前進

われわれが進歩を賞讃するとき、われわれはそれによってただ動きを賞讃し、われわれをその場に停止させない人々を賞讃しているにすぎない。 曙光 554 序

「現状維持は後退である!」というようなことをよく言う人がいますが、ひとまずは、そうした社会的なことは置いておいて、前進のために最も重要なポイントについてでも書いていきましょう。

進歩していかなければならないというわけではありませんし、前進していなければならないというわけでもありませんが、まあ前進できるかできないかでいえば前進していきたい時に前進できる方がいいだろうということで、前進のタネとなる「すげー理論」というものをご紹介していきます。

すげー理論

これは先日理論づけたものなのですが、「すげー理論」と言うものがあります。

「すんげー理論」でも良かったのですが、そうなるとすんげーベストテンの理論のようになってしますので、「すげー理論」と名付けました。

大人になると、なぜつまらなく感じるのか、その理由は「すげー!」が無くなるからです。

幼稚園児、小学生、その頃はだいたいのものを見て「すげー!」と思えたはずです。そしてそこには比較がありませんでした。

何がすごいのかわからなくても、何となく雰囲気で「すげー!」と思っていたはずです。

ところが知能が発達してくると、「大した事がない」と思ってくるのです。

今まで毎日のようにあった純粋な「すげー!」がありません。

一般的に大した事がないようなものは「子供だまし」とされていきます。

今は時代が違うので何とも言えませんが、僕たちの世代を例としてみれば、中学生くらいの頃であれば、「ショップ店員」や「美容師」といったタイプの人を「すごい人」と思っていた人も多いはずです。

ところが、大人になると、「雇われの現場担当者じゃないか」とすら思ってしまうようになります。

カリスマみたいな人とか、トップデザイナーとかレベルにならないと認めれられない、という風潮になります。

でも、子供の頃は純粋にその人だけを見て「すげー!」と思っていたはずです。

そして、その純粋な「すげー!」が、前進のタネ、いわば成長のタネになっていました。

それが無き大人は、既に前進のタネがなく、いわば燃料がないというような状態になっています。

こうした前進のタネについては後述するとして、すげー理論について続けます。

ところが、一定レベルを超えるとまた違った見方で「すげー!」がやってきます。

それは大人から童心に逆行して幼心に戻るということではなく、限界を超えると、また「すげー!」になるのです。

全身全てががん細胞になれば、理屈上は大丈夫だというのと同じです。

中途半端な思考能力、知識量だと色眼鏡になりますが、それが行ききると色眼鏡がストンと落ちてしまうという感じになります。

前進のタネ

「すげー!」という一種の感動、そして「何となく憧れる」というようなある種の期待があると、その後にそのような人になるのかは別として、何某かの知識習得、経験のための行動の原動力になります。

同級生の昆虫博士を「すげー!」と思えば、昆虫図鑑を読むことになるのと同じです。

そして、子供の頃は何でもかんでもほとんど無条件に「すげー!」と思います。

そしてそのような心持ちならば、どんどん成長していきます。

ミルトン・エリクソンなんかの流派でよく語られる、「プライミング」と呼ばれるものも同じようなものです。

先に良い感情があると人は動く、というような感じでしょうか。

商品購入でも同じですからね。

海外旅行なんかはわかりやすく、海外旅行を申し込み、代金を払った時点では、まだ自分は海外に行っていません。リアルには楽しんでもいないはずです。

でも、そうした未来の楽しみを先に良い感情として感じるからこそ、海外旅行を申し込む、という感じです。

「ジャンプ派」の登場

で、小学生も高学年くらいになると、スレた人が出てきます。

「まだコロコロコミックなんて読んでんの?ジャンプだろ?」というような「ジャンプ派」の登場です(ジャンプ派とコロコロ派「性に合わない」)。

別にどちらを読んでいても、そして両方を好きでいてもいいはずですが、「コロコロはダサい、ジャンプはカッコイイ」というような人が現れだすのです。

ドラえもんをバカにし、スラムダンクを称賛します。

そうして、色眼鏡ができてきます。その延長がWindowsかMacかというようなものです。

そうしているうちに、純粋に物事は見れなくなり、「流行っているから」とか「ダサいと思われるから」ということで、どんどん本心とはかけ離れたものを選ばさせられるようになっていきます。

また、一方で「すげー!」を利用して悪徳商売をする人も出てきます。そこで痛い目にあうと、「すげー!」はロクでもない、とすら思ってくるのです。

そうして「すげー!」は消滅していくのです。

そして、何にもやる気が出ず、ただ何か義務的なことをこなすだけの無気力な大人が生まれていくのです。

本来、「すげー!」は、失うべきものではありません。

ただし、大人になってからの「すげー!」は純度が低く、ロクな結果をもたらさないという場合があります。

もう一度童心を振り返って「すげー!」を観察してみると、そこにはただ純粋な感嘆があったはずです。

ところが、アイツが発達してからの「すげー!」は、「これで周りを出し抜ける」というような、邪念のある感情です。

物事を相対化し、「他人よりすごくありたい」というようなものを含みつつ、対象がそれを叶えてくれるという思考の元の「すげー!」です。

そうなると、詐欺的な「ダイエット商品」を買ってしまうことになることも起こり得るのです。

それすらも前進のタネにはなりますが、進んだ先の上流に安穏があるのではなく、力を緩めて流れ着いた下流にこそ、安穏があるという落語のようなオチが待っています。

前進 曙光 554

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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