タグ別アーカイブ: 論理

「自己逃避。」

バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように、自分自身に対して短気であり、陰鬱であり彼らの行なうすべての店で逸走する馬に似ていて、そればかりでなく、自分自身の創作から、短い血管をほとんど破裂させそうな喜びと情熱だけを獲得し、その後でそれだけ一層冬のような寂莫と悲観とを獲得するような、あの知的な痙攣の人間たち、― 彼らはどのようにして自己の内面で我慢できようか!彼らは「自分の外」のものに同化することを渇望する。 曙光 549 前半 今回も例のごとく 「バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように」 と

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ヨーロッパ的でなく、高尚でない

キリスト教には、何か東洋的なものと何か女性的なものがある。これは「神はその愛する者を懲らしめる」という思想の中にあらわれている。なぜなら東洋の女性たちは、懲らしめと世間からその身を厳しく隔離することとを夫の愛のしるしと見なし、このしるしが中絶すると不平を訴えるからである。 曙光 75 「誘惑者」で触れていますが、同級生のお母さんたちはみんなお母さんという感じですが、最近では「お母さんではなく一人の女性として」というような風潮になってきているのか、未だに「若い女」を目指そうとしているような雰囲気があります。 それと同

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キリスト教徒の底意

次のことが第一世紀のキリスト教徒のごく普通の底意ではなかったろうか。「罪がないと思いこむよりも、罪があると思いこむ方がよい。というのは、はなはだ強力な裁判官がどんな気持ちでいるのか、よく分からないから。― しかし裁判官は罪を意識している者ばかり見つけたいと思っているのではないかと気がかりでならない!彼は大きな力をもっているので、自分の面前の人間が正しいということを認めるよりも、罪人を赦す方がたやすいであろう。」 曙光 74 前半 キリスト教徒の底意(そこい)ということで、正しいと認めるよりも赦す方がたやすい、という

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かつてのドイツ人的な教養

あのドイツ人的な教養はヨーロッパ人を馬鹿にしたということ、またそれはそうした関心に、それどころかそのように模倣したり張り合って自分のものにしたりすることに値しなかったということは、否定することができない。まあ今日、シラーや、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、シュライエルマッハー、ヘーゲル、シェリングなどを捜すがよい。 曙光 190 中腹 「シラーや、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、シュライエルマッハー、ヘーゲル、シェリングなどを捜すがよい」 … 「誰?」 という感じの感想を持つ人が大半のはずです。 ということで、

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「死後。」

死後を経験したことがないからこそ、「夢の中では死なない」なんてなことが言われることがあります。 だいたい胡散臭い宗教が心の隙間に入ってくるときは、病気を含めた死への恐怖、身内が死に瀕している時、マルチネットワークが心の隙間に入ってくるときは、ギャンブル的スケベ心か自尊心が傷ついていた自分が認められ、社会的賞賛を受けられるかもしれない逆転チャンスと勘違いする時と相場が決まっています。 さて、死後を想起するということで、だいたいは不安感を煽られます。 しかしながら理屈で言えば、死後を経験した人が今生きているというのは、

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現今の人々の哲学研究法

現今哲学的に考えるわれわれの青年たちや、女性たちや、芸術家たちは、ギリシア人が哲学から受け取ったのと正反対のものを要求するということに、私は十分気がついている。 曙光 544 序 10代後半から20代前半、活字中毒のときになりますが、「書物から学ぼう」という姿勢ではなく、思索のきっかけとして書物を読み漁っていた感があります。 そして、原典的なものは別として、だいたいの本は、「資本主義」や「聖書の記述」「伝統的仏教」「史実的」などなど、何か前提を置いていて、ゼロベースで考えているものなど皆無であり、まったくもって物足

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情熱を真理の論拠にするな!

