祝六周年

本ブログも六周年を迎えることになりました。ちなみにこれで1775記事目になります。今回も祝五周年の時と同様に、単純に祝六周年というタイトルです。

祝五周年の時は1480記事だったのでこの一年で300弱の投稿をしたことになります。

さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。コメントを寄せていただいた方やcontactからご連絡を頂いた方、また、ひっそりと読んでいただいている方々、ありがとうございます。

アクセス状況

この一年でこのブログにやってきた人の数は、279,159名ということのようでした。その前の期間は188,810名だったので今回も大幅に伸びました。

しかしながら、今年2020年の1月に検索エンジンの仕組みが大幅に変更されたことの影響により新規ユーザーさんはその直近の数と比較して半数近くまで減りました。ただ、逆に平均PV数や滞在時間は倍くらいになったりしています。総PV数は変動なしという感じです。

つまり、一過性の一見さんの数が減ってより常連さん向けになったという感じになるのでしょう。

年間51回から100回再訪問いただいている方の数は、3,989ユーザー、年間101回から200回再訪問いただいている方の数は、3,340ユーザー、年間201回以上ご訪問いただいている方の数は、8,452ユーザーということで、週一回くらいのペース以上で訪れる方の数は、15781ユーザーということのようでした。

一度ご覧になった記事はキャッシュにより人気の記事には再カウントされないという点もありつつ、最新記事配信確認のためインデックスページなどのみご覧いただいているという場合も結構あるのだろうという感じがしています。

ユーザーさんのエリアですが、今回もだいたい人口に比例している感じでした。

東京、大阪、神奈川、愛知、埼玉、千葉、福岡、北海道、兵庫、京都

ちなみに前回は、

東京、大阪、神奈川、愛知、埼玉、千葉、北海道、福岡、京都、兵庫

という感じだったので、北海道と福岡、そして京都と兵庫が入れ替わったという程度の変化でした。

なお、直帰を合わせると107ヶ国からのアクセスがあり(やはり機械的な何かでしょう)、直帰を除くと55ヶ国からのアクセスがありました。

国別アクセスのうち日本を除いたトップ10はUnited States、Australia、Canada、Taiwan、Thailand、South Korea、United Kingdom、Germany、Singapore、Vietnamといった結果になりました(一応未だにスパム対策のため中国とロシアはブロックしています)

プロキシ、VPNなども多少影響していると思いますが、日本を含めたアクセス全体の0.4%がアメリカからのもので、その中でもぶっちぎりはCaliforniaでした。その後はNew York、Hawaii、Texas、Virginia、Washington、Illinois、Michigan、New Jersey、Massachusettsといった並びでした。

国別滞在時間としては、Ghana、Vanuatu、Peru、Spain、Nepal、Belgium、Lebanon、Poland、India、Thailandという並びでした。若干日本より気候が暑いところが多いような気がします。

アクセス経路としては、自然検索が91.71%、Directが7.13%という感じになっています。しかし、ユーザー数ではなくセッション数で計上した場合は、Directが10.07%という感じになっているようです。

なお、ソーシャル経由のうちTwitterが76.71%を占めていました。

男女比は、女性 51.11%、男性 48.89%といった感じです。

年齢層

  • 25-34 32.43%
  • 35-44 25.63%
  • 18-24 19.36%
  • 45-54 12.15%
  • 55-64 5.69%
  • 65+ 4.75%

