哲学者と老齢

夕暮れをして昼間を判決させるのは懸命でない。なぜならそのとき疲労が力や成功や、善い意志などの判事になることが、あまりにもしばしばだからである。そこで全く同様に、老齢とそれの人生の判断とを顧慮する最高の慎重な態度が必要であるだろう。 曙光 542 序文

哲学者と老齢ということで、老いていくに従って訪れる頭の回転の低下を少しばかり実感しています。

我が事を思い返してみても既に頭の回転が低下しています。全盛期は23歳から25歳くらいだったでしょうか。

ただ、回転速度自体は下がっても、「効率の良い回し方」を習得しているので特に何の問題もなく、トータルでは今のほうが能力を発揮できていると思います。

様々な物事を忘れていったりもしていますが、これはある意味で「効率の良さ」に関係しているような気がします。

物事を忘れていく

歳を取れば、「ひとつ覚えれば一つ忘れていく」とか「ひとつ覚えれば二つ忘れていく」なんてなことも聞きますが、僕の場合は、読んだ本の内容の99%くらいを忘れています。

しかしながら、そこで掴んだ何某かによって今は形成されていますし、いざという時には、そうした印象を思い出すことでしょう。

普通は物事を忘れていくということに関して、能力の低下のように感じ、嘆きのようなものが生まれてしまうのかもしれません。

しかしながら、捉え方によれば必要のないものを捨てていっているということで「効率の良さ」に関係していると考えることもできます。生体的にどうしても頭の回転数が下がってしまうのであれば「効率の良い回し方」をしていくしかないということになるのでしょう。

もちろん必要なときには必要な分だけ「圧縮された情報」の中から解を見つけることができます。なので問題はありません。

ものの10年ちょっとでこうなるのだから半世紀くらい経つとどうなるのかというところは楽しみでもあります。

まあこれは老いによる能力の低下という面もありますが、老いによる洗練でもあります。

老いによって頭の回転を含めて「能力が低下していく」というあたりは「老苦」になるのかもしれませんが、そうした能力の低下を感じるのはあくまで若い時と比較するからであり、比較がなければ嘆きもありません。

空にするか満タンにするか

さて、おもしろいことにアイツの内から脱してしまうきっかけとしては、ある種頭の中を空にするか満タンにするかというアプローチがあり、いずれにしても最終的な到達地点は同じです。

ただ、満タンにしていくといっても、普通の情報インプットとは少し違うタイプのものです。

で、とにかく通常の目線だと社会的に物事を知っていこうとします。少なくともその路線ではありません。

少し社会からズレた人、つまり変な占い師などの分野かとでも思う人もいるでしょうが、それも少し違います。

そしてそうした占い師みたいな人は「情報に働きかけて『外界』をコントロールしよう」と思っているはずです。

外界ということは外側です。外側ということは分離しています。

「外界」を変更して、内側を良い状態にしよう、という姿勢です。

結果的には同じように見えてしまうかもしれませんが、姿勢としては逆です。

内側の状態に外界が反応するのです。

でもこう書くと、分離が前提になっています。

しかし分離などはありません。

それは「思考による判断」による印象にしか過ぎないのですから。

ということが「わかる」と書くと、「思考上、理論上でわかる」というような感じになってしまうので言語表現は難しいのですが、あたりまえと思えるようになるはずです。

そしてその方向として空っぽと満タンがあり、どちらでもいずれたどり着く着地点があります。

ただ、満タン側は、場合によってはアイツの暴走によって変な宗教にハマってしまう恐れがあります。

哲学者と老齢 曙光 542

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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