情報を短期間で大量に流し込むことで見える基礎と特性

情報を短期間で大量に流し込むことによって、あまり苦労することなくその分野のことがすぐに習得できたりします。習得ということでなくても、情報を短期間で大量に流し込むことでその分野・対象の基礎や特性が見えてきたりもします。

「現地語を浴びる」という感じで一気に情報を流し込む語学の訓練のように、長時間の観察を短期間で一気に行うと一気に基礎的な部分や特性、パターンが見えてきます。

そういえば最近雀くんや山鳩(雉鳩)くんが家の裏によく登場するので、毎日のように彼らの声を聞いています。

一日中鳴き声を聞いていると、雀くんや山鳩くん同士の「鳴き声のコミュニケーションのあり方」がわかってきたりします。そしてついでに発音の練習をしてみたりしています。いわば語学としての雀語と山鳩語の練習です。なお、一応セキセイインコについては長年一緒に住んでいたので、既に習得済みです。

雉鳩(キジバト)・山鳩(ヤマバト)の鳴き声

一気に流し込む語学の訓練

語学の訓練として、「母語への翻訳をせずに一日12時間以上かつ2週間連続で話を聞いていると勝手に覚えたりする」ということは結構有名です。

弟の友人が適当に選ぶ形で中国の内陸部に冒険行った際、やはり2週間程度である程度片言で話せるようになったと言っていました。日本語はおろか、英語も中国語の普通語も通じないような地域だったからこそ、頭が「適応しなければならない」と思ってフル稼働したのでしょう。ちなみにその人は、今ではかなり話せるようで、カラオケに言った際は現地の歌を歌うくらいにまでなっていたりしてす。

もっと身近な例で言えば、「合宿」のようなものは、それまでの日常の練習と上達の感じから言えば「合宿期間中の数日間」という期間では説明がつかないほど上達が早かったりします。

そんな感じで同じ時間やるにしても、「短期間かつ一日の時間は長く」という感じで挑んだほうが上達は早いという感じがします。

長時間の観察を短期間で一気に行う

1日12時間を超えるような長時間の間、ずっと何かを観察していると、その分野における何かの特性がつかめてきたりします。

ちょろちょろやるよりも一日に勤しむ時間は長時間で、かつ、短期間で一気に行うという方が基礎や特性がつかみやすかったりします。

これはもちろん語学的なものだけでなく、様々な分野共通であり、身近なところで言えば、ずっと人を観察していると「ある身体の特性と顔のパターンと性格」などもわかるようになったりしてきます。

例えばうどん屋さんに勤めていた場合、入ってきたお客の顔を見ただけで「これはわかめうどんを頼むな」ということがわかったりしてきます。

そんな感じで何かを体系的に学ばなくても、「じろりと白眼をむいて」で触れていたような「その人の人生が狂うほど人を振り回す女性のタイプ」すら、共通項が見えてきたりします。

まあ感覚的に「匂い」を察知できるようになるという感じでしょうか。

それは例えば熟練の整備士が、動作音を聞いただけでどの部分を修理すれば良いのかわかるというのに似ています。

状況や文脈によって変化する

様々な人を観察していると「ある身体の特性と顔のパターンと性格」も理解できるようになっていきますが、これは言語と同様に画一的な判断をすべきものではありません。

言語においても、その語やフレーズの持つ意味は状況や文脈によって変化します。

それと同様に、人においても「その人のどの部分が反応として返ってくるか」というところは確定していません。

現在の状態やこちらの言動のあり方によって、相手の反応の仕方は違うという感じになるので、確定的なレッテルを貼るということは避けるべきです。

まあ先の「わかめうどん」の例で言えば、直近にわかめを食べていたら注文はわかめうどんではなく、きつねうどんになるかもしれないという感じです。

あるタイプの人は、ほぼ確実にわかめうどんを選択するとしても、100%確実にわかめうどんを頼むかどうかはわからないということになります。

そんな感じなので確実性の問題から確定的なレッテルを貼ることはできません。

効率性からの一種の偏見

しかし事業等々効率性が求められる場合においては、効率性を考えて「厳密に確定しているわけではないが、ひとまず避けておこう」というような行動選択の指針を作って効率化することはできます。

ということで、「ヒゲ・メガネ」の人も、「何なのこいつ?」の人(鈍い人たちの言動に直接反応せず、自らの洞察力を活かす)も、その人のすべてがダメというわけではないのですが、信用問題においての効率性を考え、「あえて選択することもあるまい」ということで経営の上では避けています。

「その人のどの部分が反応として返ってくるか」という部分は不確定ですが、大体のパターンはほとんど決まっていたりします。そのパターンの幅すらわかってきたりするので、対処対応の非効率性から避けてしまうという感じになります。

ただもちろんそれは効率性からの「原則」であって、絶対的な理屈として保持しているものではありません。このパターン習得後の「原則」に執著が生まれることを「偏見」や「固定観念」と呼んだりします。

一応、経営の合理性、効率性からの一種の偏見ということになりますが、そうした領域における行動選択のみに適用する程度で、完全に一般化したり、その観念に執著しているわけではありません。

どうせなら情報を短期間で一気に大量に流し込んでみる

不要な細切れの情報」は人の感情を右往左往させてしまいますが、ある分野に特化した情報を一気に頭に流し込むと勝手にその分野の基礎と特性が理解できたりします。

ということで、どうせなら情報を短期間で一気に大量に流し込んでみるということの方が細切れ的な「暇つぶし」よりも断然に有意義という感じになっています。

ただ、何でもかんでもできるのかということになりますが、やはり対象によって向き不向きがあり、語学的な言語の習得とはまた少し異なった視点で考える必要があると思います。

自然的な法則と人工的なもの

といっても、文法についてはチョムスキー的な仮説があったりもしますし、生得的な領域のものであれば大体は通じそうなものですが、「人が決めたことで人が体系化して構築したもの」、つまり人工的に構造が組まれたようなものは、基礎的な体系を知ってからでないと難しいのかもしれません。

規則として人が定めたようなもの、人が定めた縛りのようなものがあるものは、自然的な範囲のことではないので、「一気に大量の情報を流し込むことによる習得」ができなくはないですが、難しいという感じになっています。

自然的なものに関しては、非言語的なものであっても法則がつかみやすそうですが、人工的な対象については、言語的でありながら人が何かの都合で設定した「ルール」が存在します。ということで、「非自然的なルールが存在し、それがわからない」ために習得が遅くなってしまうということが起こりそうなものです。

これは恣意的な設定というよりも、主に言語的な限界から論理の上で二律背反が起こっていたりして、仕方なく非自然的になっているという感じになるでしょう。端的には、二律背反的なものに対して「社会システム上は、ひとまずこうしよう」と苦渋の決断がなされたようなルール設定があるという感じになっています。

もちろん大量に情報を流し込めば、共通項が見えてきたり法則性が見えてきたりします。ただ、人工的なものは人工物のためそれが何かがはっきりとわかっていたりしますし、基礎的なルールがが明確にわかっているようなものは、一応基礎として別途学んでおいたほうが早いような気がします。

思いっきり本を読んでください

Category:miscellaneous notes 雑記

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