動物と暮らすための感性の発達

言語習得の臨界期(Critical period)のように、動物と暮らすための感性の発達にも臨界期(感受性期)があるような気がします。

まあ言語習得の臨界年齢のように、その時期が向いているというだけで、その後も一応無理ではないという感じはなりそうなものですが、「よほどのショックが起こるか、よほど工夫をしないと難しい」という感じになりそうなものです。

そんなことをふと思ったりする要因のひとつは、幼少期に動物と暮らして世話をしたことがない人が、大人になって動物を迎え入れた時に、結局動物を世話しきれずに引き取ってもらおうとしたりすることです。もちろんそうでないようなケースもあるでしょうが、大人になってから初めて迎え入れるという場合の方が飼育放棄に陥りやすいというような感じになっていると思います。

そしてもう一つは、動物に関する学者のような人たちにしても、ポケモン的に動物の生態やその体系を把握するのが面白いと思っているだけで、動物そのものが好きなわけではないというふうに感じざるを得ないような人たちがいることです。

動物を取り扱っているのだから当然に動物が好きなのだろうと思いきや、単に学問的な面白さに惹かれているだけで、生き物そのものにはそんなに関心がないというような感じです。

こうした類の人達は、結局動物を自分を楽しませるためのツールくらいにしか思っていません。

ということで、「楽しみがない」となったり、「楽しみよりも手間が勝り、苦痛に感じる」となれば、容易に捨て去ることができるという感じになっています。

自分だけを楽しませるために利用するという発想

動物と暮らすにあたって、「自分が楽しむため」という意図があってもいいですが、同時に相手の動物の幸せも考えねばなりません。

これは対動物だけでなく、対人コミュニケーションにも通じるところとなっています。

自分の都合というものがあってもいいですが、相手にも都合があることを忘れてはならないという感じになります。

特に相手が動物の場合は、「自力ではなんともできない」という部分がたくさんあります。というところを加味した上で、相手の都合や相手の幸せを考える力が必要になってきます。

しかしながら、動物と暮らすにあたって必要となるそうした構造の把握について「根本からそうした発想がない」としか考えられない人もいます。

単に自分を楽しませるためのツールとしてしか見ていないとしか思えないような感じです。

それが個人レベルとなると飼育放棄をする人になりますし、職業を絡めたレベルになると、動物の生態や体系のあり方を知るのが好きなだけの感性のない学者などになるのでしょう。

自ら手をかけないと動物の気持ちがわからない

たいてい飼育放棄をするような人は、ある程度大人になってから暇つぶしかのごとく動物を迎え入れるような感じの人が多いという印象があります。

大人になってから改めて迎え入れるという場合でも、子供の時に動物の世話をしたことがある人であれば、飼育放棄のような発想はなかなか出てきません。

ここでキーポイントとなるのは、自分自身が動物の世話をしたことがあるか否かです。

ただ単に「家にいた」というだけで世話は他の家族がしていたという場合は、動物に対する思いや感性が発達しきらないような感じになります。

可愛がって撫でるくらいは誰でもできます(それすら怪しい人もいますが…)。

しかしながら、動物が置かれた立場や本質的な気持ちを理解しようと思うと、下の世話を含めた様々な世話が必要となります。

例えば、掃除であれば、掃除をしている時に「自分が手をかけないと永久にキレイにはならないんだなぁ」というようなことを思ったりします。動物に対して「自分のことは自分でしろ」などと言っても始まりません。

水換えや餌やりについても同様です。

「自分がサボると、この子は困るんだなぁ。

…それどころか生きていけないじゃないか」

というようなことを思ったりして、相手の立場を考えるようになっていくわけです。

そのようにして、動物への思いがどんどん深まっていったりします。そしてそれに比例して、動物は好意で返してくれたりもしますし、それまで経験し得なかった動物との間に生まれる感情を経験することになっていきます。

