われわれは、自分自身を憎むものを憚らなければならない。なぜならわれわれは、彼の恨みと復讐との犠牲になるであろうからである。それ故にわれわれは、彼を誘惑して自分自身を愛させるように気をつけよう! 曙光 517
誘惑ということで、中学三年生の時にカラオケに行ったときのことを思い出します。同級生女子の前でGLAYの誘惑を歌い「キー下げる?」と言われたことを思い出します。
今では何とかギリギリ原曲キーでも大丈夫です。
広瀬香美氏のおかげです。
(動画が削除されたようです)
さて、「誘惑して愛させる」です。
カラオケに行ったときの選曲は無意識をよく表している、ということがあります。
人の好みなんかもわかるので面白いのですが、宴会の後はカラオケばかりというのはあまり好きではありません。
まあ世間ではスペックのようなもので「書類選考」的な人の見定めを行おうとする流れがありますが、そんなものは共感による同調の前ではほとんど意味がありません。
「英語ができる人がモテるぞ」みたいな感じで、モテるために英語を勉強しながらもまだ英語勉強中で、多少なりは能力がありながらもそれほど語学力には自信がない人と、そんなこと自体を気にしていない自らへの信頼感が全開の人では、もちろん自信のある方の人がモテます。
感情は一種のナビゲーション的な役割を持っています。
無理矢理に感情を思考で押さえ込もうとすると、それはストレスになり、同時に良い体験も逃してしまうという原因になります。
データで分析する人たち
そこで考えてみたいのが、データで分析する人たちです。
だいたい「出会いがない」と言いながら、ブチブチ言っている人たちは、感情よりもデータによる分析を優先しています。
まあ意図的に共感による同調を使って、相手を陥れる人もいますから一概には言えませんが、相手が詐欺師や水商売の人などでない限り、感情を優先していったほうが全てうまく行きます。
しかしながら、何事もデータ分析を優先していると、感情すら鈍感になっていきます。嫌いなものや好きなもの、全てがぼんやりしてきます。
「自分は人生を賢く生きている。損なことには手を出していない」
という感じの人ほど、傍目から見れば結構損をしていることが多いのではないでしょうか?
たらればによる誘惑
といっても、世の中の策士たちは、「○○したら」「○○であれば」といったたらればの想像力を使って、自己都合の誘惑をしてきます。
まあ基本形は「ここで相手の要求を飲めば、発射できるかもしれない」というやつですね。○玉の衝動を利用したやり方です。
太ももを見せるだけで○玉が反応するということで、注目を集めるためにポスターなどの写真でも応用されていたりします(政党ポスターでもね)。
そんなことは古今東西様々なところでいくらでも実例があります。
しかし残念ですが、相手の要求を飲めば、引き続き相手の手の内で踊らされるだけになります。
で、こうした構造もあるので、データ分析の方に走って何事も感情で判断しない、という人が生まれていくと考えられます。
色情と金銭は特に誘惑に陥りやすい代表例です。金銭から少し派生した仕事などもこうした誘惑が多いでしょう。
嫌な感情の解消に関する「たられば」
そしてあと一つはあまり語られませんが、それらの抽象的な観念である「嫌な感情の解消」です。
「拝めば楽になる」
「この壺を居間に置くことで祟りが無くなる」
というようなものも含まれます。
こんな時でもやはり基本形は
「それがどうした」
です。
○玉が反応しようが、一瞬救いの手のように感じようが、その感情は感じたまま、
「それがどうした」
です。
感情を押し殺す必要はありません。
感情を否定せずにそのまま
「それがどうしたの?」
という感じでいきましょう。
誘惑して愛させる 曙光 517
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