Finn’s Lawと動物保護の意識

つい一ヶ月くらい前のことですが、BBCによると、イギリスで動物保護法の改正案が上院でも可決され、ひとまずイングランドとウェールズで適用されるようになったようです。

Finn’s Law: Stabbed police dog law given Royal Assent

Finn’s Law(フィンズ・ロー)と呼ばれるこの改正案は、内容としては、警察犬を傷つけた場合の適用法が器物損壊罪のみであったところを、動物保護法の上で罰することができるようにするためのものです。

外国法なので詳しくは知りませんが、おそらく英国の動物保護法の保護法益は、動物の命でありながら対象がペット等であり、もし通常の法の仕組みを考えたとすれば親告罪ということになります。その場合、警察犬などの場合は、警察官個人が告訴できないという感じだったのではないかと思います。

いわば相棒の警察犬が犯人に傷つけられたとしても、警察官個人ではなく法人格としての警察が起訴した上で、所有物の損壊という器物損壊罪が適用されるのみであり、さらに動機の面から考えると、意図を持って損壊したということを立証しにくい感があります。

なぜなら、物扱いであると、追跡中のパトカーが傷つけられたことを事故的なものではなく意図をもって行った損壊ということを立証しにくいというのと同じです。

法理論上は、器物損壊罪や動物保護法などにより、警察犬を傷つけた場合に犯人を罰することができますが、きっと問題はそういうところではなかったのでしょう。

Finn’s Law(フィンズ・ロー)の立役者となったのは警察犬フィン(Finn)と相棒のウォーデル氏。

Hero police dog stabbed with 10inch blade while on duty

命をかけて使命を全うし、九死に一生を得た勇敢な警察犬のフィン。ウォーデル氏としては、彼が警察の所有物扱いされていることが嫌だという感じのようでした。

フィンが傷つけられたという部分については器物損壊罪が適用されていたようで、一応犯人を裁く意識はありました。しかし、一つの命としての認識が薄いという部分に対してFinn’s Law(フィンズ・ロー)運動が起こったという感じなのでしょう。

元々動物はおろか有色人種にすら権利を認めていなかった文化圏において、これほどにまで他の種族に対する意識が高まってきていることは少し嬉しく思います。

finn

finn metro.co.ukより

警察犬のフィン。

この聡明な顔がなんともたまらないですね。

個人的には夏目漱石氏や杉原千畝氏のような風格を感じます。

動物愛護管理法

ちなみに日本国内にも動物愛護管理法という法律があります。

国家対犯罪者の関係の刑法において、器物損壊罪が適用される時は、一応動物は物扱いですが、動物愛護法においては、動物は個としての命として扱われています。

それでも制定されたのは1973年で、まだ半世紀も経っていません。徐々に改正されていて、どんどん厳しくなっていっていますが、動物保護に関する意識は、かつて有色人種に権利を認めていなかったような国々に比べても厳密さや対象等々、保護の意識はまだまだ遅れています。

実際問題を考えれば、イギリスにしろ日本にしろ、現行法でも動物を傷つけることを罰することはできますが、適用するのが難しかったり、意識の上において動物保護・動物愛護という目的よりも人の所有権などを保護することが目的になっているという感覚が根強くあります。

まあ法など人と人との関係におけるものなので仕方がない部分がありますが、それでも意思や実際の運用の部分を見れば、その社会の意思の姿が見えてきます。

もちろん一切の生き物に対する慈悲には遠く、マイナーアップデート程度かもしれませんが、それでも少しは意識が高まっているような感じがするので、少しばかりは嬉しく思いました。

僕は、動物との共同生活という感覚しか無く、犬を筆頭に「ペットとして飼育されている」という表現は好きではありません。動物たちから教えてもらうこともたくさんありますし、命としての差はないからです。

ただ、法律的には物扱いであっても、それは人と人との関係の領域の話であって、本来、人と動物の間の関係に法律は関係ありません。

少なくとも意識の上で「所有物」とみなすということは、傲りしか生みませんし、その人自身を苦しめるものにすらなります。

そういう意味では動物をモノとみなしたカントもデカルトも程度が低く、キリスト教圏の汚染の影響を受けて無明にあったと言わざるを得ませんし、逆にそのような文化圏にあってその時代に命を持つものであり権利あるものとして考えたルソーやベンサムの凄さを感じたりします。

一切の命に対する慈悲について、重要なのは「そのような社会が素晴らしい」という社会の達成目標を掲げるような点ではなく、そうした意識がその人の心から苦しみを取り除くという点です。そして結果的にそのような社会になるというのが本来のプロセスです。

なので、実際問題として、法の機能としての部分は、刑罰を強化したところで犯人が警察犬を攻撃することを抑止できるかという点ではそれほど期待はできませんし、ちょっとしたことにしかすぎないかもしれません。が、ある種その地域社会の構成員の総まとめ的な意識が少し変化したという事実の方を評価するという感じです。

国内の動物愛護管理法においては、対象となる生き物が限定されていたりしますが、それでも人と一緒にいる動物に対する考え方として、「所有物であるなら一切の処分権がある」という発想を否定しているという面があります。

「自分のものだから何をしても良い」という発想を否定しているという意味で、多少の愛護精神はあります。そして、虐待や遺棄に関しては刑罰を定めており、いかに「私のもの」などと主張しようが犯罪になります。

他の命に対して「私のもの」という傲りが、根本的に無明ゆえという感じです。人と人との関係においては、勝手にどうこうさせないという、排他的な権利があるかもしれませんが、自分の他の生命との間におこる所有の概念は、自我がもたらした傲りにしかすぎず、その傲りは我と所有物への執著になるため、結果的に心を苦しめることにしかなりません。

そういう意味でその生命のためという部分もありながら、それと対峙する人の心を護るという意味もあります。

動物愛護からみる人のあり方

動物と暮らすための感性の発達

Category:miscellaneous notes 雑記

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