この場合は、情熱=パッション(passion)ということで、殉教としての情熱という感じでしょうか。 世の中には「押しが強い人」がいます。その内容が理不尽であっても押しの強さでやってきたというタイプの人です。 たまに政治家でもそのタイプの人がいますね。というより、そういう人たちはそうした気質を利用されつつ、ほとんど傀儡ですから、それはさておきましょう。 新興宗教にハマった人というのは概して押しが強いものです。 「迷っている人々を救うことで自分の徳が上がる」みたいなことを本気で思っていますから困りものです。 教義の布教

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最初のキリスト教徒

聖書の中には、最も野心的で最も厚顔な魂が備わり、また、抜け目がないと同様に迷信的でもある頭の持主である人の歴史、使徒パウロの歴史もやはり書かれているということ、― 若干の学者は別としても、誰がこれを知っているだろうか? ― パウロの書面を「精霊」の啓示として読むのでなく、われわれのあらゆる個人的な危機を考えないで、誠実な、そして自由な自分の精神で読んでいたなら、真に読んでいたなら、― 千五百年の間そのような読者は誰ひとりいなかった―、キリスト教もまたとっくの昔に終わっていたことだろう。 曙光 68 一部抜粋 あらゆ

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老練

実行に当って、摑み損ねもなく、躊躇もなくなるときが老練に達するときである。 曙光 537 何事もプロの領域に達すると、迷いもなくものすごい判断の速さと実行をもって素早くこなしてしまうようになります。 以前何処かで書いたと思いますが、仕事をしているようでも結構な空回り時間があり、あれこれ判断を決め兼ねているとドンドン進みは遅くなっていきます。 ⇒(仕事を倍速でしてみよう「われわれのどこが最も精巧であるか」、「粗雑な知性は何に役立つか」) おそらく一般的な職場でも、できる人とできない人とのスピードの差は倍くらいあると思

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短気な人間はどこでわかるか

戦い合い、あるいは愛し合い、あるいは敬慕し合う二人の人間のうち、短気な方の人間はいつもわずらわしい方の役割を引き受ける。同じことが二つの民族にもあてはまる。 曙光 398 まあ気が短いというだけでそれが良いとも悪いとも言っていないところが面白いですね。 いつでも心地よい、快い状態でいたりとか、アイツによる騒ぎ、執着をやめるということは確かにそうあるのが良いのですが、アイツの性質上、快い状態でいなければいけないとか、執着を「やめなければならない」という、裏側の執着を作っているというケースもよくあります。 条件をなくし

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真理は力を必要とする

たとえ口の上手な啓蒙主義者がいかにその反対を言うことに慣れていようとも、― 真理はそれ自体では断じて力ではない!― 真理はむしろ力を自分の味方に引き付けるか、あるいは力の味方になるか、でなければならない。 曙光 535 前半 社会を見渡してみると「力を手に入れなければならない」というような印象が多いですが、力は手に入れるものではありません。 同時に力だけでなく一切の現象は「手に入れる」という属性のものではないのです。 体育会系や義務教育の延長では、「努力した末に手に入れる」という構造が好きですが、こうした構造は、ア

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宗教の起源について

事物について自分自身の意見をどうして啓示として感じることができるのか?これは宗教の発生の問題である。 曙光 62 序 今まで何度かはお伝えしていますが、僕は何かの宗教に属していませんし、もちろん宗教ではないという宗教まがいの団体にも属していません。 僕の中の宗教の定義は結構単純明快で、「アイツが理解不能な領域について懐疑を持ちながらも、信仰することで抵抗をなくし、何か自分の知りえない領域、上位の存在にお願いして、現世もしくは来世で良いことを起こしてもらおうとするもの」という感じです。 宇宙人に対するものも同じような

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われわれ初心者!