デバイス

  1. mobile 75.78%
  2. desktop 19.84%
  3. tablet 4.38%

サイト内検索

毎度おなじみサイト内検索です。

今回は、第1700回投稿記念の2020年1月5日から現在までのものについて触れていきます。

808のワードがありました。

検索回数上位は、モテない、Z会、結婚、恋愛、嫌い、孤独といったようなワードばかりでした。

開設時2014年3月29日からの統計

開設時2014年3月29日からのユーザーさんの数は、622,463名ということのようでした。

ご返信させていただいたコメントを除き、コンタクトを含めて延べ498件のコメントをいただきました。

そうした方々とのご縁は、それまでの延長ではあり得なかった新たなご縁であり、運営していたからこそ出会うことができたということになります。

その中で、日常生活の中では考えもしなかったこと、知り得なかったこともたくさん気づかせていただきました。ここで今一度感謝いたします。

心臓に毛が生えているわけではない

さて、本当に稀ですが「心臓に毛が生えている」と言われることがあります。しかし、喩えであったとしても、そんな心臓に毛が生えている系の性格をしていると思ったことはありません。

行き切ると「勝ちに行くモード」になることもありますが、基本的には元々年中腹痛系であり、現在の平穏はあくまで智慧によるものです。

しかしながら成長過程において途中途中で節目のようなレベルアップがあったような気はしています。

それは単純に「飛び込む回数によって決まる」というようなことを思っていたりしています。

飛び込む回数

以前に「人脈のルーツ」として少し触れたことがありますが、思い返すと何かしらの思い切りによる節目のようなものをどれだけ経験したかということが、今の立ち位置を決定づけているようなフシがあります。

これは非常に単純で、飛び込む先の質にもよりますが、だいたいは「未知のものに飛び込む回数の分だけ見える世界は変わっていく」というだけだと思うことがあるという感じです。

特に社会的に偉くなるとか稼ぐといったものはそれが顕著であり、単に思い切った分だけ偉くなったり稼いだりしているというだけだったりもします。

育ってきた環境として同じような境遇の人でも稼げている人、稼げずにいる人がいます。

かといってマルチ商法のように向こうからやってくるようなものに反応してえらい目に遭うということもあるので、なんとも言えない部分はありますが、結局は飛び込んだ分だけ立ち位置も視野も変化していくという程度だと思っています。

限界近くまでたどり着けば取り扱い方がわかる

特に必要なことではありませんが、哲学的な分野やいわゆる宗教学的な分野等々人文科学の領域においてある程度限界近くまでたどり着けば対象概念や現象の取り扱い方がわかったりしてきます。つまり智慧によって限界を超えなくてもだいたいの煩いは減るということです。

ソクラテスの「無知の知」という話が有名ですが、ソクラテスのその発想はとんちや禅問答的な面白さがあるものの「無知であることを知って、それからどうしよう」という感じになってしまいます(「無知の知」による迷宮からの脱出)。

神学的なものを筆頭に宗教的な妄想の類は、「不可知の知」と執著による煩悶であると知るということである程度錯覚が解けたりするはずです。

「無知の知」にちなんで僕は勝手に「不可知の知」と呼んでいますが、何かしらの概念は、論理で考えていって「絶対性を持たない」とか「証明のしようがない」とか「他の推論と同等レベルであり決着がつかない」という感じのところまでは行きつけるはずです。

いわば不可知であるということを論理で納得するという感じになります。

「答えがないことがわかった」

とか

「客観的証明の問題で決着をつけることができない」

とか

「答えを言語で示せないことがわかった」

「答えはあるのかもしれないが知り得ないことが納得できた」

というような感じですね。

そして、その次が問題です。

対象が不可知であるからということで、「個人的趣味に合わせてよいのだ」とか、「何となくそう思う」とか「感覚的にはこれだ」という感じで一つの物事に囚われていってしまうということが起こるというやつです。

まあ端的には執著です。

そんなときには「執著しないでおこう」と無理をするよりも「だったらどうなんだ?」という点を再度論理を展開していけばある程度解決していくことができます。

基本的には「『唯一絶対の解』を知り、納得し、演繹法で現象を取り扱いたい」ということを自我は思っています。

でも結局、概念に縋ろうにもはその絶対的な普遍性や再現性の面で問題が出てきたりします。

なので何かの主義に陶酔しようと、対立する主義を確実には覆すことはできないという格好になっています。

屈服させたいという思いは「唯一絶対の解」を無理に信じ込もうとして、ある程度信じてある程度うまくやってきたという中、「それを否定されると再度混乱が生じるから」というくらいの理由です。

