食糧分配係といえば、元祖は鍋奉行、現代では「介護アピール」という感じです。
セキセイインコ等々草食の鳥類における殻付きの穀物と殻剥きの穀物の違い、うさぎにおける牧草とペレットの違いのようなもので、ある種食べやすいということは、食べるということに対する本能的な満足感を低下させてしまうようなものになると思います。
「むきえさ」でも大丈夫ですが、「殻つき」の方が鳥は活き活きしたりします。またうさぎも牧草が無いと怒りやすくなったりします。
食料分配を意図してということなのか、何かの信念に従った独自マナーということなのかはわかりませんが、食料に関する某かの配慮というものは、配慮のつもりが心の栄養補給を阻害することにもなりかねません。
串モノの分解
均等に各種品目を分配しようという意図なのでしょうか、未だに串モノを分解するということの本質的な意図がよくわかりません。
「串から剥がす」ということは、一種の野性的な心の栄養補給を台無しにするものであるような気もします。
栄養と消化の合理性で言えば、完全な栄養バランスを考えた食品群全てをミキサーで液状にした方が良いはずですが、技術的には可能であるものの、どうもそうした文化はありません。
噛むという動作をはじめとして、食感や味覚の広がりのストーリー性なども各要素としてある程度必要なものだという感じで取り扱われています。
ありがた迷惑的にフラストレーションが生み出される
何かを手で食べる人もいれば、箸を使って食べる人もいます。そんな中、選択権なしにどちらかを強制されるのは、やはりフラストレーションを与えるものになるような気がします。
それと同じように串モノを分解されるということについても、人によってはフラストレーションが生み出されることになりかねません。
ある人にとっては食料分配的な意味合いか、口に入れる様に関する行き過ぎたマナー的なものとして、採用されているのかもしれませんが、ある人にとっては、ありがた迷惑になっているという可能性もあります。
良かれと思って分解してくれたことに対して、若干ありがた迷惑感を感じながら「ありがとう」というのもさらに変な空気になります。嫌がらせではなく配慮なので、その配慮の気持ちだけには感謝を伝えたいところです。
ただ、やはり変な感じがします。
そういうわけなので、食事そのものはやはり一人で静かにというのが一番であり、「人と一緒に」というのは、そうした変なフラストレーションを得るリスクがあるという感じになります。
まあ僕としては、基本的にはそのような場に行く機会がほとんどのないのであまり関係ない事柄ですし、あっても一回性のことなので、まあいいかという感じで過ごしています。
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