骨格と装飾と問題

文章と音楽は全く別物かのように見えたりもしますが、知っている人は知っているように、骨格と装飾といった感じで、中心となる部分とオマケの部分があります。

また、そこにある美しさは、フィボナッチ数列から導かれる黄金比のような法則性もあります。そういうわけで、本来文理芸は切り離されているものではありません。

言語なら言語的意識、音なら聴覚といったように、美術なら視覚といったように、どの次元で表すかとかどの次元で捉えるかというだけの違いで本質的にはそれほど違いはありません。

骨格となるものと装飾的な部分についての差は、文章で特に文語体で記述されているようなものであれば、なおさら簡単です。

もちろん日常では、それが曖昧でも意志の伝達には特に問題が起こらないので放置されている感がありますが、そのあたりを感覚的に取り扱わずに、原理原則を押さえておくと、八割方のことは難なくこなすことができます。

とりわけ学校の勉強や入試、資格試験程度なら答えが決まっていることなので楽勝です。

ただ、言語と音という次元の差だけなので、音楽が得意で言葉は苦手という人でも、言語に慣れれば必ず論理的整合もうまくいくようになりますし国語表現もキレイになっていくはずです。

要約すれば骨格が見える

どの部分が中心となる部分で、どの部分がオマケなのかを見抜くのは簡単です。

それは長文の中で3語か4語くらいに要約して成り立つようにしていけば自ずと見えてきます。

僕は明日の朝、家を出て徒歩で〇〇駅まで向かい、地下鉄に乗って京都駅に行く。

なら、

僕は明日の朝、電車に乗って京都駅に行く。

でちょっと要約、

僕は明日の朝京都駅に行く。

くらいでだいたいオッケーです。

僕は京都駅に行く。

明日の朝、京都駅に行く。

でも前後文脈から主語やいつの話なのかを推測することができますが、一文のみならわからないという感じになります。

装飾がしたければ、「朝の通勤通学ラッシュに耐えながら」とか、具体的な路線名とか細かな時間を挿入すればよいという感じです。

この時要約するにあたって、

家を出て徒歩で地下鉄に乗って

でも前後に文があるなら意味をなしますが、

装飾ばかりで組み立てた場合、

朝7時台の通勤通学ラッシュに地下鉄東西線

では、骨格となる文があった上で、装飾する場合なら通用しますが、それだけでは、何がいいたいのかぼやけてしまいます。

コード進行的に見る文

で、こうした文の組み立てというものは、よく見てみると音楽とよく似ています。

骨格となるのがコード進行のようなものです。

でも単にコード進行のまま奏でていっただけでは、音楽としては味気ないものになります。

コードとコードの間をなめらかに撫でるように音を繋げていってもいいですし、コードのキーとなる音を頭にしなくても、三度二度一度と三度から始めてもいいわけです。

五度を鳴らしてもいいわけですし、崩すようにセブンスでもいいわけです。

コードの基本に忠実でもいいですが、それを中心として置いたまま、思いっきり崩しても成り立ったりします。

明日の朝が基本の三和音のメジャーコードだとしたら、明朝(みょうちょう)で、一度・五度の二和音になるようなものです。

そのように考えていくと、あえて言葉を抜くことと休符を聴かせることはよく似ています。

また、方言は民族楽器の音色のようなものです。

そんなふうに考えていくと、音楽のことを理解している場合は、言語のことも必ずより理解できていくはずです。

試験など本来は簡単なはず

基本的な法則の理解とそれにまつわる「当てはめていく単語等の概念」がしっかりしていれば、人が作った問題を解くくらい簡単であるはずです。

問が解けないのは、法則を理解していないか、当てはめるものを覚えていないかくらいでしかありません。

そんな感じなので世の問題の八割くらいは、それらを押さえれば何とでもなります。

全体像が見えていないのか、法則を理解していないのか、情報が足りないかくらいでしかないという感じです。

ある問いを解こうと思った時、2つの法則を使わないと解けない問題に対して1つしか知らなかったり理解していない場合は解けなかったりしますし、「もう一つの方の法則」の存在自体を知らない場合も解けなかったりします。

