うさぎのファミリー認定と食による馴致

養子のうさぎが教えてくれたファミリー認定の厳しさについてでも触れていきましょう。

うさぎが亡くなってしばらくが経ちますが、彼のファミリー認定が著しく厳しかったことを思い出したりします。

これは、愛情表現として舐めてくるという行動をすることをもってファミリー認定と考えた場合、その認定基準がかなり厳しく、末期に世話をしていた父や母ですら最後まで舐められたことがなかったという感じでした。

その線引が一体何だったのかを考えると、やはり下の世話あたりになるのではないかということを思ったりします。

元気な時であれば小屋の掃除、寝たきりになってからは、毛繕いを手伝うという部分です。

なぜならば、いつもいつもは一緒にいない人であっても、寝たきりになってからの毛繕いなどを手伝った場合は、ファミリー認定がなされていたからです。

これはつまり、ペレットやチモシーなどを与える等々、手が汚れないことならばやるものの、嫌なことからは逃げるということが見抜かれているということです。

うさぎに限らず、インコでも同様です。

小動物ですらそうしたことを見抜くのに、相手が人間であれば見抜かれないだろうと思うのは都合が良すぎます。

人の場合は、何かしらの理由で説き伏せるということが可能です。そして思考の上で理解させることができれば、それで事足りるだろうと思ったりしていますが、体感は非言語領域であり、無意識領域に意識的な論理は勝てません。

うさぎの場合でも、僕の父や母はメインの飼料やおやつを彼に与えていました。さらにいうと彼はおねだり上手であり、残酷に表現すると「金づる」ならぬ「おやつづる」的な感じすらありました。

僕より父や母のほうがおやつをあげているのに、彼らはうさぎに舐められ、ファミリー認定をされたことはありません。

一応末期は世話になり、準ファミリー認定的な感じで認定はされていましたが、親戚くらいの扱いです。

そんな様子を見ていると、どのような動物でも、仮にお手伝いさんなんかが小屋の掃除をしていた場合、その人だけをファミリー認定するのではないかと思ったりもしました。

そしてその構造は、人間と動物の間だけでなく、親子関係にも現れるような感じがします。

食による馴致

かなり前の知人ですが、「食べ残されることに腹が立つ」という理由で、パンばかり買い置きしている人がいました。勝手な想像ですが、もしその子供が外向性の高い人であったのならば、もしかすると今頃おそらく家庭内暴力などにあっているのではないかと思ったりもします。

吉本隆明氏の言葉を林修氏が引用したことで、少し有名になりましたが、彼の言葉で、「お母さんは自分の手料理で家族を馴致することができたらきっと家族を支配できる」というような旨の言葉があります。

夫婦の家事分担の不平等について、育てる相手がいない場合であれば、論理上公平であるべきと言うのはいいですが、それを推し進めることは二者間の社会での論理的整合性はあるものの、結局慕われず、尊敬が獲得できず、極端いえば支配権が及ばないという事態になるという部分があります。

家庭における尊敬や支配権の獲得

そう考えた場合、逆のアプローチで解釈すると本質が見えてきます。

「慕われること、尊敬されること、そして支配権を獲得したければ手料理を利用せよ」

ということです。

こなさなければならない義務を誰が負担するのか、という視点であれば、公平であるべきという答えが出てきますが、逆に権利獲得という視点であれば、手放すまいとするくらいの対象となるはずです。

かつて、家庭で台所は母の聖地であり不可侵であるというような空気がありました。その裏にはこうした背景があります。

よく嫁姑問題は台所から勃発するということがあります。

それは家庭内における支配権獲得のための女性の聖地争いという面があります。

本能レベルとまでは行きませんが、食による馴致は、かなり古くからの伝統として根強く残っています。

そしてそれは、表面的な倫理問題を飛び越えて、家庭という社会の構造の中の重要なセクションとなっています。

小学生の時、僕の親世代の人ですが、あるシェフに「家でもこのレベルの料理が出てくるんですか?」と聞いてみると、全て奥さんが作っているという話をしてくれたことがあります。そこには実質的な調理の腕などではなく、家庭の平穏を重視してというような部分があるようでした。

稼ぎ的に家事負担は夫婦平等であるべきだというのは、夫婦の二者間の問題であり、表面的な倫理問題です。

もちろん外注することなど、お金で解決することもできますが、それで解決しようとすることは、義務に対する解決というアプローチであり、結果的に「尊敬や支配権獲得」という機会がお金と共に外部業者に奪われてしまうという側面すらあります。

僕は小学生の頃、週一くらいで飲食店に連れて行かれましたが、すごく嫌だったことを覚えています。おかげで味覚の幅は広がりましたが、家で食べたいが本音でした。

ある時「僕は行きたくない」というと、「お母さんを休ませてあげよう」と言われ、渋々ついて行ったことがありました。それでも渋々です。

それはきっと世話全般に渡る

ただ、養子のうさぎのファミリー認定のように、そうした要素は世話というか家事育児全般に渡るはずです。食による馴致だけではおそらく足りないという感じになるでしょう。

こうした尊敬の獲得、一種の支配権の獲得に関しては、食に限定されるというわけではなく対象は世話全般に渡りますし、とりわけ面倒なことであればあるほど、その要素としての強さが高まっていくと考えられます。

それはつまり、面倒である部分、手が汚れるような部分に関して、自発的に世話をすればするほど尊敬を獲得できるということになります。そしてそれを「お金で解決すること」は、尊敬や一種の支配権の獲得の機会を奪われることにもなるという感じになっています。

仕方のなさを言葉で説き伏せることはできたとしても、論理を超えている領域なので、致し方ありません。

手料理に限らず、様々な部分について「面倒くさい」とか「お金で解決する」ということをすると、その分だけファミリー認定の機会は減っていきます。逆に考えると、面倒くさい部分は、「ファミリー認定」の獲得の要素となるという感じです。

もちろん、気力体力にも限界があるので、ほどほど程度でいいですが、外部に依存すればするほど、外部に尊敬やファミリー認定の機会を奪われると思っておくくらいが無難です。

うさぎの場合は、元々自然界にいるのが普通であり、小屋にいる方が不自然であり、掃除等々は人間が手がけるしかない部分があります。しかしながら、人間対人間の場合、世話をしすぎることは自立の機会を奪うことにもなりかねません。

自立の機会を奪うということは、スキルのみならず自信を得る機会をも奪うということにもなります。

根底を考えると、きっと「手が汚れないことならばやるものの、嫌なことからは逃げる」という部分があるかどうかだけが問題です。

そう考えるとうさぎのファミリー認定と共に俗っぽい表現ですが「いざという時はケツを拭く」という表現がぴったりだなぁなどと思ったりもします。

動物と暮らすための感性の発達

Category:miscellaneous notes 雑記

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