タグ別アーカイブ: 社会

社会全般について

犠牲の道徳

犠牲に供することに応じて自らを測定する道徳は、未開の段階の道徳である。 曙光 221 一部抜粋 「犠牲の道徳」 このようなタイトルを見たことがある、と思って見直すと「生贄の道徳」でした。しかも曙光215です。 今回はバラバラに書いているため、すぐには気づきませんでしたが、国語の授業なら「一項目にまとめましょう」と先生に添削されるような書き方ですね。ニーチェもあとで思い返して追記したのでしょうか。「うーん、さっきは生贄だったから、ここは犠牲にしておくか」という具合でしょう。 この項目は先の215とまとめてもいいくらい

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威厳と恐怖心

儀式、職務と地位上の服装、真面目な顔つき、厳かな眼つき、ゆったりした足どり、曲がりくねった話しぶり、威厳とよばれるもののすべて、これは実際のところ恐怖心をもつ人々の偽装形式である。― 彼らはそれによって(自分を、あるいは彼らが代表するものを)恐怖を与えるものにしようとする。恐怖心をもたない人々、すなわち、もともといつも明らかに恐ろしいものをもっている人々は、威厳と儀式を必要としない。彼らは誇りとする恐ろしいものの徴候として、正直と言葉や挙動の率直さとが評判になり、その上排斥までされる。 曙光 220 坊主がやたらと

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ワンテーマ B層

B層という言葉をたまに使いますが、類語は「ウェーイ」「おもんないグループ」です。念の為に寄せ集めておきます。ウェーイは、「ただのウェーイ」と、最高を最幸と書きたがる「自己啓発洗脳ウェーイ」などに分類されます。このサイトの常連さんは、B層ではないでしょう。 B層の研究 「絆」という言葉が苦手です。寒気がします。僕はB層のことを「ウェーイのやつ」と呼んでいます。震災の募金活動についても寒気がしていました。この違和感の理由を的確に論じてくださっていたのが「B層の研究」でした。 B層の研究 絆という言葉を金融機関までよく使

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へりくだりの欺瞞

「自分を欺くな!」 曙光のこの箇所(219)はこの言葉で終わります。 今回は、僕が自分を欺き、へりくだった時に、ふと、「自分を欺いてへりくだるのをやめよう」ということを気づかせてくれた同僚のことについてでも書いていきましょう。 先日、その同僚との思い出の場所の前を通ると、そこは内装がすっかり片付けられていて、もぬけの殻になっていました。予想通り、という面と、やはりその同僚とのあの思い出をふと思い返したので記しておきます。 同僚との同行営業 その同僚は「営業」としては天才肌で、上司にもほぼタメ口をきくようなタイプのマ

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若干の主張

 個人がその幸福を望むかぎり、彼にその幸福への道についての指令を与えてはならぬ。というのは個人的な幸福は、独自の誰も知らない法則から湧き出るからであり、外からの指令によっては、妨げられ阻止されるにすぎない。― いわゆる「道徳的」な指令は、本当は個人と逆の方向であり、個人の幸福は全く望まない。 (略) 意識をもつ存在すべて(動物、人間、人類など)の発展において、特殊な、比較しがたい、高級でも低級でもない、まさしく独特な幸福が獲得されなければならぬ。発展は幸福を望まず、発展を望み、それ以上の何ものも望まない。― 人類が

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その弱点を芸術家として処置する

もしわれわれがあくまで弱点なしではすまされず、それをわれわれに対する法則として結局やはり承認しなければならないとするなら、私は各人に少なくとも、彼がその弱点を自己の美徳の引き立て役にし、その弱点によってわれわれが彼の美徳を熱望することができるほどの、芸術的な力を希望する。 曙光 218 前半抜粋 弱点というものは基本的に隠される事が多いでしょう。それは弱点をつつき、「いじめてこようとする人」が、かつて存在し、今でも付近に潜んでいる可能性があるからです。 世の自己啓発コンサル、通称エヴァンゲリオン、じゃなかったエバン

