われわれ精神の飛行する者!

しかしそこから、それらの前には巨大な自由がもはや全くないとか、それらはわれわれが飛ぶことの出来る限り飛んだとか、推論することがだれに許されようか!われわれの偉大な師や先駆者たちもすべて最後には立ち止まった。そして疲労で立ち止まるのは、極めて高貴な身振りでも優美な身振りでもない。私も君もそういう成り行きになるだろう!しかしそれは私にとっても君にとっても何の関係があるだろうか!他の鳥がさらに遠く飛ぶだろう! 曙光 575 一部抜粋

この「われわれ精神の飛行する者!」でニーチェの曙光シリーズ最後の投稿になります。

それでは特別企画の曙光最後にふさわしく(?)物と精神についてでも書いていきましょう。

物がもたらすもの

常連さんなどであれば、単純に物を介しても、その物を媒介しているだけで結局意識状態がどうなるか、今どうあるか、というだけの問題だとお気づきの方もいると思います。

あまり好きな表現ではありませんが、歴史的な話をすると、ほんの少し前まで、飢餓の問題がありました。今でも特定地域においてはそういう問題が残っているでしょう。

社会的なステータスのようなものを一旦排除としても、飢えの苦しみや不衛生であることの苦しみ、暑さや寒さの苦しみという本能レベルでの苦しみがあります。

人はそれを文明の発達によってどんどん克服してきました。

そしてたくさんの物を開発して、本能レベルでの苦しさを克服していく中で、よりグレードの高いものほど、より苦しさを軽減できるという癖がつきました。

まあ単純に6畳用のストーブと20畳用のストーブでは暖まり方が違いますからね。

で、そこまではいいのですが、それらを克服した上で、まだ本能の中には恐怖心が残っています。

それは、他の動物などの外敵からの危険性は排除できても、同類である人間同士の間での争いの危険性というものが出来上がったからです。

その根底には「よりグレードの高いものほどより苦しみを軽減できる」というものに付随したような形で、「自ら苦労するよりも、人が苦労したものを力で制圧して奪い取るほうが楽である」というものが自然と構造としてあるからです。

現代では、その構造が資本主義として残っています。

単に苦しみを軽減したい、苦しみから逃れたいという目的ではありますが、その逃れ方の方法論が大昔からは様変わりしたという感じです。しかし、根本動機である本能レベルでの危険回避のようなものは変わっていません。

データの合理性

一方、データとして精神状態を高めるためにはどうすればよいか、ということを人が考える場合、先程の前提の上、現代で言えば資本主義の上では、より高価な物を所有するということが正しいという結論に至ります。

また、なるべく労力をかけずに食い扶持を得るという意味では、資本を持ち、いわば「権利」だけで、不労所得を得るという構造が正しいということになります。

そういう前提に立つと、精神を高めるためにはデータ上の合理性や相対的比較で物事を判断することになります。いわば本当の意味での経済学です。

しかし経済学は元々、生産効率や分配に関して人の活動の合理性を検討するような学問です。

それは客観的な物理空間の中での人の行動の効率を考えるというようなものです。

個人の精神の中にそのモデルは通用しません。

なぜなら、経済学で取り扱う分野は、現代で言えばマネーということになりますが、いかに生産性を高めるか、そうしたマネーを効率よく稼ぐかということで、「利潤」というわかりやすい目的があるものの、精神においては、その到達地点が抽象的すぎてイメージすらわかないという感じなっているからです。

ということで、「何をもって幸せか?」という経済学でいうところの利潤、マネーのような「それがイメージであっても具体的な指標」というものの定義を求め、そして定義付けの後で、経済学的に行動選択をしようとしています。

その現れの例としては、学歴や就職希望ランキングや婚活におけるデータでの判断ということになりましょう。

しかしそれらは、「幸せとは何か?」という根本定義が抜けたままの宙ぶらりんな状態で仮止めした上でのデータ的判断です。

無明

たまに「物質主義はいかん」というふうなおじいさんなどがいたりしますが、それはそれでいいとして、社会全体を「精神主義に」というふうにする必要もありません。

単に世間は資本主義なら資本主義という枠組みで世界を見ているという形になります。

就職活動中の大学生からしてみれば、基本的に就職活動に関すること以外は見えなくなります。

その範囲に関すること以外のことは、目に入っても見ていないのです。

ただそれだけです。

だから、目の前にいる人は資本主義という枠組みで世界を見ているのだから、それ以外の枠組みや、もっと大きな世界というものが見えないという意味で暗闇の中にいます。

というのを示すのが無明という言葉だったりしますが、そんな無明を語っている人の中にも、無明を語った文献などの世界観という枠組みで世界を見ているだけで、当の本人たちも暗闇の中にいることがよくあります。

