タグ別アーカイブ: 言語

大きな沈黙の中で

「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」と言ったのはウィトゲンシュタインです。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」で終わることで有名です。 論じえぬことに対してあれこれ論じて盛り上がるのは雑談程度で十分のはずなのですが、世の中では論じ得ないこと、論じても仕方ないことがたくさん論じられています。それに必要以上に価値を付けるのでより一層おかしくなっていきます。 どうコメントしていいのかわからない局面 生きていれば、どうコメントしていいのかわからない局

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良心問題

「では要するに、諸君は一体どんな新しいことを望むのか?」―われわれはもはや原因を罪人に、結果を絞首刑吏にしようとは思わない 曙光 208 原因を潰そうとして頑張ってみるものの、原因を潰しても結果が変わらないことがあります。 原因を潰そうとしたら、他の面まで潰れてしまうという場合もありますが、他の面も変わらなくて結果も変わらなかったというケースです。 原因だと思っているポイントが間違っている場合、というのもありますが、原因はそんなに単純ではありません。本当は単純なのですが、詳しいことを分析して解明してしていこうとする

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習慣の穿鑿

穿鑿は「せんさく」と読むそうです。穿(うが)ち、穴を掘ること、から根掘り葉掘りというような意味合いで使われるようですが、「刷新」という言葉を使って普通に生きていてはあまり使わない単語を見せて「なんだかすごい」というような関心を引き寄せようとするようなことで、「読めへんよ」と一瞬感情を沸き起こさせることが目的ですから、あまり気にしてはいけません。 字は違いますが、「詮索する」も「根掘り葉掘り詮索する」という風に使われるように、穿鑿も「根掘り葉掘り穿鑿する」という感じになるのでしょう。 ただ、印象として詮索はひとまず平

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精神に対する誇り

「誇り」というものは、勝手に内側にとどめておくか、第三者への賞賛の場合に使うようなものです。この言葉の使い方を間違えれば、誇りはただの優越感であり、高慢であり、後ろめたさへの自己説得になってしまいます。 これが私の生きる道 昔、学校で渡された「これが私の生きる道」といった類の短い文集的なものに次のようなことが記されていました。この文集は全員の分が記載されているわけではなく、一応公募みたいなものです。選考があって、通過した人の文だけが記載されるような類です。 「アフリカ系アメリカ人として誇りに満ちた生活」 こういうこ

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自由行為家と自由思想家

自由行為家と自由思想家という感じで、「自由」が強調されていますが、肩書きに「自由人」というふうに書く人は、あまり好感が持てません。そんなことは他人に主張するようなことではないからです。 自由行為家や自由思想家は、いわゆるそのエリアの宗教前提の発想や風土・文化に縛られずに自由に行為する、自由に思想を展開していくというような感じです。 その言葉の裏には、西洋であれば聖書の記述は絶対だという前提から考える人達がいて、「自分はそういうところから考えを始めたりはしないぞ、もっと自由に考えるぞ」というような感じが潜んでいます。

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人類の新しい教育のために

たまに掲示板みたいなところに標語が貼ってあったりします。 標語を集めて意識を高めようというのは義務教育と公務員の発想ですが、実際に選考に関わる審査員はやっぱりギムキョなので、何が問題かということに気づいていないことがよくあります。 たとえばこのような標語ですが、まず「君なんだ」ということで、どうして他力本願なのか、という疑問が残ります。 つまり、「あなたはしないんですね」というようなツッコミが入ることを想定していません。 逆に「僕なんだ」とか「私なんだ」、とか言うのも、他力本願ではないものの、少し傲慢なような気がし

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空間感情の学び直し

たしかなことは、最高の幸福と最低の不幸の間の空間の広さは、想像された物の助けを借りてはじめて作り出されたということである。 最高の幸福を自己啓発ウェーイは「最幸」と書きます。それだけで新興宗教のような胡散臭さが拭えません。たしかなことは、最高の幸福は、群れてウェーイすることではありません。 幸福と不幸の間に空間があって、その間には多様な感情があるというように定義されそうですが、不幸な状態というのは、引用のとおり「想像された物の助け」によって生み出されています。 教養 「教養」という言葉がありますが、一般的に教養とは

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学者の偏見

ある研究が始まり、そのことは研究し尽くされている、ということは正しい意見ではありますが、昔より今の方がその分野への理解は進んでいるというのは全く誤謬で、さまざまな方法論的なジャンルやデータはたくさん膨らんでいったとしても、それは表現が変わっていっただけで一切進歩していない場合もあります。 さらにはそれどころか、元々は純度が高かったものが、「あるランクまでは学ぶ」ということをしていった結果、余計な不純物が混じって、結果の表現がおかしなものへと変化していくのが普通でしょう。 名言の解釈 これは、よくある「名言集」につい

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岸和田少年愚連隊

先日、中学生の時にテープが擦り切れるほど観た「岸和田少年愚連隊 BOYS BE AMBITIOUS」(1996)を改めて観てみました。ナインティナイン主演のやつですね。 観てみました、というような流れは苦手です。なぜならブログなどのタイトルが「○○に行ってきました」「○○観てきました」というのはおもんないグループのような気がするからです。俗に言う「踊ってみた、歌ってみた」の類の親類ですね。結局、消費者の域を一切出ない感じが寒いんでしょうね。特に面白く書いてくれるわけでもなし、ただ「○○しました」という「報告」に近い

