に気持ちだけはずっと前のめりでしたが、目が限界に来たようで、体がついてこないというか、パソコンなどの光から体が逃げるという感じになりました。 先日読んだマキバオーにちなみますが、感覚的にはラストの直線で一杯になった競走馬のような感じです。 以前に雪目になった時に日差しによる目の痛みを経験したので、この季節は好きでもないサングラスをかけることにしていて、多少目の痛みは
第1500回投稿記念
これで1500記事目になります。ブログ創設から1500回目の投稿ということで「第1500回投稿記念」です。 前回の第1400回投稿記念は、2018年12月2日で、前回からの100記事は、半年くらいかけて投稿したという感じです。通常投稿ばかりだとやはり緩やかですね。 さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。 また、contactからご連絡いただいた方、投稿にコメントをいただいた方、ありがとうございます。たくさんの気づきがありました。 それではおなじみのアクセス解析から見るアクセス状況から投稿記念の回を進めてい
動物愛護からみる人のあり方
動物保護と虐待といったコントラストによって、倫理的な人のあり方が見えてきます。 「Finn’s Lawと動物保護の意識」で触れていた「フィン」の活躍の動画を観ていると、関連動画で動物保護団体の活動の動画が出てきました。 すると関連動画で日本語で再編集された動画が出てきたのでいくつかご紹介しておきます。 どうやら日本語で再編集されたものは削除されたようですので、元となっていた動画を探して見つかりしだい再設置します(記憶を元に探すためなかなか見つからないかもしれません)。 Hope For Paws 動物を虐待するのも
突然現れたマキバオー
ゴールデンウィークのある日、起きた途端に頭の中で「走れマキバオー」が流れ始めました。 するとその日は一日「んあ?」という感じになります。 走れマキバオーを観ているだけで、マキバオーやカスケードはもちろん、「あ、モーリアロー」とか「サトミアマゾン!」「アマゴワクチン!」「んー・・・ニトロニクス!」「ベアナックルやん」という感じになり、やはり登場馬の名前を忘れていない自分がいました。 なんだかんだで僕たちが小学生の頃はダビスタとみどりのマキバオーの影響によって、小学生ですら競走馬の血統を語れるくらいの時代でありました。
Finn’s Lawと動物保護の意識
つい一ヶ月くらい前のことですが、BBCによると、イギリスで動物保護法の改正案が上院でも可決され、ひとまずイングランドとウェールズで適用されるようになったようです。 Finn’s Law: Stabbed police dog law given Royal Assent Finn’s Law(フィンズ・ロー)と呼ばれるこの改正案は、内容としては、警察犬を傷つけた場合の適用法が器物損壊罪のみであったところを、動物保護法の上で罰することができるようにするためのものです。 外国法なので詳しくは知り
うさぎのファミリー認定と食による馴致
養子のうさぎが教えてくれたファミリー認定の厳しさについてでも触れていきましょう。 うさぎが亡くなってしばらくが経ちますが、彼のファミリー認定が著しく厳しかったことを思い出したりします。 これは、愛情表現として舐めてくるという行動をすることをもってファミリー認定と考えた場合、その認定基準がかなり厳しく、末期に世話をしていた父や母ですら最後まで舐められたことがなかったという感じでした。 その線引が一体何だったのかを考えると、やはり下の世話あたりになるのではないかということを思ったりします。 元気な時であれば小屋の掃除、
平成から令和へ 一応振り返る平成
令和になりました。平成から令和に変わったので、「一応振り返る平成」といった感じでちょっとだけ平成について思い返してみようと思います。 こうしたタイミングに反応するというのも微妙ですが、一応数十年に一回なので触れていこうと思います。 ひとことでも触れていましたが、僕は昭和生まれなので、昭和・平成・令和を経験していることになりますが、僕より年上の人たちは昭和を経験しているので僕たち世代だけが特別なわけでも何でもありません。昭和から平成とか、世紀末・ミレニアム・21世紀という節目もあったので、あまり盛り上がりません。また