しかし、そんな概念であるならば不完全です。

そんな中、不完全なものを手放すまいとし、煩悶するということは単なる「執著による煩悩」ということになってしまいます。

何かの主義など結局そういう感じなので、何かにつけて「だったらどうなんだ?」ということを思い、「この心のこととしてはどうあるべきか?」というところを中心として論理を展開していけば、迷い、煩うことも減っていきます。

「ある主義の上での善悪基準の中で善であろうが悪であろうが」ということを考えていけば、「そう言われていようが、そう捉えられようが、いずれにしても」というような答えが見つかっていきます。

一般的な語で考えていくことができる

世間では、「成績が良い・悪い」という基準によって人を測ろうとするような構造があります。そんな中、俗に言う「勉強はできても…」という感じで取り扱われる頭の良し悪しがあります。

その構造の違いは極めて単純に示すことができます。

それは、決まっていることを覚えたり解くということと、決まっていないようなことを解くという取り扱い領域の差です。

そして「学問的成績」でも一般レベルで取り扱われるような領域のものは、「答えが既に決まっているようなこと」ばかりが問いとして用いられています。

特に近年は、具体的な語、既に決まっているような語の定義を前面に出すというインターネット的な風潮があるので、そうした捉え方の一般化が進んでいるような感じもします。

しかし本来は哲学領域においても、専門用語を一切使わずに論理を展開していくことができます。あくまで普段使っているような言葉で限界まで考えていくことができます。

ところが、誰かが示した概念を知っているか否か、理解しているか否かという点が「成績」を測るような領域では重要視されていたりします。

ただ、当然ながら哲学領域にしろ何にしろ、固有名詞等々を一切使わなくても考えていくことはできますし、その方が自然と論理を展開していくことができます。

成績の良し悪しに囚われたような姿

そういえば昨年末くらいになりますが、たまたまTwitterを開いてみたら話題のツイートのような感じで全然関係のない人のツイートが表示されました。

その内容としては、「クリスマスイブはクリスマス前日ではなく、夕方から一日がスタートするから当日の始まり、という意味を知らない人が多い」というようなものでした。

そうした定義のようなものはいわば文化的風習として現代において「決まっていること」です。

ということは、どこかでその知識を知る必要があります。

物を持ち上げて手を離すと下に落ちるということは、万有引力という概念を知らなくても知ることができます。

しかしクリスマスイブがクリスマスのスタートを意味するということは、誰かから聞くか何かで読むかしないと知ることはできません。

ということは、その人もどこかで知ったという経緯があるはずですが、どこから知ったかということなどには触れずに、「私は君たちより無知ではない」というやや自尊心の充足を意図しているような雰囲気があります。

まあ、決まりきっていることについての知識が素晴らしく、物知りであることが評価されると思っているということはつかめたりします。

まあ端的には、

「クリスマスイブはクリスマス前日ではなく、夕方から一日がスタートするからクリスマスイブはクリスマスの始まりなんだ」

ということを言えばモテるとでも思っているのでしょう。

参考までにですが僕は一応クリスマスイブの意味を知っていました。知ったのはイスラエル旅行の時です。

安息日で電車の運行が止まっていたのですが、夕方から電車が動くということをホテルの人に聞いて、「なんで夕方からなんですか?」ということを質問してイスラエルにおける日付のあり方を知ったという感じです。

さらにいうとそうした知識はトリビアレベルであり、生きていてもそれほど役に立ちません。知って損をするということもないですが、知って誰かの役に立つということもあまりないような知識です。

広い意味でモテを意識しているということにはなるものの、どちらかというと成績の良し悪しに囚われたような姿に映ります。そうした基準で評価され続けた結果ということになるので、ご本人も意図せず呪縛の中にいるという感じがしてしまいます。