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芸術家

ドイツ人は、芸術家によって一種の夢想的な熱情に駆られることを願う。イタリア人は、芸術家によって自分の現実的な熱情をやめて休息したいと思う。フランス人は、芸術家によって自らの判断を表明する機会と話のきっかけとをつくりたいと願う。したがって、われわれが公正であることを! 曙光 217 「芸術家」と聞くと嫌な予感がします。さらに「芸術がわかる人」という一種のステータスのようなものを欲しがる人を見るともっと寒気がします。 たいていはソムリエの資格を趣味で取りに行こうとするような人ですが、芸術一つとっても、人と語っている暇が

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探求者で実験者

学問には知識を得るたったひとつの方法というものはない!われわれは事物に対して実験的なやり方をしなければならない。われわれは事物に対してあるときは好意をよせ、あるときは悪意をもち、それらに対する公正や、情熱や、冷静さを次々にもたなければならない。 曙光 432 前半抜粋 それが学問であれ、芸術であれ、師弟関係があるまではいいですが、学会の時に「酒を買ってこい」など、どうしてそういう体育会系の要素を持ち込むのでしょうか。どうしてお歳暮を贈らないとステージに立てないのでしょうか。 ひとことで言えば、そういう無駄な上下関係

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お世辞屋の風土

卑劣なお世辞屋は、現在もはや君主の近くに求めてはならない。― 君主は全て軍人趣味である。お世辞屋はこの趣味に反する。しかし銀行家と芸術家の近くでは、あの花は今でも相変わらず花盛りである。 曙光 158 卑劣なお世辞屋の典型例はもちろん保険屋ですが、大昔に「お互いに褒めあうと良い」というようなテレビの特集があったのを今思い出しました。 ウソでもいいから褒め合えというものでしたが、試しにやってみると、相手の顔は綻んでいるものの、こちらはだんだん疲弊するというものでした。 ほめられても困る 何年か前に、「ほめられても困る

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われわれの愚弄さに対するわれわれの要求権

世の中には薄口の人と濃口の人がいます。濃口は言うまでもなく絶倫Z会メンバーですが、薄口の人とは、男性にもかかわらずうどん屋で「わかめうどん」を単品で頼むような人であり、その大半がギムキョであることも傾向として挙げられます。 ギムキョギムキョと言いますが、その中でもさらに細分化されることは言うまでもありません。温厚なギムキョは「人畜無害」というあだ名を付けられるような人です。その名の通り、人畜無害なので、特に語られることもありません。 しかしながらギムキョの割に我が強い人がいます。そういう方は、何かの正当性を持ちだし

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道徳的な目標の定義に反対

現在いたるところで道徳の目標がほぼ次のように規定されているのを聞く。それは人類の維持と促進である、と。しかしそれはひとつの定式を持とうとすることでありそれ以上ではない。どこを維持するのか?と直ちにこれに問わざるをえない。どこへ促進するのか?と。ほかならぬ本質的なものが、このどこを?と、どこへ?の答えが、定式の中で脱落しているではないか!したがってこの定式を用いるなら、倫理学のためには現在すでに暗黙の内に無思慮に確定されたとみなされているもの以外の何ものが確定されるであろうか! 曙光 106 前半 本質的なものの定義

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生贄の道徳

諸君は感激して献身し、自分を犠牲にすることによって、神であれ、人間であれ、自分を捧げている力強いものと今や一体であるというあの考えの陶酔を享受する 曙光 215 一部抜粋 世間の宗教のみならず、国家であれ大企業であれ、大企業ではないものの老舗であったり、有名なブランド力のある企業などに勤めると、意識しないままにこういった陶酔に酔うことがあるでしょう。「自分を捧げている力強いものと今や一体である」という陶酔です。 主義や組織との同化による陶酔とでも表現するべきか、宗教への狂信というものだけでなく、組織としての国家への

