独特な非情さと脅迫めいた印象

独特な非情さと脅迫めいた印象といえば、現代における弱者の強情というやつでしょうか。

近年社会的弱者もしくはかつて弱者とされていた人たちがどんどん横暴になってきたような気がします。

「声を大にして言っていいんだ!」の世界ですね。

言うのは勝手ですが、主張を観察すると単なる自己都合ということが多いような気がしています。

そうしたものが通る背景には、「えらく強気だなぁ」という周りの驚愕という要素があると思っています。

以前に少し触れていましたが、かつてであれば取っ組み合いの喧嘩等々を覚悟の上でしか言えないようなセリフを、単に精神が未熟なので言えてしまうということから、周りが「そこまで本気ならば一考の余地もあるか」というふうになってしまったり、勢いに押されて飲んでしまうというような感じです。態度についても同様です。感覚で言えば中学生のような態度と意見を大人が言うというような感じでしょうか。「挨拶って必要ですか?」の世界ですね。

それらをよくよく観察していると、単に精神年齢が低いと言うだけで、別に主張を裏付けるほどの何かを持っているとか、論証によほどの蓋然性があるとかそうしたものはありません。

しかしながら、低精神年齢パワーなのか、群れパワーなのかは千差万別ですが、パワーはあるので周りはたじろいてしまう、なので変に屈してしまうということが起こっているような気がします。

そういえば、昔「ゴミ袋を黒から青透明にしましょう」というようなことが広まった時を思い返すと、そんな提案を行政がしても99%の人が無視していて、何年もかけてようやく馴染んだという感じでした。ところが今は行政が一方的に何かを禁止したりするとすぐにそれに従ってしまうという感じです。

その背景には変な公務員人気のようなものもあるのかもしれません。公務員というと現代ではもてはやされていますが、かつては高級官僚でもない限りどちらかというとバカにされる位の感覚でした。特にお役所勤めなんかは、「仕事ができない人」、「経済活動の中で役に立たない人」「営業なんてとんでもない、というような人」がする仕事というイメージがありました。

ボーナスが数百万の時代に十分の一程度しかボーナスが出ない世界です。一部の志を持った人たち以外は、たいてい「営業なんて怖い」という感じで消極的にその道を選んだという感じだったようです。

その時の鬱憤を晴らすかのように、今では必要以上に肩で風を切っているような感があります。

そういえば知人の自営業の方は、役所勤めの同級生に「どうやって生活してんの?」というようなことを言われたりしたようです。

商人たるもの別にそんなところで張り合うのもバカらしいということを思っていたので、「ぼちぼちやってるよ」と答えたそうです。まあご本人たちと金融機関の人など資産状況を垣間見れる人くらいしか分からないことですが、ボロボロの前掛けに油まみれの長靴を履いたおじいちゃんが億単位の資産を持っているということはうまく隠されているという感じでしょう。なんだか裸の王様感があります。

また同様に、以前は虐げられていた側のオタクの世界の人たちもそれなりに許容されるポジションに立ち、外向性がある「虐げてきた側」を低劣なものとして侮蔑の対象にするようになりました。実際に会えば恐怖に慄くにも関わらずという感じです。

まあこれはいわゆる差別問題に近いような構造です。手塚治虫氏によると、初めてアメリカに行った時に差別をしてきたのは黒人のウエイトレスで、「差別される痛みをわかっているならばやらないだろうというのは幻想だ」ということを突きつけられたと書籍の中で書いていました。

むしろ「虐げられてきた分を取り返そうとするのが普通」ということがわかったという感じのようでした。

そんな感じで一定期間は横暴になり、虐げる側になってしまうのでしょう。

Category:笑う月

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