ローマに対するキリスト教の復讐
おそらく普遍の勝者を見ることより以上に疲れるものはないであろう。 曙光 71 序 普遍の勝者を想定する場合、社会的な横並び目線で考えることは避けなければなりません。それはいずれ自惚れや欠落への恐怖心、もしくはルサンチマンを発動せざるを得ないからです。 同じような年齢の人同士ではよく比較なんかが行われます。先日もどこかで書きましたが、やたらとランキングが気になるのはそうしたものの最たるものです。 そして勝敗を絶対的に考える場合でも、例えば
現今の人々の哲学研究法
現今哲学的に考えるわれわれの青年たちや、女性たちや、芸術家たちは、ギリシア人が哲学から受け取ったのと正反対のものを要求するということに、私は十分気がついている。 曙光 544 序 現今(げんこん)の人々の哲学研究法ということで、活字中毒期の個人的な哲学的思索、哲学研究について触れていきましょう。 普通、哲学研究というと過去の哲学者が提唱した概念を学び、知り、それを踏まえて展開していくという風に想像されるところかもしれませんが、哲学の研究
同情の中の幸福
同情は、快楽を含み、また少量で優越を味わわせる感覚として、自殺の解毒剤となる。それはわれわれから洩れ出て、心を満たし、恐怖と無感覚を追い払い、言葉や、嘆息や、行為などをつのらせる。 曙光 136 中腹 もし同情の中に優越感を感じたとしても、相手との比較の中での感情にしかすぎず、そうした相対的な尺度がまた、自分を苦しめる原因になります。また、もし同情の中で相手の憂いなどと同調することになれば、無駄に憂いを感じてしまうことになります。 他人
哲学者と老齢
夕暮れをして昼間を判決させるのは懸命でない。なぜならそのとき疲労が力や成功や、善い意志などの判事になることが、あまりにもしばしばだからである。そこで全く同様に、老齢とそれの人生の判断とを顧慮する最高の慎重な態度が必要であるだろう。 曙光 542 序文 哲学者と老齢ということで、老いていくに従って訪れる頭の回転の低下を少しばかり実感しています。 我が事を思い返してみても既に頭の回転が低下しています。全盛期は23歳から25歳くらいだったでし
幻想能力
中世全体を通して、最高の人間性本来の、また決定的な特徴とみなされたものは、人間は幻想― すなわち、ひどい精神的な障碍!― の能力があるということであった。 曙光 66 序文 幻想能力ということで、20歳位のときですが、小説を読んで横になり、うとうとしてそのまま眠りにつくとすごく夢の中が楽しくて仕方ありませんでした。 この現象を取り扱う際、哲学的思索の中で考えたことと言えば、現実を過ごしても夢の中で過ごしても、いずれにしても「情報を感じて
諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか?
諸君はあらゆる認識の洞窟の中で、諸君自身の幽霊を、諸君に対して真理が変装した蜘蛛の巣として再発見することを恐れてはいないか?諸君がそのように無思慮に共演したいと思うのは、恐ろしい喜劇ではないのか?― 曙光 539 文末 同じような内容のことを先程書いたので、「諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか?」についてはどうしましょう。 … お金が欲しい人は、お金がもたらす安心感や新しい経験が欲しいと思っているだけで、お金そのものが欲しい
絶望する人々
何かに絶望して、絶望したままだと、また絶望を味わうような現実が展開されていきます。 絶望とか希望とか願望なんてなものは、アイツの演算結果であって、本来は存在しないものです。 絶望は期待への諦め、自分が望んだとおりには進まないという状態を体感した時にやってきます。 ということで普通、絶望の手前には何某かの希望や期待、願望があったはずです。そして、予測があり、予測通りにはいかないであろうことが確定したと頭で考える時に起こります。 重要度の高
思索家の廻り道
多くの思索家にあっては、その思索全体の歩みは、厳しく、仮借(かしゃく)なく、大胆であり、それどころか、時々自分に対して残酷である。しかし細部にわたると、彼らは穏やかでありしなやかである。 曙光 530 アイツこと自我は、危険回避を中心に汎用性の高い法則を好みます。 そういうわけで、若いときから様々な物事に対して「どうやったらいいんだろう?」という疑問がわくたび、「バッチリな答えはないかなぁ」なんてなことを思い、思索を繰り返してきたのでは
諦め
諦めとは何か?それは病人の最も気楽な状態のことである。彼はそれを見つけようとして長いこと苦悩して輾転反側し、そのために疲れた― そしてそれをはじめて本当に見つけたのである! 曙光 518 輾転反側(てんてんはんそく)=悩んでいたり、心配事があって、何回も寝返りをうつという感じです。 さて、「諦め」です。 人生は諦めが肝心です。この諦めとは絶望という要素を含んだ諦めというよりも、執着を手放すという意味での諦めです。 執着はそれ自体が苦しみ
目的か?意志か?