うさぎのファミリー認定と食による馴致

動物への思い、感性の発達は「抱えるもの」が少ない時期でないと難しいのかもしれない

しかしながら、そうした動物への思い、感性の発達は「抱えるもの」が少ない時期でないと難しいのかもしれません。

多くのものを抱えていると、世話どころではないという状況がやってきやすいため世話に集中することができません。

「他にもっと重要なことがあるから」

という言い訳とともに手をかけるということ放棄していく人もいます。

世間では、「仕事だから」と言われると言い返しにくいというような風潮があります。よって「仕事だから」というような言葉は言い訳としての伝家の宝刀となっています。

個としての生き物の命は代替性がない

しかしながら、仕事と同列もしくはそれ以上に動物への思いを持つことができないのであれば、家に迎え入れようなどとは思わない方が良いでしょう。

なぜなら、個としての生き物の命は、代替性がないからです。

仕事を含めた収入源など、いくらでも代替手段があります。

生き物の命は、その生き物の命であり、別の存在である人間が価値をつけることはできません。

「金銭的価値として数値を示せる」といったところで、それは人間対人間の範囲の話であり、人間とその生き物の関係ではありません。

犬にお世辞

自尊心の欠落から動物にすがること

だいたい思い立って動物を家に迎え入れようなどと思う人は、自尊心の欠落から動物にすがろうとしている場合がほとんどです。

暇、人に相手にされない、寂しいなどという思いを打ち消してくれるのではないかなどと思い、動物を「利用」しようとします。

しかしながら、例えば、「独りで寂しい」といって動物を迎え入れた人は、その後恋愛のパートナー等々、暇や寂しさを打ち消してくれる対象が見つかったら「おまえはもういらない」というようなことを思い始めるでしょう。

動物との関係は、その寿命にもよりますが、何年、十何年と続くのが普通です。数ヶ月で終わるような関係ではありません。

立場を置き換えて考えてみればいかに悲惨な考えであるかはすぐに理解することができます。

自尊心の欠落した人が、自分を恋愛パートナーとして迎え入れたと思った途端、「他にいい人が見つかった」と言って「おまえはもういらない」と言ってきたらどんな気分がするでしょうか。

もし飼育放棄をするのであれば、それと同じことを動物にしているということになります。

動物をゲームのキャラクターのようにしか捉えられない学者たち

さて、次に動物をゲームのキャラクターのようにしか捉えられない学者たちについてでも触れていきましょう。

動物を扱っている学者であれば全員が全員動物好きなのだろうと思いきや、単にスペックや関係性、特殊能力等々ゲームのキャラクターのようにしか捉えられない学者たちもそこそこいることが見えてきます。

動物の気持ちがわからず、動物と深い関係性にある人たちが経験したエピソードを「そんなことはありえない」「そんな発表は聞いたことがない」「そんな習性はない」といった事を言ったりします。

深い仲にならないと感じ取ることができない

しかしいつも思うのですが、そうしたコメントをする学者は、動物への思いが軽薄で、動物と深い仲になったことがないからこそ、動物たちは本質的な能力をその人達には見せず、また、本人たちの「動物への感性」が希薄であるからこそ、そうしたものを感じ取ることができないだけだと思っています。

