タグ別アーカイブ: 哲学

哲学分野

「原因と結果!」

われわれは実際は「原因と結果」の像以外何ものも見なかった。そしてこのような像であることこそ、継起の結合よりも本質的な結合を洞察することを、たしかに不可能にするのだ! 曙光 121 後半 原因と結果、というドストレートなタイトルになっています。曙光においてニーチェがたまに「!」を加えるところは意気込みを感じますね。熱がこもっています。 今までも何度か原因と結果については触れていますが、タイトルが「原因と結果」だけに、もう少し詳しく書いていきましょう。 GDPの三面等価のように、諸行無常、諸法無我、一切行苦はそれぞれ別

» 「原因と結果!」の続きを読む


精神の収穫祭にて

経験や体験や、それらに関する思想や、さらにこれらの思想に関する夢などが、日々集積し、湧き出る― 測りがたい、魅力ある富である!それを眺めるとめまいがする。どうして心の貧しい人たちは幸いであると賞讃できるのか、わたしはもはや理解できない!― しかし私は、時々疲れたときに彼らをうらやむ。というのは、そのような富の管理は困難なことであり、その困難さがあらゆる幸福を押し潰すことは珍しくないからである。― そうだ、その富を眺めるだけで十分であるならなあ!われわれが自分の認識の守銭奴であるならなあ! 曙光 476 確かに半分本

» 精神の収穫祭にての続きを読む


賢者の非人間性

すべてのものを粉砕する賢者の重い足どり― 仏教の歌によると、「犀のように孤独に歩む」― には、時々和解的で穏やかな人間性が必要である。しかもあのいっそうすみやかな足どりや、才気あるあの愛想のよい社交的な言い回し方ばかりでなく、機智や一種の自己嘲笑ばかりでなく、矛盾さえも、世に行われている不合理へと臨機に復帰することさえも必要である。宿命のように転がって進む地均らし機(ローラー)に類似しないためには、道を説こうとする賢者は、自分を繕うために自分の欠陥を使用しなければならない。彼は「私を軽蔑せよ!」ということによって―

» 賢者の非人間性の続きを読む


力の感情

次のことはよく区別するがよい。力の感情をまず獲得しようとするものは、あらゆる手段をとらえ、その感情を養うことを恥としない。しかし力の感情を所有しているものは、その趣味にひどく選り好みがあり上品になっている。彼が何ものかに満足することは珍しい。 曙光 348 なんだか「力」という字を見ると、たいていは「社会的な力」のことなのだと世間ではすぐに想起されるのでしょうか。 今までずっと社会目線でしか考えてこなかった人には当然かもしれませんが、「力への意志」とか「権力への意志」とか言われる場合の「力」はそういった社会的権力な

» 力の感情の続きを読む


われわれの幸福は賛否の論拠ではない

多くの人間は、わずかの幸福しか感じる能力がない。 曙光 345 序 思い返せば明確に人生に疑いをかけた瞬間というのがあります。 おそらくそれまでにも細かいものはたくさんあったのでしょうが、一番明確に覚えているのは、高校二年生の時です。 アルバイトを終えて、家に返ってホットコーヒーを飲みました。 その瞬間です。 「うまい」 と、ここまではただのおっさんのようなつぶやきです。 その「うまい」の瞬間にやって来た虚無感です。 ある種の安堵と幸福感を感じたのですが、この瞬間は一体何なのだろうというような感覚です。普段この時の

» われわれの幸福は賛否の論拠ではないの続きを読む


その危険な時を利用する

切羽詰まっている時の感情は不快ですが、切羽詰まりすぎると不快であることすら感じることができずに、逆に理性的になるものです。 よくほろ酔いだと気分が乗って、普段では受け入れない要求を受けたりするということがありますが、泥酔すると逆に理性的になり、体が楽になること以外のことを考えなくなるのと構図はあまり変わりません。 精神的に危険なときはチャンスです。 それもかなりのチャンスです。 生ぬるいほどの危険だと、いつまでもそこに安住しようとしてしまいますが、相当の危険な状態だと、「天才ではないか」と思えるほど理性的な頭で考え