たまに「今 集中」なんてなキーワードでサイト内検索が盛り上がっていることがあるようですので、今に集中するということについて書いていきましょう。 もちろん、「今やっていることに集中しろ」というような、義務教育的なお話ではなくて、今この瞬間に意識を集中させるというようなものです。 今に集中する場合、意識の集中のレベルによって、体感にも段階がありますが、途中で変な体感がやってきても、「今そんな変な体感があるだけだ」と考えてください。 でないと
キリスト教と感動
キリスト教の中から、哲学的に反対する大きな民衆的な抗議をも聞きとることができる。古代の賢人たちの理性は、人間に感動を思い止まらせた。キリスト教は感動を人間に再び与えようとする。 曙光 58 前半 「キリスト教と感動」ということで、またまたニーチェの好きなキリスト教系の話題です。たいていニーチェがキリスト教のことを語る時、イエスのことではなく、パウロ以後宗教化されたキリスト教のことを指していることがほとんどです(最初のキリスト教徒)。 キ
「過去は変えられないが、未来は変えられる」は根本的に論理が破綻している
「過去は変えられないが、未来は変えられる」は根本的に論理が破綻している、なんてな感じで、久しぶりに哲学カテゴリで書いてみます。 なんだか体育会系に多いじゃないですか、こういう「過去は変えられないが、未来は変えられる」というようなことを言いたがる人。 徹底的に哲学的というか論理的に書いてもいいのですが、あんまり難しいのも何なので、少し噛み砕きながら書いていきます。 まだ来ていない「未来」が確定していないのに「変えられる」のはおかしい まず
「自由の国」について
われわれは、行為したり体験したりするよりも、はるかに、はるかに多くのものを考えることができる。 曙光 125 序 確か病中真っ只中の時だっと思いますが、ふと考えたことがあります。 もし、夢の中でもなんでも良いのですが、イメージの世界だけにずっといれるのであれば、現実世界の身体は特にどうでもいいのではないか、という感じのことです。 何だか寝ぼけているときや、空想にふけっているときや、映画を見ている時なんかによくそんなことを考えていました。
戦争
現代の大きな戦争は、歴史的な研究の成果である。 曙光 180 「戦争」 こんな思想主義的なテーマのタイトルになるとは、といった感じですが、特別企画なので仕方ありません。 今の現代で戦争といえば、さまざまな歴史的な研究の結果、いろいろな主義ができて、その主義同士のぶつかり合いとして、無駄に戦うということが繰り広げられています。 まあ言ってしまえば、戦争は悪か否か、というようなことすら主義ですので、戦争についての意見自体が戦ってしまうという
願望とは何だろう!