普通に考えれば、相手の意識を変えてこその説法において、わざわざ漢文やサンスクリットのままお経を読み上げるということをしないはずだからです。

で、そういうときに「無明」を脱したほうが偉いとか、そういうのではなくて、根本的に相手より偉いということをもって自尊心を高めようとすること自体が無明ゆえという構造になっています。

だから、「お前はまだ何も分かっていない」と偉そうにすること自体が錯覚のうちにいるということになります。

無明から離れるというのは錯覚が解け、アイツの内側から脱して世界をあるがままにみるということです。

ただあるがままにみえるというだけです。

で、それは特定の枠組みがないということにもなります。

だから、重要なものというものも無くなります。

といってもこういうことをいうと稀に勘違いする人がいます。

ただの譫言のように感じ、精神世界に没頭している人だというラベリングをして終わる人もいます。

それはその人のフレームの中の判断だからです。その人には枠組みによる盲点があるため、本質が見えないのです。

その人の判断基準としては、社会的なステータスであるということになっていたりするからです。

カルトの教祖になるような人も同じようなことを言っていますが、彼らは世間を説得しています。ということで、世間からの評価というものに己の状態を依存しているということになっています。

しかしながら、そんな説得自体が不要です。

記述の仕方

その人の世界観、その人が持つ枠組みでの「記述の仕方」は知らないということで、言葉で表現できないということはあります。

例えば、僕はある程度経済社会での理論などについて、そうした人文科学の分野の論文を読んだりすることはできますが、それがスペイン語ならすぐにはわかりません。同時にスペイン語で記述することもできません。

また、高度な数学や医学などについても、専門用語や記号の意味がわからないので、とりあえずはわかりません。でも、それが何を示しているのかを示すものが用意され、言葉を紐解いていけるのであれば、どのようなものでも理解することができます。

そして、それは誰でも同じです。その言葉が何を示しているのかが正確に理解できれば、人が作ったもので理解できないものがある方がおかしいのです。

そしてこの意識は、そうした分野の空間での言語の定義やルールを全て網羅しているわけではありません。

でも、ただそれだけであって、意味がわかればわかるのだから、この世界で語られていることでわからないことは潜在的に一つもありません。

低次元の情報の書き換え

といっても、それらすべてを網羅して知っていく「必要」はどこにもないのです。

世界中の天才たちが、高度な技術でいろいろとよりよい社会をつくるためにと頑張っていますが、結果的にそれが功を奏すとは限りません。概ねそれらは、ある絶対的な定義を定め、その定義に沿った形で物を介して働きかけようとするアプローチになります。

それは言語的記述で、データの取扱で何とかしようとしており、言語的なレベルの低い情報でやりくりしようとしているからこそ、低次元の情報の書き換えしか起こらないのです。

病が治るきっかけは、天才が作った薬ではなく、道でたまたま出会った人の掌のぬくもりだったというケースを考えてみましょう。

世界を解釈する枠組み

画一的なロジックが通用しない背景には、その人が現時点で持っている「世界を解釈する枠組み」があるということになります。

そして、世間のアプローチでは、物や言語という低次元の情報レベルゆえに僅かな情報の変化しかもたらすことができません。

物を介そうが、言語を用いようが、結果としては精神が変化するということにしかなりません。

であるのならば、「物質主義はいかん」と否定するのではなく、そうしたものを用いても、低いレベルでしかあなたの情報状態は変わりませんよ、という方がまだ理に適っています。

世間で良しとされる肩書を作り、あれこれ高価なもので身をまとい、高価なプレゼントを持参していくのもいいですが、そういうものをいくら準備しようとも、心の底からの熱意には勝てないということです。

ただ、相手にも枠組みがあります。人付き合いにおいては、入り口から拒絶されることもあります。

「営業マンはスーツを着ているものだ」という枠組みを持っている人の所に、営業マンがパジャマで訪問した時点で拒絶されるという感じです。

そうした枠組みをある程度突破できるのであれば、あとはそれらに頼るという必要はありません。

そして、言語データが体感に勝つことはありません。

清潔感がプラスになるというよりも、不衛生感が身体感覚として不快になることがマイナスなのです。

といっても、本能的体感の領域を超えて相手の枠組みを意識していればいるほど、相手の枠組みに同化していきます。

だから究極としては、そんな相手の枠組みすら超えてしまうことです。

その時には、既にすべての煩いが煩いではなくなっているでしょう。

われわれ精神の飛行する者! 曙光 575

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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