俳優が他の俳優の演技を見るとき、彼は何と一切のものを推測したり見て取ったりしていることだろう! 中略 他方画家が、彼の前で動いている人間をどんなに別様に見ることであろう! 曙光 533 抜粋 合気道の袴は、相手に膝の動きをさとられないためにブカブカであると聞いたことがあります。 一方、画家はピカソ等々平面空間を抽象的に統合して捉えたりしています。 さて、「われわれ初心者!」です。 初心者と学力 先日、なぜか家族内で「学力」の話をしたのですが、これほどにまで時間をかけてどうしてあれほどにまで学力に差がつくのか、という

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「愛は平等にする。」

愛は、それが一身を捧げる相手から、よそよそしさの感情をすべてなくそうとする。したがって愛は偽装と擬態とで満ち満ちている。愛は絶えず欺き、実際には存在しない平等のお芝居をする。 曙光 532 前半 平等ということなので、絶対的なモノの見方と相対的なモノの見方についてでも書いていきます。 平等が語られる時は、だいたい社会目線です。経済学の永遠のテーマとされる、ピザを均等割りするのか、体格に合わせて分けるのかといった分配なんかも社会的です。 ほとんどの場合、「平等」という言葉は、弱者側からの説得材料として使われる程度で、

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思索家の廻り道

多くの思索家にあっては、その思索全体の歩みは、厳しく、仮借(かしゃく)なく、大胆であり、それどころか、時々自分に対して残酷である。しかし細部にわたると、彼らは穏やかでありしなやかである。 曙光 530 アイツこと自我は、危険回避を中心に汎用性の高い法則を好みます。 そういうわけで、若いときから様々な物事に対して「どうやったらいいんだろう?」という疑問がわくたび、「バッチリな答えはないかなぁ」なんてなことを思い、思索を繰り返してきたのではないでしょうか。 一人で思索することもあれば、誰かに相談して知恵を借りようという

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どの程度まで同情を警戒しなければならないか

同情は、それが実際に苦しみを作り出すかぎり― そしてこれがここでわれわれのただひとつの視点であるが―、およそ無害な感動に迷いこむことと同じように、ひとつの弱さである。同情はこの世の苦しみを増大させる。 曙光 134 序 人に影響を受けてしまうということは、他人が条件となっており、また「人に影響を受けたくない」という抵抗感も、人からの影響を示していることになります。 そして人を励ますという場面においても、根底に同情があり、「○○だから大丈夫だ」と慰めてしまった場合、「○○」についての執着が増してしまうというケースがよ

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背後の問題

ある人間がいくら明らかにして見せても、人は次のように問うことができる。それは何を隠しているのだろう!それはどこから眼差しを逸らさせるのだろう?それはどんな偏見を刺戟するのだろう?そしてそれからさらに。この偽装の精巧さはどこまで及ぶのか?そしてその際どこで彼は失敗するのか? 曙光 523 とにもかくにも、ほとんどの場合、議論の裏には感情が隠れています。 やれ常識だ、理論だというものを持ち出していた場合でも、その奥には主義思想、それも感情的なものを源流としてあれこれ言っているにすぎないことがほとんどです。 まれに、きち

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欺かれる

諸君が行為しようと思うや否や、諸君は懐疑への扉を閉ざさなければならない、― と、行為する者がいった。― しかし君は、このようにして欺かれた者になることを懸念しないのか?― と、瞑想的な者が答えた。 曙光 519 欺かれる(あざむかれる)ということで、「選択肢から選ぶ」ということをもって欺かれてしまうという面についてでも書いていきましょう。この「欺かれる」の「欺」は、もちろん欺くことであり、詐欺の欺です。 だいたい思考が働いている時は行動がストップします。 道が二手に分かれていて、どちらにしようかと検討している時は、

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道徳的な流行

道徳的な全体判断は何と変化したことだろう! 曙光 131 序 毎度おなじみ道徳の時間です。 世の中には宗教という形を取らなくても、変化感じの思想とか道徳的教義をもって群れる集団があります。あまり言い返せそうにない道徳によって人を洗脳するという感じです。 まあこうしたものの大半は、来世主義だったり、「もうすぐ宇宙人がやってきて地球を支配するから、今のうちに宇宙人側につくんだ」というようなものであり、結局、自分よりすごい存在がいて、その存在に駄目な自分の人生をなんとかしてもらおうというような教義で溢れています。 以前、

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目的か?意志か?