願望ってなんだと思いますか? なんてね。 さてさて、願望の定義なんてほとんどどうでもいいのですが、一応書いておきましょうか。 辞書なんかを引っ張っても 「望んでいること」 とかそんなレベルだと思います。 調べてみると 「願ってその実現を望むこと」と出ました。 比較的ポジティブに「不足に気づくこと」 願望というのは一応望んでいることには違いないのですが、99%くらい、比較的ポジティブに「不足に気づくこと」です。 望んでいるということは、今
不足感や願望は「過去からの因果」という思い込み
一月ぶりになりました。曙光シリーズを進めようと思ったら、実家に置いてきていたようでした。ということで、哲学カテゴリでも良かったのですが、あえて「うつ」テーマとして、根本的なことについて触れてみましょう。 だいぶ前に「ストレスは溜まるものではない」みたいなことを書きましたが、何となく意味は伝わっているでしょうか。 そんなものは実在はしないのです。そして、今現在、そうした思考なんかが再燃して今現在ストレスを感じているということや、そうしたこ
国家をできるだけ少なく!
われわれの時代は、経済について語るだけ、一個の浪費者である。それは最も貴重なものすなわち精神を浪費する。 曙光 179 文末 ある時から、消費が自分を高めてくれることには限界があることに気づきました。 つまり物やサービスを消費することで得られる面には限界があり、それらが自分を満たしてくれる程度には限界があるのだということをです。 そして、「社会のため」という大義名分は、非常に遠回りで、疲れるだけだということを感じました。 社会においても
ニヒリズムと「がっかり」をよく考えよう
ニヒリズムと「がっかり」の先にある境地に行くまでのその手前のお話をしようと思います。 最近しばらくご無沙汰のあとに投稿したのですが、そうするとやっぱり全体的なPVが急上昇するようです。 でも最近の投稿は、どうしても社会に触れた分の社会的な垢の分だけ、社会的なテーマになっています。 それでは常連さんとしては物足りないのではないか、ということで「ニヒリズム」と「がっかり」です。 というよりも、こういったテーマなど久々にどうかなと思ったので、
祖先に対する批判
新しい世代は、祖先の見解を取り入れたばかりでなく、可能な場合には一層激しく取り扱うことによって、自分を感じはじめた。祖先に対する批判は、当時は悪徳であった。現在では年少の理想主義者たちは、批判ではじめる。 曙光 176 後半 あまりにも現実というものを軽視していることが、迷いの原因です。 普段現実だと思っていることは、様々な情報に起因してフィルターがかかった状態で「現実だと思っている」というのが、本当のところです。 何かを考え始める時、
こんな小さな真理!
「真理」という字を見ると胡散臭い印象がしてしまうため、あまり使いませんが、なぜ胡散臭い団体ほど真理という言葉を使うのでしょうか。 やはり、「あなた達の知らない真実」という旨で使うのでしょう。そして私は知っていて、教えてあげるから私を拝みなさいというようなことを思うのでしょう。 残念ですが、彼らの言う真理など「再現可能性のない妄想だ」と言われても、それを覆すことは彼らにはできません。 根本的に大前提となっている事柄がおとぎ話のような仮定で
人間嫌悪
甲。認識せよ!そうだ!しかしいつも人間として!何だって?いつも同じ喜劇の前に座るのか、同じ喜劇を演じるのか?この眼以外の眼では、物を見ることが全くできないのか?しかも認識に一層適した器官を備えた存在は何と種類が無数にありうることだろう!人類はそのすべての認識の最後に何を認識しているだろうか?― 人間の器官だって!ことによるとそれは認識の不可能性ということだろう!悲惨と不快だ! ― 乙。これは悪い発作だ― 君は理性から襲われたのだ!しかし
自我の領域
「自我の領域ではない領域とは何ですか?」 自我の領域ではない領域です。 という同語反復です。 … さて、釣りページに「自我の領域から離れなさい」と書いているからでしょうか、やはりよくわからない事柄なのかもしれません。ということで、「自我の領域」とは何なのか、また逆に「自我の領域ではない領域」「自我とは別の領域」とは何なのか、ということに対しての回答です。 アイツこと自我は、生存本能、生存本能からの恐怖心が発端ですが、自分というものの「実