偉大なるセキセイインコのプーコちゃん
この季節、春から初夏にかけての陽射しを浴びると、セキセイインコのプーコちゃんのことを思い出します。プーコちゃんはメスのインコであり、僕にとってはお姉さんのような存在でした。 人生で一番誰かを応援した瞬間は、今でもプーコちゃんが卵を産んだ瞬間です。諸手を挙げて応援していていました。 その時産んでくれた卵は無事に孵り、ひなが生まれました。 大好きなピーコちゃん(オス)とプーコちゃんの子どもです。 ピーコちゃんにお嫁さんがやってきた 小学生の頃、ある時家の近くの会社に勤めるおばさんが、メスのセキセイインコを連れてやってき
あまりに無防備なモンカゲロウ
先日、家の裏にカゲロウがいました。モンカゲロウです。 弱すぎる上に短命なことで有名なカゲロウですが、幼虫の時は水中で生活していて、亜成虫という不完全変態を経て自然界最弱級の成虫になるという感じです。 しかし「水辺でも何でも無いのに何でこんなところにいるんだ?」という感じです。 きっと車とか自転車とかに張り付いたりなんかして移動してきたのでしょう。 きっとそんな感じでやってきたであろうモンカゲロウは、天敵に対して「どうぞ発見してください」と言わんばかりの目立つ場所にいました。 「保護色という考え方はないのかね?」 と
倒木した桂川~天神川の桜と社会
先日、桜の季節ということで桂川の方に行きました。 いつもの菜の花スポットですが、そこには桜並木があり、ほぼ毎年のように行ったりしています。しかし、桜の季節は比較的人が多いので、桜が散った後に菜の花を見に行くことが多いという感じです。 ただ今年はちょうど桜が満開の時期に暖かい晴れの日が訪れてタイミングも良かったので、多少の人の多さを覚悟しながら桂川の方に行きました。 桂川と天神川が合わさる手前の場所で、厳密に言うと天神川の方なのですが、やたらと人が多く、「うーん…まあ仕方ないだろう」と思っていました。 桜並木の方に行
骨格と装飾と問題
文章と音楽は全く別物かのように見えたりもしますが、知っている人は知っているように、骨格と装飾といった感じで、中心となる部分とオマケの部分があります。 また、そこにある美しさは、フィボナッチ数列から導かれる黄金比のような法則性もあります。そういうわけで、本来文理芸は切り離されているものではありません。 言語なら言語的意識、音なら聴覚といったように、美術なら視覚といったように、どの次元で表すかとかどの次元で捉えるかというだけの違いで本質的にはそれほど違いはありません。 骨格となるものと装飾的な部分についての差は、文章で
爆笑して起きてしまうゆかいな夢
僕は今なお夢に爆笑して起きてしまうことがあります。 月に一度以上はそんな感じで起きてしまうのですが、ゆかいな夢で爆笑し、愉快な気分で目が覚めます。 つい先日は、養子のうさぎやインコのピーコちゃん、ガチョウの雪雄や鹿の王などを筆頭とした仲の良い動物や鳥、以前に保護したアシナガバチや逃した米びつ虫をはじめ、ひっくり返っているところを起こした虫たち、宝ヶ池の鯉たちなどの魚類、家に現れたヤモリなどの爬虫類、それに家にいる植物たちなど、ありとあらゆる生き物たちに全身を覆われ、愛情表現的に舐められたり体を這われたりしながらくす
ある人にとっての「面白い」が、ある人にとっては「面白くない」のは、なぜなのか
ある人にとっての「面白い」が、ある人にとっては「面白くない」のは、なぜなのかという点についてフロイト的にでも触れていきましょう。 世間では、あることを面白いと思う人がいる一方、そのことを面白くないと判断する人たちもいて、両者の中で軋轢が生まれたりもします。その様子自体が若干面白いのですが、無駄な争いですし、「この心」として怨憎会苦を得ないためにも、その構造を理解しておいたほうが良いのではないかということを思いました。 笑いの要素は、緊張の緩和や間や特異性など多岐にわたりますが、重要な要素として「抑圧の解放」という要
祝五周年
