物事の完璧さプロの定義

物事を完璧にこなそうと思っても、やはり多少はアラが出ます。

完全な状態を目指すというのはいいですが、あまり根を詰めるとその分緊張するので、結果的にミスを生み出してしまったり、カリカリして空気が悪くなったりして物事がうまくいかなくなってしまうことがあります。

小学生の時はテストが簡単だったので「100点中100点でクリア」という感覚でした。が、中学生くらいになってから、平均点云々の話になり、テストは100点じゃなくても良いという感じだったので、「そうかぁ、100点じゃなくていいのかぁ」ということを知りました。

その頃から、物事はすべて完璧にこなそうと思っても100点はあまり出ないという感覚がつきました。

よくよく考えると、何かの難関資格を持っている人だって、ほとんどのケースでは満点合格というわけではないはずです。

そういうわけで、けっこう完璧じゃなくても大丈夫なのだということを思ったりしました。

完璧ではないという前提

まあ仕事においては、完璧じゃないと相手に被害が出るので、可能な限り完璧を目指したりはしますが、それでも一回目は1つか2つくらいはミスがあったりするんだろうなぁとか、多少は誤解があったりするんだろうなぁくらいに思っています。

そういえば先日、みどりのマキバオーを読んで、チュウ兵衛が川に流されている時、引っ張り上げるためのロープをまるごと投げたたれ蔵を見て思い出したことがあります。

思い返すと自分も

「よっしゃつかんだぞ!引っぱれ!」

「え、何をですか?」

とボケているマキバオー並だったなぁと言う感じです。

みどりのマキバオー 1巻 P81 ©つの丸

みどりのマキバオー 1巻 P81 ©つの丸

みどりのマキバオー 1巻 P82 ©つの丸

みどりのマキバオー 1巻 P82 ©つの丸

高校一年生の時です。

はじめてのバイトでバイト2日目くらいの時、就業開始時間の少し前には出勤し、時間ギリギリに職場内に入りました。

その前におはようございますと言って入るということを習っていたので、元気よく

「おはようございます!」

と言ってみたのですが、

その時に、

「おい!おはようございますとちゃう。

時計を見てみろ!今何時や?」

と言われたので、

「え?こんにちはですか?」

と答えてしまいました。

その他、サラリーマン風のお客に

「ふぅ。とりあえず、なまちゅう~」

と人差し指を天に向けられながら注文されたのですが、

何のことかわからず、周りも忙しそうだったので、ひとまず生搾りチューハイを出して、

「ちゃうよ~…え~…なんで~…ちゃうよ~…わからんかなぁ!」と言われながら本気で怒られたことがあります。

それでも明らかに10代だったので、悪気がないということはわかってくれていたようで、許してもらいました。

まあそれくらいにひどいバイト君だったわけですが、それでもありがたいことにお客には優しくしてもらい、たまに何の脈略もなく「きばりや」と、1000円をくれる人もいました。

まだまだ病中になる前であり、それくらい緩やな日々を過ごしていた感じです。

そんな感じで、何事も完璧ではないという前提に立って、たまに怒られたりはしましたが、怒られたことは忘れないので、どんどん改善していきます。いずれ完璧に近づくのだからまあいいじゃないかという感じです。

プロの定義の曖昧さと「プロ=100%」の矛盾

その時くらいに、あくまで完璧というのは許容値を超えるかどうか程度であり、考えてみると「プロ=100%」が成り立たず矛盾するということもあるなんてなことを考えたりもしました。

僕は非体育会系なので、本格的なルールなどは知りませんが、例えば野球であれば、投げる方、打つ方は共にプロだったりするわけです。

それぞれに「プロ=完璧=100%」が求められているのなら、前者は打たれてはいけませんし、後者は100%打たなければならなくなるので、矛盾が生じて根本的に論理が成り立たなくなります。

そういうわけなので、それぞれどれくらいに結果を出せばプロ認定されるのかという許容値のようなものがある程度で、100%の完璧は根本的に成り立たないのだということに気づきました。

プロの世界でもそんな感じなので、完璧の定義自体がちょっと定義しづらいということを思ったので、それからというもの「何事も、いくら根を詰めてやってみても、ちょっとくらいはアラが出る」という前提で物事に向き合うことにしています。

厳密さに余白を設ける

物事に完璧を求めると、怒りやがっかりや悲しみの発生の閾値を厳しいものにしてしまいます。

何割かの確率でアポイントはキャンセルや変更になるとか、お客のうちの何人かに一人は豹変する人が出てくるとか、疲れで多少はミスが出るとかそうした感じで余白を持っておかないと、すぐに怒りや落胆や悲しみがやってきてしまいます。

自分に厳しすぎると、自責の念にかられたり過労で倒れてしまうことになってしまいますし、相手に厳しすぎると自分も怒りや悲しみがやってきて、さらに嫌われます。

それに緊張するので逆にミスを生んでしまうというおまけ付きです。ロクなことはありません。

僕は高1のバイト君の時「まあ一回か二回くらいは怒られるだろう」と言う前提でバイト先に向かっていました。

それくらいのほうが緊張もなくて楽に行くことができます。

一段抽象的に考えて代替手段を考える

また、ある特定のことについての完璧さを検討して煩悶するというのも苦しさを生みますが、その特定のことに執著するということもまた苦しさを生みます。

どの程度ならば許容されるのかとか、何をもって完璧かという定義も曖昧です。そして、その上で例えば、営業さんとして配属されたからには、しっかりた営業さんとして活躍することを目指して邁進するというはいいですが、やはりそれでも向き不向きはあります。