例えば、既に亡くなりましたが、ヒグマのグーちゃんは、ずっと友愛の思いを伝えると、心を開きこちらに寄ってきてくれてビスケットを口でキャッチしてくれました。

奥飛騨クマ牧場 ヒグマのグーちゃんとの思い出

そうした出来事に関して、おそらく軽薄な学者は「腹が空いていたんだろう」ということくらいしか思わないはずです。

なぜなら、彼らには動物の気持ちを汲み取る感性がないからです。

そして感性がないことを動物に見透かされています。

なので、そうした様を経験することがない、ということになり、結局「そんなことはありえない」というようなことばかり言うという感じになります。

小学生の時に憧れた「鳥の達人」

そういえば小学生の時、友だちの家の近くに「鳥の達人」であるおじいさんがいました。

「獣医が見放した鳥を治す」

ということで地元では有名であり、

「鳥と話せるおじいさん」

として有名でした。

僕はピーコちゃんやプーコちゃんなどのインコと暮らしていたので、「鳥と話せる」ということと「獣医が見放した鳥を治せる」という点にもちろん強い憧れを抱きました。

メスのインコの菊之丞が卵詰まりを起こした時に相談に行ったりしました。

もちろんその頃既に自分もある程度「鳥と話す」ということはできていたと思います。長年一緒にいて、鳥がどういう気持ちでいるかくらいは当然ながら分かります。

という感じでしたが、おじいさんに実際にお会いした時、「鳥と話すってどうやって話すの?」と聞いてみました。

すると鳥の達人であるおじいさんは、はにかんで

「もう話せるようになってるんじゃないかな。もちろん言葉で喋るんじゃないよ」

と返してきました。

自らが世話をする形で動物と共に暮らしたことのある人であれば、その感覚はすぐに理解していただけるような感じになると思います。

同じ目線で接すること

動物に対し同じ目線で接することができれば、自然と動物と話す能力はついていきます。

動物を一種の楽しみの踏み台にしているようでは、動物と話す能力はついていきません。

個としての動物の命には代替性がなく、一つの命としての尊厳があるというような感覚がないと、永久に動物と話せるようにはならないでしょう。

そして、動物と話せないからといって「そんな報告はない」などと「人が調べて発表したこと」しか根拠にできないという様を見せる学者など、専門家という肩書を恥じるべきであると思います。

「人の気持ち」というものひとつとっても、本来本質的に完全には言語化できないのと同様に、全てを数値化したり、明文化できるようなものではありませんし、極論としては、一切のものが根拠とはなりえません。

「そんな報告はない」というような報告をしている人にしても、何かしらの行動観察によって、ある程度再現性があったりするからこそ報告しているという程度だと思いますが、そうした「行動」の面において、仲間としての意識がなく傲りのある人間には見せない行動も多々あるという感じになります。

しかしながら自分たちは見たことがないので、「そんなことはありえない」などといったりするわけです。しかしその根本は、「見せてもらえないような人格」が原因となっています。

こうしたことは、対動物だけでなく、対人関係においても同様です。

狂犬としか思えないような凶暴な犬が、犬のプロが世話をすることによって、甘えん坊になるということはよくあります。

ということで、「懐かないから」などと飼育放棄するような人たちは、動物ではなく自分の人格や精神に問題があると思った方が良いでしょう。

そんな感覚、動物への思いや感性、そして感性の発達はやはり「抱えるもの」が少ない未成年期でないと難しいのかもしれません。土台となる感性がなければ、気づきも起こりにくく、感性が発達しないというような構造があるからです。

ということを踏まえると、冒頭で触れた「言語習得の臨界期(Critical period)のように、動物と暮らすための感性の発達にも臨界期(感受性期)があるような気がする」という感じになります。

しかしながら、言語習得の臨界期は、あくまで「向いている」というだけであり、習得が完全に不可能というわけではなく、環境や工夫しだいでその時期を超えても習得が可能という感じであるのと同様に、動物と暮らすための感性の発達も、環境や工夫、そして意識しだいで発達させることができると思っています。

ただ、言語習得のそれと同様、やはり単に普通のやり方をしていたのでは難しいということになりつつ、相手は生命を持った動物であるため「とりあえず…」というわけにはいきません。

他言語の習得は失敗しても特に問題はありませんが、動物と暮らすということに関しては、代替性のない個としての動物の生命や幸福が関わっているからです。

Category:miscellaneous notes 雑記

「動物と暮らすための感性の発達」への4件のフィードバック

  1. こんにちは。

    「足るを知る」からコメントを寄せるつもりでしたが、ちょっと興味のあるテーマだったので先にこちらからお邪魔させていただこうとコメントを寄せた次第です。

    ウィンドウショッピングというよりは、目的地途中の公園のベンチで一息つくくらいの感覚なので思慮面とかガバガバですが。
    多めに見てくださればありがたいです。笑

    さて、bossu様のおっしゃる通り、動物に対する気持ちが斜めに注がれるような….ポケモン感覚の学者気質の方々も大いにおられると僕も思いました。
    ポケモンなら図鑑を完成すべく、片っ端からボールを投げて151匹集めれば済むのでしょうが。(今はもっと多いですね。まぁ、世代なので….)