本ブログも五周年を迎えることになりました。ちなみにこれで1480記事目になります。今回も祝四周年の時と同様に、単純に祝五周年というタイトルです。 「五年経つとこんな感じになっているのか」という感じです。 祝四周年の時点で、1140記事だったのでこの一年で340記事を書いたことになります。書庫の増設等もありましたが、この一年もまあまあ書いた方になるのでしょう。 さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。コメントを寄せていただいた方やcontactからご連絡を頂いた方、また、ひっそりと読んでいただいている方々、あ
日々を彩るアウラと駄アウラ
なんだかんだで年数回旅立ったりしていますが、日常これといって刺激を「求める」ということはありません。元々怒りが強く排除の方に気が向くくらいであり、かつ、放っておいても刺激はやってくるので「不足している感じがない」という感じです。 で、勝手に刺激は展開されていってしまうので「日々を彩るアウラと駄アウラ」といった感じでそんな日々の様子について触れてみます。 「駄アウラ」とは僕が勝手に呼んでいるものですが、元はアウラから来ています。駄菓子から得ることが多いので駄アウラと呼んでいます。 アウラの喪失 「アウラ」は、ヴァルタ
ピアノの先生と幼き日の弱さ
なんだかんだで小学一年生から六年生までピアノを習っていました。 きっかけは何だったかはっきり覚えていませんが、「ピアノを弾きたい」と父に言うと、数日後家にピアノが届き、さっそく近くのピアノ教室に通うことになりました。 最初の1年くらいは多分楽しかったと思いますが、その後すぐに辞めたくなりました。 なぜならピアノ教室の先生と合わなかったからです。 あと幼い頃にはありがちですが、小指等々の指の痛みが辛いという部分もありました。 しかし嫌々ながらも六年生まで通うことになります。 その理由は幼き日の僕の弱さにありました。
内発性と自発性
一見同じように見えてしまう「内発性」と「自発性」は、似て非なるものであり、「内発的」と「自発的」というものも異なる概念です。 まあ言葉の定義というものは、各々の方々によって違ったりしますが、ここでは、アリストテレス的に内発性と自発性について少し触れていきます。先程、類語について触れていたのでそのついでです。 世の中では内発的動機づけと称しながら、人をマインドコントロールしようとする人たちがいます。新入社員研修などでもありがちです。 その内発的動機づけという言葉における内発的という言葉は、おそらくアリストテレスが言っ
谷野杢蔵(歌の勝ち負け)
ついでなので、いかにも昔話的で、できれば日本昔ばなしでやって欲しい感じのお話もありましたのでご紹介しておきます。 現在ところ検索しても一切出てこない感じなので、おそらく「まんが日本昔ばなし」にはない作品だと思います。もしタイトル違いなどで類似作品があったら誰かに教えていただきたいくらいです。 三人馬鹿に引き続き、もちろん今回のお話も、以前にご紹介した「ふるさと和気 民話編」の中のお話であり、投稿の中でもタイトルだけご紹介していた谷野杢蔵(歌の勝ち負け)です。 爆笑する系ではありませんが、いかにも昔話の雰囲気があり、
三人馬鹿
古い土着の昔話の中には、非常に良い示唆に富みつつ、非常に洗練されているものが見つかることがあります。 それもまた「名もなき方が作り出した」というところに魅力があります。 そのような感じで、以前にご紹介した「ふるさと和気 民話編」の中から僕が爆笑した僕好みの昔話をご紹介します。 民話・昔話の類型としては、笑い話となっていますが、笑い話を構築するにはロジックの揺れを押さえる必要があります。 子供相手にはちょうどいい論理展開ですし、それに加えて認知バイアスの問題も含まれているということで、分解すると奥深い感じになっていま
その時間を無かったものとして扱う人たち
世の中には平気で遅刻したり、残業代や取引代金を支払わなかったりする人がたまにいます。僕としては信じられませんが、いくら世の中が変化していこうが、未だにそうした人たちがいるようで、その様子が耳に入ってきます。 それら人たちのその行為は、要約して言うならば「その時間を無かったものとして扱う」ということです。 約束の時間にこないということは、その時間に来ていた人たちの待ち時間というものをまるで無かったかのように扱っているということになりますし、残業代を支払わないということは、働いた人の時間、働いていた時間を無かったものと