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サブウェイ カラスマライン

ファイナルファンタジーのことをファイファンいうのは公式的には邪道とされていますが、「公式見解としてはエフエフです」といった当の会社の人は相当頭が悪いということはすぐにわかります。 なぜなら「FF結構面白いね」ということになれば、今までFRなどに乗っていた人がFFに乗った時に発した言葉と区別がつかないからです。つまりフロントエンジンフロントドライブですね。 それにFFなど当のゲームが発売されるより遥か昔からあります。 同様にセブイレのことをセブンなどと言ってしまえば、8と比較しての7の類と区別がつきません。RX-7と

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文化的

文化、文化的というと、様々な定義がありそうです。 ウィキに載っていたモノで言えば ハイカルチャーのように洗練されたもの 象徴的な思考や学習による信念やふるまいのパターン ある社会組織に共有されている価値観 上記のものは一切本質的ではないと思っています。説明になっているようないないような定義もあれば、半分くらいしかかすっていないような定義ですね。 エドワード・タイラーによる定義によると 広く民族学で使われる文化、あるいは文明の定義とは、知識、信仰、芸術、道徳、法律、慣行、その他、人が社会の成員として獲得した能力や習慣

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生きるって悲しい 改

人は焦ります。焦ったときは当然にそわそわしているので、それを苦しいことだと感じますが、ゲーム中に焦っているときは、「エキサイティング」を楽しんでいるだけで、特に苦しんでいるというよりは純粋に楽しんでいるはずです。苦しいのならすぐにやめられるのですから当然です。 想像力というものは強力なので、「なにか大変なことになるかもしれない」というイメージは相当自分を焦らせてきます。ところが、実際になにかが起こってもそれは大変なことではありません。腹痛のような激痛がくるのならまだしも、たいして自分には何のダメージもありません。ほ

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だまされるのはいつも言葉 改

日々暮らしていれば、ふとしたことから「言葉」にだまされてしまいます。 言葉の力については、過去記事で少し触れましたが、言葉よりも強力なのは関連思考と想像力です。 意志の力よりも 何度か触れましたが、意志の力は大したことはありません。 くり返し唱えられる「言葉」や、サブリミナルの前では、半紙で機関銃を防ごうとしているようなものです。 体育会系は意志の力を「根性」と置き換えて、それを凄いものかのように説きますが、あれは激しい運動で思考が弱っている時に「声援」や「喝」を入れるから効果があるだけで、実際はあまり意志の力は働

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呪文・そもそもはない 改

この呪文は一見、人の幸せを打ち消しているように思えますが、「ない」とは否定の意味ではありません。 否定とて、あることを前提にしているからです。 「そもそもはない」 存在する/しないの二元論の域をいっそ出てみましょう。 言葉というものは何かを限定する性質があります。 ある特定の概念を指して、それ以外を排除するという性質です。 そこでばっちり定義ができればいいのですが、それもなかなか難しい。 「りんご」といってもたくさんの種類があります。 品種に始まり、形や大きさにもバラバラなのにそれを包括します。 また、りんごの絵か

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だまされるのはいつも言葉

外国人が来て、怒った顔で自分に罵声を浴びせるとき、大抵は「何か悪いことをしたかな」と思うものです。 でも本当は「うちのオカンのカレーは格別にうまい!今度食いに来い!」と叫んでいたらどうでしょう。 言葉がわからない故に勘違いしてしまいます。 言葉には力がありますが、それは言葉に力という属性を与えているからです。 言葉に意味というラベルを貼り付けているからです。 一方で意思の伝達にはかなり役立ちますが、苦悩の元凶にもなりえます。 漠然とした言葉の意味にとらわれて、いつも感情が振り回されます。 しかし本当は感情を揺さぶる

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バル

時代時代で流行りがあります。 無刺激に耐えられない人が、刺激を求めて流行りを探します。 その事実だけは時代によって流行ったり廃ったりはしません。 最近では「バル」という看板をよく見かけます。 スペイン系の店ではかなり前から使われていたようですが、端的に最近のそれはただの流行りでしょう。 関係のない店でも、そんな名前を店舗名に入れています。 90年代に「ピュア」という言葉がよく使われた時期があります。 最近では使われると言っても、せいぜい「ピュアオイル」などです。 「ピュア」という言葉単体で使われるのは、サバンナの八

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辞書

歩こう会 「だ捕(拿捕)」など、普段使わない、読みにくい漢字は、最初から平仮名にしてあったりします。 僕は中学生の頃、「歩行(ほこう)くらい読めるわい!」と、 歩こう会のポスターにキレていました。 あれは「あるこうかい」らしいですね。 でも「ほこうかい」とも読めます。 この組織の名前をつけた人は、相当気が回らない人なのでしょう。 しかも、「いまや歩こう会は説明不要なくらいメジャー」くらいに思っていると思います。 そういう人とは友達にはなれません。 ― 控除という言葉があります。 「引いていきますよ」というような意味

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シャンプーの営業

もう何年も髪を切りに行っていません。 自分でバリカンでやっております。 最近でこそ坊主頭ばっかりしていますが、髪が長い頃もありました。 一番長い時で肩くらいまでありました。 中途半端な髪色が嫌だったので、染めるときはそれなりの激しい色にしていました。 たまにパーマもあてていました。 どうして、坊主にしたか。 それは、年々薄毛になってきていることも理由ですが、どちらかというと髪を切りに行きたくないというのがあります。 当時も自分でやるか、友達にやってもらうか、友達のお母さんにやってもらっていました。 あとは、手入れい

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