たまに「今 集中」なんてなキーワードでサイト内検索が盛り上がっていることがあるようですので、今に集中するということについて書いていきましょう。 もちろん、「今やっていることに集中しろ」というような、義務教育的なお話ではなくて、今この瞬間に意識を集中させるというようなものです。 今に集中する場合、意識の集中のレベルによって、体感にも段階がありますが、途中で変な体感がやってきても、「今そんな変な体感があるだけだ」と考えてください。 でないと、あとで変な宗教にハマってしまうかもしれないからです。 全ての思考と感情をストッ

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「過去は変えられないが、未来は変えられる」は根本的に論理が破綻している

「過去は変えられないが、未来は変えられる」は根本的に論理が破綻している、なんてな感じで、久しぶりに哲学カテゴリで書いてみます。 なんだか体育会系に多いじゃないですか、こういう「過去は変えられないが、未来は変えられる」というようなことを言いたがる人。 徹底的に哲学的というか論理的に書いてもいいのですが、あんまり難しいのも何なので、少し噛み砕きながら書いていきます。 まだ来ていない「未来」が確定していないのに「変えられる」のはおかしい まず表題に直結したような論理の破綻からいきますね。 まだ来ていない「未来」が確定して

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彼の「個々の物」を知る

はじめてわれわれを見る知らない人の眼には、われわれが自分自身そうであると考えているものとは全く違って見えることを、われわれはあまりにも忘れやすい。印象を決めるのは大ていは目につく個々の物以上の何物でもない。 曙光 381 前半 以前、「優美さがない」の「パーカーとスーツ」で少し書いたことがありますが、見た目で判断する人は実に多いような気がします。 見た目で判断されるからこそ、高級車や高級腕時計なんかで対人関係のアドバンテージを稼ごうとするのでしょう。 世間はそんな感じですが、僕は最近営業マンと会ったときなど、Tシャ

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国家をできるだけ少なく!

われわれの時代は、経済について語るだけ、一個の浪費者である。それは最も貴重なものすなわち精神を浪費する。 曙光 179 文末 ある時から、消費が自分を高めてくれることには限界があることに気づきました。 つまり物やサービスを消費することで得られる面には限界があり、それらが自分を満たしてくれる程度には限界があるのだということをです。 そして、「社会のため」という大義名分は、非常に遠回りで、疲れるだけだということを感じました。 社会においてもっとも危険な洗脳の一つは、義務教育課程で教える側にいる人たちの思想です。 そのタ

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ニヒリズムと「がっかり」をよく考えよう

ニヒリズムと「がっかり」の先にある境地に行くまでのその手前のお話をしようと思います。 最近しばらくご無沙汰のあとに投稿したのですが、そうするとやっぱり全体的なPVが急上昇するようです。 でも最近の投稿は、どうしても社会に触れた分の社会的な垢の分だけ、社会的なテーマになっています。 それでは常連さんとしては物足りないのではないか、ということで「ニヒリズム」と「がっかり」です。 というよりも、こういったテーマなど久々にどうかなと思ったので、書いてみようと思いました。 何だか最近変な記事と言うか素人が「ニヒリズムについて

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環境の選択

威厳を保って沈黙することもできず、高級なことを打ち明けることもできないので、われわれの不平や要求やわれわれの窮境全体の話などを知らせるより外には道のないような環境で生活することは避けた方がよい。その際われわれは自分で不満を覚え、この環境に不満を感じる。 曙光 364 前半 よく「この環境からは逃れられない」という類のことをいう人がいますが、ほとんどの場合どころか、すべての場合においてどんな環境からも脱却することができます。 本当は環境を選択する自由はいつどこにでもあります。 その制限は、どこから来るのでしょうか?

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