情報への到達を容易にするという工夫

さて、個人的な感想ですが、抽象性、曖昧性を削ぎ落としたような近年の情報のずるむけ感に対して少し辟易していたりします。

概念への執著を生むような固有名詞感、そのものズバリのタイトルの卑俗な感じ、より良く吟味されたようなものではないような浅い内容に、評価を狙っただけかのような嵩増し感、それら全てに情報の価値の低さを感じています。

そうしたものが溢れかえることは、誤解や浅い納得を生むことにも繋がりますし、「情報への到達を容易にする」という目的とは裏腹に、情報過多による情報への到達の困難さをもたらしてしまうとすら思っています。

そうは言っても一応目的とされているような必要な情報への到達を容易にするというもの自体は「それはそうだろう」とも思っていますし、それには具体性が必要になることも理解しています。

なので今後も現代における「コンピュータが好むもの」と「コンピュータには理解できないもの」を散りばめていこうと思います。インターネット時代の方便も引き続きという感じです。

まあ検索やリスト等々による情報発見の容易性のために再編集してまとめたものを作ったほうが良いのかなぁということは思ったりしています。

ハブページなども多少はありつつ、それでも個別情報は1700以上のページに分散しているので、もはや迷宮という感じになってきていますからね。

高2の時は国語の成績が1だった

六周年記念ということでさらに個人的なことについて触れておきましょう。

言語や国語に関して触れている投稿もありますが、理系のクラスだったという影響もありつつ高校2年生の一学期か二学期の時には国語の成績が「1」でした。

まあ授業がつまらなすぎるということも要因として考えられる一方、これは元々の国語嫌いに加え、バンドやツーリングに明け暮れ朝まで遊び学校で寝ていたからということが最大の原因です。

皮肉なことに物理の先生に「語彙を増やすと細かな感情を表現しやすくなるからいいぞ」と言われるまでの間は、一番成績が悪いのが国語であり、最低の時は「1」という評価がついたという感じになります。

そんな中、他校生になりますが一緒に朝方まで遊んでいた友人が、理系にも関わらず京都府下で国語が2位ということがありました。

僕と一緒に朝まで遊んでいるくらいなので、彼も全く勉強はしていないようでしたが、中学の時に彼のお父さんが持っていた日本文学の名著50巻セットのようなものを全て読んでいたことが功を奏し、そうなったと言っていました。

「へえ、なるほど」

と、根を詰めて体系的に学んでいなくても文学作品を大量に読むだけで、ちょっと習う程度で文法などもスッと理解できたりするんだろうなぁと思ったりしました。

われわれの心に浮かんでいる言葉

目的のない義務のようなものでは生まれない動機

彼は彼で「暇すぎたから」という一種の楽しみとして日本文学をかなり読んでいたというだけですし、その後の人生とか成績のためにという意図では読んでいなかったわけです。

僕はその後哲学的迷妄とアンチ宗教的な意図が強烈に生まれ、数多くの本を読み耽ることになりました。

そんな感じで「成績のため」という目的になっているような、なっていないような半分以上が義務としての消極的な動機になっている場合は、それほど書物がもたらしてくれる効果は出てこないのではないでしょうか。

閾値に達すると起こる劇的な変化

そう言えば、どこかで読みましたが、学習時間が1万時間を超えると脳が発火するというか、思考等々の構造に劇的な変化がやってくるという感じのことを読んだことがあります。まあもちろんその内容、質にもよると思いますし、その「劇的な変化」自体が諸手を挙げて良いものなのかどうかは別問題です。

しかしまあそうした「劇的な変化」が訪れることがあるということは、ある一定の人々にとっては朗報になると思っています。

なぜなら、無限ループのような哲学的迷妄に解決がもたらされる可能性をこっそりと示すようなものでもあるからです。

現状の自分がこのまま考えても答えなど見つからず、永久に納得がいくこともなく、という感じの一種の絶望に光が差すというような感じになるでしょう。

高校2年生当時国語の成績が「1」だった僕の個人的感想としては、10冊、100冊、200冊…と、ある程度までは比例していき、1000冊くらいで一度発火します。しかしそこからの伸びは本当にじわじわしたものになります。