» その危険な時を利用するの続きを読む


道徳的と自称する

直接間接問わず、道徳的と自称している人は結構います。 道徳的だと自称していたり、はたまた心のなかで自分は道徳的に生きていると本気で思い込んでいる人がたくさんいます。 しかし、ギムキョだからこそ盲目になっていることがよくあります。以前に少し触れましたね。 聞いた話ですが、例えば障害者の人がどこか福祉系の作業所に勤めた場合の賃金は15000円位だそうです。 一ヶ月働いて、15000円です。ここは日本です。貧困国と言われている地域の賃金の円換算ではありません。 どうして、そのような低賃金になるのでしょうか。 それは仕事っ

» 道徳的と自称するの続きを読む


思想家の寛容

ルソーとショーペンハウアーは― 二人ともその存在に人生を真理にあわせるという標語を記入するほど誇りが高かった。そしてまた二人とも― 真理を人生にあわせる― 彼らのいずれもが理解していたような真理を― ことが成功しようとしなかった点で、また彼らの人生は、旋律に一致しようとしない気まぐれな低音部のように、彼らの認識とならんで走った点で、どんなに彼らの誇りに苦しんだことであろう! 曙光 459 前半 「何でもわかりやすく」という流れがやってくると、「そうだカテゴリ分けをしよう」という発想がすぐにやって来ます。 その際は先

» 思想家の寛容の続きを読む


実見は歴史家に逆らう

人間が子宮から出て来ることは、全く証明済みの事柄である。それにもかかわらず、その母親と並んで立つ成長した子供たちは、この想定を全く不合理なものに思わせる。この想定には、それと逆らうような実見がある。 曙光 340 我が家にはサンセベリアくんが今でも同居しています。このサンセベリアくんは、親子でメキメキと成長しています。母というか父というかわかりませんが、脇からひょいと子供サンセベリアが出てきました。 とは言うものの、根もとはつながっています。しかし根を分離させたとしても、お互いに独立して生きていくでしょう。 この場

» 実見は歴史家に逆らうの続きを読む


うめあわせの良心

ある人間が、他の人間にとってその良心となる。そしてこれがとくに重要であるのは、他の人間がそれ以外の良心を全く持っていないときである。 曙光 338 互いに埋め合わせる、というような時は、互いに穴があるということです。仕事上の向き不向き、得意不得意を埋め合わせる位ならいいですが、心にぽっかり空いた穴を誰かに埋めてもらおうとしてはいけません。 その穴は虚像です。それまで得てきた情報から弾き出した不足の想像であり、そんな穴はどこにもありません。 それが愛であれ、友情であれ、温もりであれ、不足を見つけてそれを埋めるというの

» うめあわせの良心の続きを読む


いわゆる心

一つの言葉でもたくさんの使われ方をします。どんな言葉でも、見る角度によって使われ方が違い、その定義の違いで誤解が生まれます。 そういうわけで、誤解なく伝えるということはある意味で不可能に近いはずです。言語伝えようとするとやはりどこかでズレが生じます。 ウンチクが好きな人は、ソシュールのシニフィアン(記号表現、意味するもの)とシニフィエ(記号、意味されるもの)などを語り出しますが、いずれにしてもそれが一致しようが、持っている観念が違うので、全く同じというわけには行きません。 同じ話を違う人にしても、各々が持つ印象は異

» いわゆる心の続きを読む


ルサンチマン

ルサンチマン(ressentiment)とは、「弱者による強者に対する怨恨」とするのが一般的です。怨恨の他に憤り、憎悪・非難、単純に僻みという風に説明されたりします。キェルケゴール発端ですが、ニーチェも「道徳の系譜」以降さんざん使う言葉です。ニーチェの場合は、さんざん使うというより、彼としては考えの一種の主軸になっています。 ただしルサンチマンを怨恨や憎悪などの「感情」と解してしまうと誤った方向に行きかねません。「怨恨感情をルサンチマンと呼ぶ」という辞書的な解釈をすると、単に感情にラベリングをしただけになってしまい

» ルサンチマンの続きを読む


人間通の気晴らし

彼は私を知っていると信じこみ、私とこれこれの交際をするから上品でえらいのだと自負している。私は彼を失望させないように気をつける。なぜなら、私は彼に意識的な優越感をあてがったのであるから。彼は私に好意を持っているのに、私はその償いをしなければならないことになるであろうから。 曙光 303 前半 人間通の気晴らしならぬ「ラーメン通の気晴らし」は、誰かをラーメン屋に連れて行って「バリカタ」などと注文し、「ここのはバリカタが一番うまいんだ」と言った具合に「通」であることを誰かに伝えることです。 消費者なのに専門家、専門家な

