諦め

諦めとは何か?それは病人の最も気楽な状態のことである。彼はそれを見つけようとして長いこと苦悩して輾転反側し、そのために疲れた― そしてそれをはじめて本当に見つけたのである! 曙光 518

輾転反側(てんてんはんそく)=悩んでいたり、心配事があって、何回も寝返りをうつという感じです。

さて、「諦め」です。

人生は諦めが肝心です。この諦めとは絶望という要素を含んだ諦めというよりも、執着を手放すという意味での諦めです。

執着はそれ自体が苦しみですし、現在「不足している」とか「余計な状態が続いている」という意味で、欲や怒りを支えています。

「強く願えば叶う」を諦観する

概して体育会系などは「強く願えば叶う」ということが好きですが、「執着されても無理なもんは無理だ」と思うことも実感として持っているはずです。

「強く願えば叶う」というのが本当ならば、ストーカーの願いは全て叶っているはずです。

ということで、強く願うという感じであっても、それには種類があります。

今ふと我に返って考えてみても、なぜか勝手に決まってしまっているルールというものがあります。

それは仮止めの状態であったはずが、なぜか固定化されている、というようなものです。

「とりあえずこうしておこう」

とその場で適当に決めたことでも、知らぬ間にそれが基準となり、それが考えのベースになります。

「AはBであるべきだ」

というような考えも、本来は特に決まっていません。

「男は女を養うべきだ」とか「女が掃除洗濯をするべきだ」というのも別に決まっていません。

そして、同じように、「夫婦とはこういうものだ」というのも、何も決まっていません。

でも知らぬ間に「こういうものだ」とか「こうあるべきだ」というのが決まってしまっており、それが執着の原因となります。

それは常識的なことだけでなく、自分の願いについても同様です。

考え方ひとつとっても、執着する限りその内側でしか考えることができなくなります。いわば心理的盲点ができてしまうのです。

いま、親から会社を継いで二代目社長をしているということになれば、今の会社をどう盛り上げていくか、というところが考えのスタート地点になってしまいます。

でも、そんな前提を一度無視してしまえば、人に任せて自分は会社オーナーとなり、ぜんぜん違うことをやりはじめることも案として浮かび上がってきます。

しかしながら世襲で二代目社長をしている人は、「どうやって今の会社の経営を安定させるか」というところからしか考えていないのが一般的です。

で、執着すればするほど、うまくいかなくなります。

なぜなら、執着は不足を支えてしまうからです。

今が全ての因

で、物事の因果関係ですが、原因があって結果があります。原因と条件である「縁」が揃って結果を認識します。そして原因とは直接の原因であって、消えると結果も消えるものが原因です。

で、因があっても縁が無ければ結果は生じません。そして、通常思われている因果関係は、アイツによるご都合解釈であって、そんなところに因果関係はないのです。

因だと思っていることも、実は縁であり、因はもっと単純です。単なる意図にしかすぎません。

「どこどこでこんな話を聞いてそれがきっかけで…」みたいな感じでしょうが、そんな話と出会うのも、そんな話と出会うような前提条件としての性格形成も、発端はつかめないはずです。

傍から見れば奇跡のような偶然が重なり合って、今この瞬間の状況が並べられ、そしてそれを体感しているはずです。

「自分があれこれやったからだ」

とアイツ目線では考えますが、なぜ、あれこれやろうと思ったのでしょうか?

その源流をたどっていった時には説明不可能な領域がたくさん出てくるはずです。

それで、時間というものは、アイツの解釈にしか過ぎません。

今現在、確かなのは今のこの瞬間くらいです。

ということで、今現在の状態が全ての因になります。

そしてそれは操作する必要がありません。

必要がないだけで、あれこれ思考が働いたり、何かの感情が起こることを否定する必要もありません。

それは、元々の意図から次のステキな経験のために、いま縁が形成されているという感じであるからです。

だから、全てを否定せず、ただ執着という錯覚を錯覚だと気付くだけで十分です。

執着自体も存在しているわけではありません。

ただ、そうした側にピントが合っているだけです。

諦めて気楽になる、ということは執着を手放すことで、ピントが正確な方に戻るというということです。

諦め 曙光 518

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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