愛と真実
愛するあまり、われわれは、真理に対する悪い犯罪者であり、われわれにとって本物だと思われるより以上を本物にしてしまう習慣的な故買者(けいずかい)であり泥棒である。 曙光 479 前半 相手が物であれ人であれ、何か考え方のようなものであれ、愛著のような「好き」という感情、「何を犠牲にしてでも」というような自己犠牲の精神などが含まれるような、擬似的な愛にとらわれると、事実を事実以上に見てしまい、本物以上に、本質以上に、無駄に評価してしまいます
「原因と結果!」
われわれは実際は「原因と結果」の像以外何ものも見なかった。そしてこのような像であることこそ、継起の結合よりも本質的な結合を洞察することを、たしかに不可能にするのだ! 曙光 121 後半 原因と結果、というドストレートなタイトルになっています。曙光においてニーチェがたまに「!」を加えるところは意気込みを感じますね。熱がこもっています。 今までも何度か原因と結果については触れていますが、タイトルが「原因と結果」だけに、もう少し詳しく書いてい
精神の収穫祭にて
経験や体験や、それらに関する思想や、さらにこれらの思想に関する夢などが、日々集積し、湧き出る― 測りがたい、魅力ある富である!それを眺めるとめまいがする。どうして心の貧しい人たちは幸いであると賞讃できるのか、わたしはもはや理解できない!― しかし私は、時々疲れたときに彼らをうらやむ。というのは、そのような富の管理は困難なことであり、その困難さがあらゆる幸福を押し潰すことは珍しくないからである。― そうだ、その富を眺めるだけで十分であるな
賢者の非人間性
すべてのものを粉砕する賢者の重い足どり― 仏教の歌によると、「犀のように孤独に歩む」― には、時々和解的で穏やかな人間性が必要である。しかもあのいっそうすみやかな足どりや、才気あるあの愛想のよい社交的な言い回し方ばかりでなく、機智や一種の自己嘲笑ばかりでなく、矛盾さえも、世に行われている不合理へと臨機に復帰することさえも必要である。宿命のように転がって進む地均らし機(ローラー)に類似しないためには、道を説こうとする賢者は、自分を繕うため
力の感情
次のことはよく区別するがよい。力の感情をまず獲得しようとするものは、あらゆる手段をとらえ、その感情を養うことを恥としない。しかし力の感情を所有しているものは、その趣味にひどく選り好みがあり上品になっている。彼が何ものかに満足することは珍しい。 曙光 348 なんだか「力」という字を見ると、たいていは「社会的な力」のことなのだと世間ではすぐに想起されるのでしょうか。 今までずっと社会目線でしか考えてこなかった人には当然かもしれませんが、「
われわれの幸福は賛否の論拠ではない
多くの人間は、わずかの幸福しか感じる能力がない。 曙光 345 序 思い返せば明確に人生に疑いをかけた瞬間というのがあります。 おそらくそれまでにも細かいものはたくさんあったのでしょうが、一番明確に覚えているのは、高校二年生の時です。 アルバイトを終えて、家に返ってホットコーヒーを飲みました。 その瞬間です。 「うまい」 と、ここまではただのおっさんのようなつぶやきです。 その「うまい」の瞬間にやって来た虚無感です。 ある種の安堵と幸福
その危険な時を利用する
切羽詰まっている時の感情は不快ですが、切羽詰まりすぎると不快であることすら感じることができずに、逆に理性的になるものです。 よくほろ酔いだと気分が乗って、普段では受け入れない要求を受けたりするということがありますが、泥酔すると逆に理性的になり、体が楽になること以外のことを考えなくなるのと構図はあまり変わりません。 精神的に危険なときはチャンスです。 それもかなりのチャンスです。 生ぬるいほどの危険だと、いつまでもそこに安住しようとしてし
道徳的と自称する
直接間接問わず、道徳的と自称している人は結構います。 道徳的だと自称していたり、はたまた心のなかで自分は道徳的に生きていると本気で思い込んでいる人がたくさんいます。 しかし、ギムキョだからこそ盲目になっていることがよくあります。以前に少し触れましたね。 聞いた話ですが、例えば障害者の人がどこか福祉系の作業所に勤めた場合の賃金は15000円位だそうです。 一ヶ月働いて、15000円です。ここは日本です。貧困国と言われている地域の賃金の円換