» 人間通の気晴らしの続きを読む


陶酔への信仰

信仰という言葉を見るとすぐに「それは宗教的な部類に入るから自分には無関係だ」という反応が起こるでしょう。たまに無宗派だと言っても、「それは無宗派という宗教だ」という人もいますから、やってられませんね。そんなにカテゴライズしたいのでしょうか。 そんな人には「科学主義という一種の宗教に属していて、その柵からしか物事を見ることが出来ない錯覚の内にいるのだ」、と言ってあげてください。 科学と言っても一般に思われている理科や自然科学だけではなく、人文科学や社会科学というものがあります。その時の科学を思い浮かべればすぐにわかる

» 陶酔への信仰の続きを読む


師と弟子たち

弟子たちに用心させることは、師たるものの人間性の一部である 曙光 447 どういうわけか、僕には師匠というものがいません。できたらそのような人がいればいいなぁと思いながらも、どこにもそれに値する人はいませんでした。 学校における恩師や習い事の先生、職場の上司など部分的にたくさん学ばせていただいた方々はいますが、心の本質的な部分における師匠というものはやはりどこにもいませんでした。 いい師匠がいたらなぁ できれば何日でも教えを請いたいと思いましたが、話しても一日でその人を超えてしまいます。共同作業者というものはいまし

» 師と弟子たちの続きを読む


新しい根本的な感情

われわれは決定的に無常であるということ。― 昔、人々は自分が神の血統であると示すことによって、人間の栄光の感情にたちいたろうと試みた。これは現在では禁じられた道になった。(中略)そこで現在人々は反対の方向を試みる。人類がその方へと向かってゆく道を、人類の栄光および神との親類関係の証明に奉仕させようとする。ああ、これもやはり無駄だ!(中略)生成は過去のを自己の背後に引きずっていく。なぜこの永遠の演劇の中で、ある小さな星と、さらにまたその上の小さな類にとって、例外がなければならないのだろう!そのような感傷をすてよ! 曙

» 新しい根本的な感情の続きを読む


実践的対処法 意識を傍観し感情をその場に置き去る

いきなり「自分というものは錯覚ですよ」といっても意味がわからないどころか、おそらく理解に向かおうとすらせず、すぐに匙を投げてしまいます。うつに対する実践的対処法としては、手始めに「意識を傍観し、感情をその場に置いていく」という手法はいかがでしょうか。 いかがでしょうか、ということはどういうことでしょうか。いわば半分仮止めのような状態です。しかしどこまでいっても安全です。 この自己観察、自己の意識観察や感情をその場で終わらせるということは、自分というものが実在していると思っていても、自分というものは錯覚だと既に知って

» 実践的対処法 意識を傍観し感情をその場に置き去るの続きを読む


意識の分野の解消法その1 抵抗感の破壊

ある内容をその属性の外部から見てみるという状況が訪れない限り分からない、ということがあります。いつまでたってもわからない、という場合は、俗にいう井の中の蛙のようなもので、ある小さな世界の中にいるからこそ客観視ができないというものです。 それは、「外の世界に飛び出すのがいいぞ!」というようなものだけでなく、事実真偽は傍からでないと判断できないという場合があります。ある命題が、ある集合の中で無矛盾であっても、その真偽はその集合の外からでしか判断できないというものです。 一周年くらいまでは、このうつテーマを連続して取り扱

» 意識の分野の解消法その1 抵抗感の破壊の続きを読む


ニヒリズムの義務教育解釈

なぜこのように誇り高いのだろう!