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われわれの評価

あらゆる行為は評価にさかのぼる。すべての評価は、自分自身のものか、受け入れられたものかである。後者のほうがはるかに大多数である。なぜわれわれはそれらを受け入れるのか?恐怖からである。つまりわれわれは、それらのものであるかのような態度をとることが得策だと考える。そしてこの考えに馴れる。したがってこの考えは結局われわれの本性になる。自分自身での評価。これはあるものが他人にではなくて、ほかならぬわれわれにどれほどの快または不快を与えるか、という点に関してそれを測定することをいう。 曙光 104 抜粋 ニーチェにしてみても

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消えた懐疑

古代人は― われわれと違って― 来るものに関してというよりもむしろ、現にあるものに関してはるかに懐疑的であった。 曙光 155 後半抜粋 「過去にとらわれずに」に続く言葉は「未来型思考でいこう」という場合が多いでしょう。またもや二元論化です。「ゆく年くる年」と聞いても、「え、今は?」とはならないでしょう。 現にあるものに懐疑的ということは、「?」の対象が未来ではなく今この場のあれこれに関して疑問を抱いていたということです。 未来は未来で今起こっている妄想ですから、それに懐疑的になっても、元が空振りで元が妄想ですから

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危機に瀕した者の慰め

どれだけのことが起こっても、慰めというものは必要ありません。起こった現象はすぐに消えすでに記憶になっています。記憶によって自爆しているのだから、何か他のもので埋めようとする必要はありません。 急激な危機に瀕する時は必死で目の前に対応しているだけで勝手に終わります。終わらなくても何かの結果を残して終わります。終わらなくても死んで終わりです。結局終わります。 それよりももっと問題視されるのはジワジワした危機です。 危機に瀕した者の慰めの中で、最も登場しやすい「危機に瀕した者たちの慰め」としての弱者の絆について触れていき

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人生に失敗した人々

人生に失敗した人々ということで、人生の失敗について触れていきます。世間でもよく失敗という言葉が使われたりして、「人生に失敗した」とか「失敗続きの人生だ」とか言うようなことを嘆いたりする人がいます。 本来失敗の対義語である成功ですら曖昧な理由で生まれた「願望」の達成くらいの意味合いであるはずですが、世間では、成功とは経済的成功とかお金持ちになるとかそんな雰囲気で語られていたりもします。 自己啓発コンサルの視点から見れば成功とは金持ちになることであり、失敗とは貧困に喘いでしまうことになるのでしょうか。 そしてその「成功

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倫理の否定者には二種類ある

「倫理を否定する」― このことは第一に、人間の申し立てる倫理的な動機が実際に彼らを行為に駆り立てたのだ、ということの否定を意味しうる。 ― 第二に、それは倫理的な判断は真理にもとづく、ということの否定を意味しうる。ここで付け加えられるのは、倫理的な判断が実際に行為の動機であるということであり、しかしこの仕方で誤謬が、あらゆる倫理的な判断の理由として、人間を道徳的な行為へ駆り立てるということである。これが私の視点である。 曙光 103 抜粋 倫理の否定者には二種類ありそのうちひとつは、「人間の申し立てる倫理的な動機が

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起源と意義

起源を知り、それを前提として考えることはあまり勧められたものではありません。まさにその「起源」というものに依存し、その方向性からしか物事見れなくなります。ただ、進化するにつれて元々の意義を忘れすぎな局面も、現代では絶えません。 起源と意義ということで、そうした物事の「起源」をあまりに推し進めることは単なる文化の名を借りた意識的な結界であると思っています。 といっても、物事をよくよく見渡してみると、ほとんどの事が過去に出尽くしているというのは否めません。しかしだからといって、古人や起源が素晴らしいというのは、ナンセン

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学問の美化

「学問は醜悪で、乾燥し、味気なく、困難で、長たらしい―さあ!われわれにこれを美化させてくれ!」という感情から、哲学と呼ばれるものが再三再四発生する。 曙光 427 抜粋 学問を修得していけばその分野での行動は良い結果になる、というのは揺るぎなさそうに見えて、あまり関係がありません。 たくさん勉強することによって、目の前にあるものが見えにくくなっていくからです。ジャンル問わず勉強していけば、ほとんどすべての学問に共通する何かの学力だけはついていきます。しかしながら、専門性という偏りによって、目の前のことが見えにくくな

