不要な細切れの情報

不要な細切れの情報にさらされると、意味はないどころか疲れが溜まったり、頭がわいたりしてしまいます。

例えば仕事の上であれば、一見意味のなさそうな細かなデータを常時見ることも後のまとまりのための布石となったりするので有用です。

毎日のようにデータを見ることは、ある相関関係や因果関係を発見したりして、その後の推論に役立つことがあります。

しかしながら関係のないような情報、とりわけ不要な細切れの情報を毎度毎度確認することに意味はありません。

勤め人の頃を筆頭に「それに意味があるかのように説いていた大人の人たち」は概して何もできない人たちでした。

「どうなるんだろう、どうなるんだろう」と繰り返してはいますが、それで普段思いつく以上に何かできるわけでもなし、建設的な推論を立てることもできません。

何かしらのイレギュラーが生じた時、その反応からその人の基本的な人格が見えるので少し面白かったりもしますが、まあ令和という元号が象徴するかのように「令」に依存し、自らは責任を引き受ける気はないような様子の雰囲気がよく垣間見れたりしています。

細切れ情報に右往左往しない短期視点

まあこれは僕が20歳過ぎの頃に株式投資を始めてしばらくして気づいたことですが、何事も超がつくような短期的な相場の変動や情報に反応しない前提で事を行う方がことはうまく運ぶと思っています。

そうした多少の図太さというか肝の座り方がないと、情報に飲み込まれてしまうからです。

細切れ情報に右往左往しているようでは結局振り回されて気力は消耗し、本当に必要な情報を見逃したり、勝ち時を逃してしまうという本末転倒が待っているということになります。

「最も良い時と最も悪い時を想定して受け入れる」という感じでいると、毎日毎日相場をチェックしなくても、それを忘れたかのように2、3週間くらい過ごすことができます。むしろそれくらいの期間放置できるのであれば2ヶ月でも3ヶ月でも放置できます。

まあそうしたスタイルは、スタイルのひとつなので万能というわけではありませんし、もっと有効な方法はいくらでもあると思いますが、結局は毎日の感情も含めて「幸福を最大化する」というのが最大の目的であり、そのための「マネーの獲得」という一つの方法論にしか過ぎません。

ということなので、右往左往して感情が振り回されるくらいであれば根本からやらないほうが良いですし、それは投資というような分野だけでなく日常の全てにおいて通じる情報や相場との向き合い方だと思っています。

重要な事実だけを集める人たち

「アピール自体が他の人を動かすという意味がありそう」という盾のようなものがあるので堂々と「私は貢献していますアピール」を繰り広げる人もいますし、単に騒いでいるだけの人もいます。

すなわち、「別に自尊心的な問題で行動しているのではなく公共性・公益性のために発言しているんだ」というような感じの人もいれば、「大変だ、どうしよう」とだけ騒いでいるだけの人もいるという感じです。

そんな中やはり落ち着いた人は、実質的に有用で建設的な思考のための重要な事実だけに着目しています。

マクロ的な数字を見ても、マクロ的なことを考えても仕方がない立場であるのならば、そうした情報は脇に置いておいて、関われるミクロレベルの領域でどうするのが最善かということを考え、行動の選択に必要な事実としての情報だけに着目すれば事足ります。

まあだいたい「どうなるんだろう、どうなるんだろう」という視点で物事を見ている人たちは、状況に応じて反応するにとどまり、誰かに依存している要素が強いという印象を受けます。

駄々をこねているようにしか見えないというのが本音です。

嫌でもいたるところから細切れのような情報をいただいたりしますが、個人的には全てにおいて「ふーん」であり、どのような状況にしろマクロ的な情勢がある程度安定した段階で、必要な情報だけ集めて環境を整備するというくらいにしか思っていません。

意味不明な行動は一種の神経症的症状

意味不明な行動を起こしたりする人がちらほらいると聞いたりしますが、意味不明な行動は一種の神経症的症状であり、「不快な感情を何とかして解消したいと思いつつ、根本解決とは違う変な行動と感情の解放を結びつけてしまう」という神経症的な症状であると思っています。

なので、一応変だなぁとは思いつつも憐れみを感じてしまうという感じです。一過性ではありますが、一種の精神疾患のようなものですからね。

そして、その不快な感情を増幅するものが「不要な細切れの情報」との日常的な接触です。

「必要だろう」という判断もできますが、より深く洞察すれば不要のはずの情報も数多くあるはずです。

情報があればリスクが回避できるというわけでもなければ落ち着くというわけでもないはずです。

意味がありそうで直接は関係なく、一方では神経症的な症状を引き起こす要因となっているという本末転倒です。

刺激にさらされ、刺激を得て楽しむことに慣らされた人たちが、鬱屈した精神を刺激で誤魔化そうとしつつ、結局は細切れの不要な情報でさらに鬱屈するという感じになっています。

もしそんな感じで気が狂れそうになったのならば、短期的にでも情報源をすべて遮断するというのが一番です。

そして波立った騒ぐ意識を水が落ち着くように静めるのが良いでしょう。

情報と衝動と会話

Category:miscellaneous notes 雑記

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