そうした時は「2つの法則を使わないと解けない」という全体像が見えていないという感じです。

帰納法で導き出していきつつ演繹法で解いていくような感じですね。

また、試験くらいならそうしたもので解いていくことができますが、形而上学的領域になったり、社会的な問題であっても相反する2つが同時に成り立つ場合、試験を解くような解き方では解決したりできない場合があります。そんな時には弁証法的な抽象化などを用いていく必要があります。

ただ、人が用意した問題とか、日常の問題程度ならば、そこまでしなくても概ね何とでもなります。でもそれでも日常にも稀に二割の方の問題が出てきたりします。

しかしながらよくよく観察していると、二割の方の哲学的問いではなく、単に八割の方が曖昧になっているだけだったりします。

コアとなる部分が曖昧

骨格、つまりコアとなる部分が曖昧だったりするとぐちゃぐちゃになったりすることがあります。

全てを構造的に捉えることはできませんが、ほとんどのものは概ね根本的な構造をモデル化して考えることができます。

事業でいえば、事業の目的としては、収益を上げることとか社会貢献とか雇用の創出とか色々なことが言えますが、基本は収益が黒字でないと始まりません。

そしてそれの基本は、売上を上げることくらいです。

そして売上を上げるにあたって、販売と営業とかそうした分類をすることができます。

で、営業一つとっても、飛び込みからテレアポからマーケティング的な反響型まで様々な営業方法があります。

そんな中、何かしら広告を利用していたとしましょう。

で、ある広告媒体を利用していたものの効果がジリ貧になってきた、と。

そこで近視眼的になると、次はどの媒体にするかとか、どんな表現にするかとかそんなことばかりになっていますが、大前提は売上を上げることなので、根本的に広告に執着する必要すらないのです。

分業化が進み「部署ごとで頑張れ」ということになっていると、そのあたりが曖昧になってきます。

リサーチ会社に費用を払ったり、様々な機械を導入してデータを集めたりしつつお客の動向を見て改善する、というのもひとつですが、中央集権的にデータに依存して後はアルバイトさんに任せるという感じの方法を取らなくても、全員正社員で意識を高めて目の前のお客とコミュニケーションを取り、本音を抽出して改善していくというのでもいいわけです。

部署ごとに頑張れという感じで、各々が部分的な権限の中、部分的な責任を感じながら進めていくとそうした大掛かりな発想は出てきません。

「自分たちは結局何がしたいのか?」

ということを考えれば、一応は「収益を上げたい」というところが中心になるはずです。いくら社会貢献だとか、仕事を通じた自己実現だといったところで、会社が潰れれば元も子もありませんので、収益に関する部分はパスすることができません。つまり骨格です。

会社としてのコアな部分もあれば、売上に関する骨格も、財務に関する骨格もあります。細分化してくことはできますが、それぞれにもパスすることのできない「コアな部分」があります。

そのあたりが曖昧になっていると、ぐちゃぐちゃになっていきます。

オマケの部分にしがみついて土台から崩れてしまうということが起こりうるという感じです。

売上があっても実際に代金の回収をしないと潰れてしまいますし、回収タイミングがずれて資金繰りがショートすれば潰れてしまいます。

そんな感じでコアとなる部分が曖昧になっているだけで、「実はそんなに難しい問題ではなかった」ということもよくあります。

究極的には骨を抜いたような軟体動物でも立派な生き物ですが、そうした動物においても、骨格的な原則が抜けているわけではありません。

文語的に直接的に示すものでなく、口語的でかなり曖昧な比喩表現である場合でも、まるで軟体動物のように骨はなくとも骨格的なラインはあるという感じになっています。

その空白的な部分を掴み取れるかどうか、というところも読解力として捉えられていますが、それを養うにはひとまずわかりやすく捉えやすいものを使って骨格を捉えるという訓練が必要なのかもしれません。

学習と演繹

問題が生じた時に意識に余裕を生み出す論証

Category:miscellaneous notes 雑記

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