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不平家

それは、あの古い勇者の一人である。文明が彼の癪にさわる。文明は一切のよいもの、名誉、富、美人を ― 臆病者の手にも入り得るようにする、と彼は考えるからである。 曙光 153 不平家ということで、不平について触れていきます。不平とは何かを不満に思っていて、心が穏やかではないことを意味しますが、その奥には、不平等としての「公平ではない」という状態があるはずです。 不平家とは、そうした不平や不満をもつ者、「公平ではない不平な状態」を厭い嘆く者という感じになりましょう。 平等教育が進み、何かにつけて平等であり公平であるべき

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小さな逸れた行為が必要である

オリジナルや個性という言葉がすごいことかのように取り扱われ、平均的な生活から「少しはみ出そうと」躍起になりつつも、自分塾を正しく開いてこなかった場合には、「オリジナルだ」と主張するようなものを創作したとしても、絶望するほどチンケなものになります。 楽器人生 さて、個人的に楽器をやり始めたのは、詳しく言えば幼稚園くらいですが、ベースなどを触りだしたのは中学生の時です。 相棒プレシジョンベースとの20年(2019年3月投稿) その当時は数人しかそういうタイプの同級生がいなかったのですが、中学校生活も終盤に差し掛かった頃

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クリスマス被害者の会

僕は12月生まれです。なぜか友人は11月から2月の間に生まれた人が多い傾向にあります。 生まれた日は大雪が降っていたそうです。いまでは好きな季節というものがありませんが、雪国でもないのに、もしからしたら雪が降り始める季節、小さい時は12月が一番好きな季節でした。 ― クリスマス被害者の会ということで、12月後半生まれの方が実感するような「クリスマスによる被害」について触れていきましょう。 クリスマス被害 12月後半から1月前半生まれの方には実感があるかと思いますが、このシーズンは年末年始であり、また、クリスマスとい

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われわれのすべてが非理性的である点

われわれは相変わらず、誤りだと思っている判断や、もはや信じていない学説から結論を導き出す。 ― われわれの感情によって。 曙光 99 理性によって判断しているつもりでも100パーセント感情で決めていると言った人がいます。感情というものは厄介なものです。 感情主軸の話は話すだけ無駄なことが多いですが、感情が動かないようなものは気持ちに響かないため、経済社会においても感情に働きかけないものは全くに近いくらい売れません。 理性的と言われるような人たちにおいても、よくよく観察してみると単に理屈っぽいだけで、その実、感情に振

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道徳の変化

道徳にはたえず変形が施されて手が加えられている。― このことを引き起こすのは、上首尾の結末に終わる数々の犯罪である(たとえば、道徳的な考え方を新しくすることはすべてその一つに数えられる)。 曙光 98 いつでも決め事は解釈によっておかしくなっていきます。「道徳の変化」ということで、決め事など明文化されたもの、道徳など明文化されない不文律というようなものも常に変化し変形していきます。それが社会的なものであれば、当然に社会の変化に応じて変化していきます。 そしてその決め事も解釈によって取扱が変化し、時に変な方向に変化し

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道徳的になるのは、道徳的であるからではない!

道徳に服従することは、君主に服従することと同じように、奴隷的でも、思い上がりでも、利己心でも、諦めでも、陰鬱な熱狂でも、無思慮でも、絶望の行為でも、ありうる。それ自体としては、それは道徳的なものではない。 曙光 97 つまりは校則に書いてあるからとか、上司にそう聞いたからという理由で「道徳」を守っているかのようなギムキョな言動は、道徳的なものではないということでしょう。奴隷的・思い上がり・利己心・諦め・陰鬱な熱狂・無思慮・絶望の行為、よくぞここまではっきり書いてくれたものだと少しニーチェに「ありがとう」を言いたくな

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