高貴な性格が野卑な性格と相違するのは、後者が前者と同じく若干の数の習慣や視点を持ち合わせていないことによる。すなわちそれらの習慣や視点は、後者にとっては偶然にも相続されておらず、また仕付けられてもいないのである。 曙光 267 つい先日、「なぜこのように崇高なのだろう!」という見出しがあったにも関わらず、すぐにこういった事を言い出す癖がニーチェにはあります。 ニーチェはその文体にも表れるように、気分的なものが多いですが、それがやたらと的を得ていることが、面白い点ですね。「積極的ニヒリズム」ひとつとっても、厳密な論理

» なぜこのように誇り高いのだろう!の続きを読む


「主観」の未知の世界

太初の時代から現在にいたるまで、人間にとって非常に理解しがたいことは、人間の自分自身に関する無知である! 曙光 116 冒頭 人間の自分自身に関する無知ということですが、誰かに「自己分析ができていない」と言われることがあっても、そういう時の自己分析など、いわゆるカテゴリの中に自分を当てはめていくだけのことなので大したことではありません。そしてそれは社会的なカテゴリであり、誰かの都合で分類されたようなものです。 そういった人に触発されて自己分析を行い、その時に意識をあるカテゴリの中に当てはめてしまうと、それはそれで様

» 「主観」の未知の世界の続きを読む


具体的で生き生きとした矛盾

世の中には雰囲気だけで話していたり、人から聞いたことを吟味すること無くさらに人に説き、矛盾したことを話していることに本人が気づいていないという場合がよくあります。 「一見矛盾に見えてしまうが、隙間のニュアンスで読み取って欲しい、そうすれば解釈によっては矛盾しない」というような場合ならばよいのですが、そのようなレベルの話ではありません。 矛盾というと、一種の情報が多すぎる状態であり、ある定義に相反する複数の情報が組み込まれていたりするものを指します。「さっきはああだと言っていたのに、それじゃあこの場合はどうなるんだ?

» 具体的で生き生きとした矛盾の続きを読む


ストア主義的

ストア主義者が、自分で自分の行状に命じた儀式ばった態度のために胸苦しく感じるときに、ストア主義者の快活さが生じる。彼はそのとき、自分を支配者として享楽するのである。 曙光 251 一種の苦行による快楽のような構図です。自制、自戒により自らを知的で本能に支配されていないとの「確信」を得るための一つの指針が、胸苦しく感じる瞬間です。自分で自分に命令しているという、支配者としての自認という構造になっていますが、支配していると思わなければならないと渇望している根底には、コントロールしなければならないという、条件付け、そして

» ストア主義的の続きを読む


誰が一体いつか孤独になろうか!

恐怖心をもつ者は、孤独とは何であるかを知らない。彼の椅子の背後にはいつも敵がいる。― おお、孤独と呼ばれるあの繊細な感情の歴史を、だれがわれわれに語ることが出来ようか! 曙光 249 孤独が嫌だからといってある対象と一つになりたくても、それには限界があります。いくら近づいてもそれ以上は近づけない、そして同化したくてもできないということは、想像しただけでも十分にわかります。 意識の上である程度同化するようなことはできます。しかし、一つになったわけではありません。 ― 孤独とは一体何なのでしょうか? 孤独とはもちろん「

» 誰が一体いつか孤独になろうか!の続きを読む


悪い気質の由来

多くの人間の気質の不正なところや突飛なところ、彼らのだらしなさや節制のなさなどは、その祖先が犯した無数の論理的な不正確や、不徹底、また性急な推論などの究極の結果である。 曙光 247 前半 論理的な不正確というものは、それがどう不正確なのか知るには、通常は正確な論理というものが必要になります。しかしその不正確は、論理思考の不徹底からという原因が、容易に想像されます。つまり不正確か否かは、確定はしていないものの、「不徹底であるから、確定的ではない」ということは理屈ですぐに分かります。 この方法論をもって、すぐに盲信と

» 悪い気質の由来の続きを読む


いわゆる「自我」

いわゆる「自我」ということでアイツこと自我について触れていきましょう。 まず、自分とは一体どこにあるのでしょうか? 認識している主体でしょうか? しかし、この主体は受け取っているだけで、しかもこれ以外に認識の間口はありません。 個人という人格は、外部からのラベリングや関連性を示されたもので、カテゴリなどから付けられた様な属性は、属性であって、自分ではありません。以前少し触れましたね。認識の悲劇の終幕 生存本能に支配され、恐怖心にやられ、渇望感は沸き起こり、それを消すことがなかなかできない、やっているつもりがやらされ

» いわゆる「自我」の続きを読む