谷野杢蔵(歌の勝ち負け)

ついでなので、いかにも昔話的で、できれば日本昔ばなしでやって欲しい感じのお話もありましたのでご紹介しておきます。

現在ところ検索しても一切出てこない感じなので、おそらく「まんが日本昔ばなし」にはない作品だと思います。もしタイトル違いなどで類似作品があったら誰かに教えていただきたいくらいです。

三人馬鹿に引き続き、もちろん今回のお話も、以前にご紹介した「ふるさと和気 民話編」の中のお話であり、投稿の中でもタイトルだけご紹介していた谷野杢蔵(歌の勝ち負け)です。

爆笑する系ではありませんが、いかにも昔話の雰囲気があり、まんが日本昔ばなしでありそうなストーリー展開だったので、一度読んだ後に勝手に頭の中で「まんが日本昔ばなしバージョン」が再生されました。

昭和45年(1970年)に聞き取りされたものと、平成11年(1999年)に老人会会報で紹介されたものとの2パターンがあり、人の記憶と印象、そして文体の差にすら面白みを感じたりしました。

こんな昔話と不意打ちで出会ったりすることが旅の醍醐味のひとつです。

谷野杢蔵(たにのもくぞう)

昔、谷野杢蔵いう人があった。その人は、村を回って、よその頼まれ仕事ばっかりしょうたんじゃ。

「今日は山へ行ってくれんか。」

「へえ、よろしゅうごぜえす。」

「今日は肥持ち(糞尿を田畑へ運ぶこと)をしてくれんか。」

「よろしゅうごぜえす。」

「今日は田んぼを打って(耕して)くれえ。」

「へえ」いう具合に、よそへ頼まれて行きょうた。

村を次い次いやっていきょうたところが、ある村へ行ったら、

「今日はな、すまんけど肥持ちをしてもらいてんじゃでn、肥かたぎをしてくれんか。」いうて言われた。

「へえ、なんでもやりましょう。」いうて、まあ肥持ちをしょうった。

ところが、田の岸に、この村の分限者にな、当家の娘の句に勝った者があったら養子にしちゃるということを書いて、板に張ってあったそうな。それを見て杢蔵は肥たごを投げてえて、その家へとっとっとっとっ行った。

「こんにちは。こんにちは。」

「どなたですが。」

「わたくしゃあ谷野杢蔵というもんでごぜえす。当家のご令嬢の句に勝ったものがあったら養子にしちゃるちいうことを書いてあったように見受けました。本当ですか。」言うたところが、二階から、

「天より高く咲く花に 目ども掛けなよ 谷のもくぞう」というたそうな。そしたところが、杢蔵が、

「天より高く咲く花も 落ちりゃ木の葉の下になる」言うた。それで、今度は娘がいうことに、

「何をいうても、くそ食い烏」

「なんぼくそ食い烏でも 両羽そろえて翔つときは 五重の塔も下に見る」と、こう言うた。

そこで娘さんどうしょうもねえが。

「養子になってもらいましょう」いうことになって、杢蔵は養子になったんじゃ。

語り手 和気町室原 国友愛治さん 明治二五年生

聞き取り 昭和四十五年一月十五日

話の型 むかし語り、婚姻(婚姻の成就)、歌婿入り―ごもく型

ふるさと和気 民話編 p.26

編集 和気町文化財保護委員会 発行 和気町

谷野杢蔵(歌の勝ち負け)

子供の時聞いた話を思い出しました。

あるところに庄屋さんがありましてな。そこに一人娘できれいな、歌の好きな勝ち気なお嬢さんがおられましたそうな。

庄屋さんは娘さんのお婿さんを探しておられましたが、何度見合いをしても娘さんの気に入りません。娘さんの申されることに、

「私と歌比べをして、私を負かした者なら婿にしてもよい。」とのことでした。このことが村中に聞こえ、

「我こそは庄屋の婿になろう。」と大勢集まりました。

一番末席に、庄屋の奉公人(下男)の谷野杢蔵さんが座っていました。娘さんは一目見るなり、大きな声で

「天より高う咲く花に 目なぞ掛けるな 谷野杢蔵」と怒って詠みました。すると杢蔵さんが一首返しました。

「天より高う咲く花も 落ちりゃ木の葉の下になる。」

これを聞いてお嬢さんはますます怒って

「何を言うても、糞食い烏」とどなりました。すると杢蔵さんがまた返しました。

「いかに糞食い烏でも 両羽そろえて飛ぶときは 五重の塔を下に見る。」

お嬢さんはいつまでたっても返し歌の句が出ません。

娘さんの負けということになり、約束どおり勝った奉公人の杢蔵さんが庄屋の婿になったというお話です。

筆者 和気町 室原老人クラブ員

出典 平成十一年 和気町老人会会報「ふれあい」二九号

話の型 むかし語り、婚姻(婚姻の成就)、歌婿入り―ごもく型

ふるさと和気 民話編 p.27

編集 和気町文化財保護委員会 発行 和気町

アナログなアニメーションで味わいたい

「谷野杢蔵」に関しても全文そのまま引用させていただきましたが、このお話は雰囲気的に「まんが日本昔ばなし系のアナログなアニメーション」で味わいたい質感があります。

国語表現としての敬語に少し違和感のあるものもありますが、それもそれで味として良いでしょう。しかし、きれいな国語表現と作品の質感は時にぶつかる時があります。

あまりにきれいすぎると言語的な意味は通じやすくなりますが、話自体の時代的な匂いや時に語り手の持つ雰囲気の部分が消えてしまいます。

谷野杢蔵は、「アナログなアニメーション」で、ゆったりしたペースで聴きたい感じです。こんな昔話と出会うと、読むスピード、テンポも楽しみの一つだということを再認識します。時に間延びしたような超スローテンポがよく似合うお話です。

Category:miscellaneous notes 雑記

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