それをその分野で完璧になれなかったからといって落胆する必要はありません。

営業という具体性を取っ払えば、別に何かしらで稼げばそれでいいはずなので、いくらでも変わりの手段が見つかります。

まあもっと言えば「まあ生きているからいいか」くらいまで考えることすらできます。

世間の優しさを実感

そういえばここしばらくは結構忙しかったのですが、忙しさに比例して疲れがたまり、案の定いくらか失態をしでかしたりしました。

といっても些細なことですが、行政関連の書類の数値を間違ったりなどなどです。

些細といえば些細ですが、結構重大な問題です。

で、1つは納付額の記入において最後の最後で数値を間違えました。すぐに気づいたので金融機関窓口にて相談の上訂正印を押したのですが、後々調べてみると訂正印が効かないタイプの書類だったようでした。

再提出かと思いきや、納付を行った金融機関がうまく処理をしてくれました。

まあ元々数値の記入を間違ったのは僕なので、発端は僕なのですが、「訂正印が効かないことを確認せずに取り扱ってしまいすいません」という感じで、書類を再作成してくれたようで、書類の交換に出向くだけで済みました。さらに粗品まで用意していただいて申し訳ないなぁという気分になりました。

Category:miscellaneous notes 雑記

「物事の完璧さプロの定義」への2件のフィードバック

  1. 仕事に対する完璧さというのは、常々考えさせられるものがあります。

    私は工業製品の開発に携わっていますが、今から15年ほど前までは、ある課題に対して、何か100%完璧な答えがあって、それに到達しなければならないような脅迫観念がありました。

    その気持ちは必要ではあるのですが、経験を積むにつれ、最終的な製品仕様を決定するまでの様々は判断は、かなり、いい加減というか、適当な部分を含まざるを得ないことに気づくことになりました。

    工業製品はお客さんの手に渡って、そこで、さまざまな使われ方で作動し、ある想定された年数、あるレベルの機能を保持する必要がありますので、開発の段階では、お客さんの使い方、年数を想定して、様々な机上検証(コンピュータを駆使した解析)や、実体を用いた作動テストを実施して、これなら大丈夫と思って世に商品を出します。

    しかし、開発段階で実施した検証というのは、下記のような問題点を必ず含みます。

    ① コンピュータを駆使した解析もその条件、モデルは人が考えたものであり、実際に起きている複雑な自然現象を100%忠実に再現することは、未来永劫不可能であり、必ずいくらか簡略化される。

    簡略化されたからといって、それで不具合を起こしてはまずいので、そこに、仕様面でマージンを持たせるわけですが、コスト、重量を考えると、それほど大きなマージンは持たせられないので、過去の実績などを参考に、現実的なマージンを決める。そこを責めるのが技術力ですが、崖を超えれば不具合発生。

    ② 開発時の評価は加速評価がほとんどで、実際のお客さんの使い方とのは少なからず乖離はあるので、心配な分、評価条件を厳しめにしたりしますが、その厳しくした条件がお客さんの使い方を十分反映しているとは限らない。

    ③ お客さんの使い方+その製品の技術的な特色から、製品の各機能に関して、最も厳しい評価条件というものをあらかじめ開発の段階で想像することが必要だが、人の頭ではいくら考えても、想像しきれない部分は残る。

    ということで、さまざまな乗り物などは、人為的な操作ミスを除いても、事故は必ずつきもので、何重ものフェールセーフ機構を備えた航空機でも、事故発生を0にできないという現実をみると、人は、生身の自分が素の状態でできること以上の効率化を求めて、工業製品に頼った時点で、事故のリスクを抱えてしまうものなんだなあと思ってしまいます。

    でも作る側としては、そんなことは言えないので、100%にできないことがわかっていて、でも、100%を目指しますと言わざるをえないジレンマがあります。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      やる前とやった後、作る前と作った後では、意識のあり方も多少なり変わっていて「見えていなかったものが見える」ということが起こったりします。
      また、専門的になればなるほど、専門性の高さに応じて視野が狭まったりすることもあります。一般の感覚との乖離が大きくなり、凡ミス的に見落としてしまったりしまうこともあります。
      コンピュータによる解析についても、自然のランダム性を含めて合理的な範囲外のことは加味されていなかったりすることもありますし、あくまで元は過去のデータなので、データを集めた時点以後に変化した環境要因の分は予測にしか過ぎなくなるので精度が100%になることはありません。
      世の中の大半のことは「だいたい」で何となく成り立ちますが、人命等にかかわる製品の場合は、だいたいでは済まされないので重圧がかかるところです。
      いくら完璧にやっても、やった時点の自分には見えていない部分があるかもしれないという前提を持ち、慢心を制するのが一番の予防になると思っています。

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