特に何事も気にならなくなったりする一方、なかなか解決できないような問題に対峙したときや感情面が大きく関わる時、感情的な暴走が起こったりもするので完全ではないということを実感したりします。

一種の傲りがある中、「解が見出だせない」ということに辟易し、他の書物を読んでもやはり解決しないということになり、一種のスランプのようなものが起こったりするという感じでしょうか。

その後3000冊から4000冊くらいに達した時に、一気に爆発します。

ほぼ全てのことが「あーはいはい」という感じになりますし、すごい人の凄さもよくわかるようになり、美しいものの美しさがよくよく感じられたりもします。

その後1万冊くらいまでは何かしらプラスのように感じることもありますが、結局は趣味的な範囲や人との会話時におけるパターンの習得程度になっていきます。

書物を読み込む事自体で得れるのはそこまでくらいで、それ以上は実践や体感領域でないと何もつかめなくなってしまいます。

ただ、普通に考えるとそうした量を読み込むことは、純粋な楽しみとしての探究心があるなどなど、よほど好きか、何かしらの強烈な動機がないとできることではないような気がしますし、もちろんする必要もありません。

情報を短期間で大量に流し込むことで見える基礎と特性

「一切の納得」と「全ての苦しみからの脱却」

僕の場合は、もちろん社会的な評価の獲得といったような俗世間的な目的ではなく、若き日のシッダルタのような悩み、若き日のサーリプッタやモッガラーナのような憂い、「一切の納得」と「全ての苦しみからの脱却」というようなものからスタートしています。

なのでその目的に合致しないような「知ってもいいけど、知ったからといってそれでどうなるわけでもなし、それがどうしたんですか?」的なものは「勝手にやっておいてください」と思っていましたし、今でもそう思っています。

世の中には

「いやそれでも社会的に成功したいだろう、社会的に成功している人が羨ましいだろう」

「本当は美女に囲まれて豪遊したいだろう」

「社会的に評価されたいだろう」

というようなことを言う人もいると思いますが、そうした人たちは、大前提を忘れているのではないでしょうか。

もちろん社会の中で役立つ知識や組織などはそれはそれでその領域で何かしらの価値はあります。

しかしながら、根本として一切を受け取るのはこの「心」しかありません。

何処かで誰かが何かをしていようが、一切を受け取るのはこの心であり、それ自体は客観的な証明が必要ありませんし、することはできません。

空観や唯識のようなもの

そうした確認できる事実から考えると、この心以外は幻であるという空観や唯識のようなものも成り立ちます。しかし、問題は、哲学的に捉えた上で他人は幻であるということを否定できず、この世界はこの心で受け取るものが全てであるということの中ででも、「その中で、この心のこととしてどうあるのが良いのか?」というところが大切です。

暴論的な空観のように、「全ては自分の世界なのだから、何をしても良いのだ」という見解は一見理に適っているようにも見えますが「何かをしなければならない」という条件づけ自体が煩いであり、この心に苦しみをもたらす要因となるという構造も潜んでいるわけです。

「全ては自分の世界なのだから、他人の目を気にする必要はないのだ」ということはいいですが、「だからコイツを抹殺するのだ」ということになれば、「コイツを抹殺した方がプラスになる」ということを思っているということになりますし、逆に考えると「それをしなければマイナスになる」ということを思っているということになります。

その意識のあり方自体が苦しみを生み出す、というより既に一種の自分のための義務のような「条件」が生まれ、即時的に「苦しみ」が生まれているということを見逃しています。

といった感じで六周年です。

引き続きご愛読くださいませ。

Category:miscellaneous notes 雑記

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