    動物を定義しようとするとただの「図鑑」に成り果てると思います。
    動物図鑑を眺めていれば、それは学べるとは思うのですが。

    僕は学者ではないのであまりお喋りが過ぎるのも良くないと分かってますが、小柄でも、色や鳴き声が違ってもどうだっていいと思います。(いや、良くないか….)

    散歩中も自然に生きる彼らたちと目が合う瞬間は、なんだか幸せです。
    そういえば、一匹のスズメに目を配ってみる大人とかまだ僕は見たことないですね。それは、大人になるにつれて何かを忘れたと言うことでしょうか?

    まぁ、でもそれを僕らがそれを考えてあげる必要はないですよね。笑

    僕の家の前でもスズメが仲良し三人組で井戸端会議のように毎日集まってます。
    もちろん次に会う約束を交わすことすらしてないと思われますが、やはり毎日集まってくるその姿にほっこりさせられますね。

    この子達が、一体いつどこでどうやって生まれてきたのか多分誰も知らないですが、ただ毎朝そこにいることをひそかに楽しみにしてる次第ございます。

    「あぁ、今日もみんないるなぁ」(ニコニコ)
    って感じですね。笑

    1. コメントどうもありがとうございます。
      生命活動が感じられるというそれだけで少しほっこりします。
      「目に映っていても見ていない」ということは、「重要か否か」という意識的・無意識的判断が影響を与えています。
      また、接し方ひとつとっても「どういう意味で重要か」によって変わってきたりもします。
      全ての生き物に対して心底「友だち」としての感覚を持つというのが、結局人間の思考・判断としての「倫理」を超えて、この心に映るものを安らかなものにするという感じになると思います。

  2. 夜分失礼致します。

    そして、コメントありがとうございます!

    たしかに足早な人々には、空を見上げてる暇すらなかったかもしれませんね。
    我を強く保つのならばなおのこと、動植物たちは、言葉を介して教えてくれませんから、表面的なものにしか飛びつかなくなるように感じます。そして、

    「よく見れば薺花咲く垣根かな」

    これはいい言葉ですね。

    動植物たちは少年時代の友みたいなものだと思うし、年齢を問わず再び自然の輪の中に入らせてもらうことも素敵なものですよね。
    時を得て、旧友と再会するような感覚かと思います。

    寒さも和らぎ、そろそろ虫達も元気に現れてくる時期になりましたね。
    木々は蕾も膨らませてたし、散歩にしてもずいぶんと賑やかになりそうです!

    とまぁベンチで一息つきましたので、次こそ「足るを知る」のテーマでお会いしたいです!
    スキップ気分で向かいますね笑

    いつもありがとうございます!!

    1. もちろん非言語となりますが、自然に生きるものはたくさんのことを教えてくれます。人と暮らすものであっても同様です。
      それは目の前にあるのに、それを見えなくしているもの、それは端的には傲りとなるのでしょう。そしてそんな傲りは、人に対するものについても見えなくしていきます。
      幼少期は自然にあった境目なき感覚も、様々な恐怖心からつけていく知識によって知らぬ間に覆い隠されていきます。そんな曇りもまた、様々な動植物が澄ましていってくれます。
      春の兆しにより、また生き生きとした躍動を感じられる季節になってきました。

      それではまた別投稿等々何なりとご連絡いただければと思います。

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