徒に天地のあひだに生るるのみ
日常社会生活を送る上ではさして問題視されない「生きていかなければならないからね」というような言葉も、哲学の空間に足を踏み入れた人たちにとっては「ねばならない」というような断定に違和感を感じるものですし、厳密には「ねばならない」ということは確定していません。 人間賛美や生命賛美というのが当たり前かのように語られたりしますが、それら賛美は当然中の当然というわけではありません。 「価値あるものということにしておかないと何かと都合が悪い」という
問ひわきまふる心愚かならず
質問の仕方によって、その人が何を考え奥にどんな目的を持っているのか、ということや知能の程度がわかったりします。 抽象的な質問の仕方では返答する相手が対象の特定に困ってしまう、ということで、抽象的過ぎる質問は避けるべきであるということもありますが、あえて抽象的な質問をすることによって、無意識に潜む想念を表出化させるということもあるので一律には論じえません。 ただ、抽象的な質問をしておきながら、対象を特定するため、つまり具体化のためにこちら
信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造
「信念の書き換え」とそれら信念における「未来についての不完全な論理構造」について触れていきましょう。 「信念」というものは書き換えが可能だったりもします。洗脳、マインドコントロールによって行われていることは、いわば信念の書き換えであり、外界の現象を捉えて反応する関数部分に対する「方程式の書き換え」という感じになっています。 ただ、書き換え可能なものと書き換えが不可能なものがあります。しかし大半は書き換えが可能です。これは、普遍的な「理」
「空」でありながら実在するかのように働く機能
それが実在するものでなくとも、実在するかのように働くことが迷妄の要因の一つとなっています。 本来は「有るような、でも、無いようなもの」である「空」でありながら、実際にはそれが実在するかのように働く機能があり、それが実際に何かしらの結果をもたらしたりします。 あくまで五蘊により捉えたものとしての対象であり、本質的には有と無を統合した概念である「空」としての性質を持つものであっても、観念の領域では有としての前提が生じるために機能が生まれ、機
感情的解決法では乗り越えられない論理的迷妄の壁
うつなどの精神症状が語られる場合、感情的なリラックス、身体的な楽さが軸に置かれ、それらをもたらすものであるようなコミュニティや「人と話すこと」などが大切であるというようなことが囁かれたりします。 しかしながら、ここであえて触れておきますが、そうした感情的解決法では乗り越えられない論理的迷妄の壁というものがあります。 すなわち、世間で提示される「解決策」は、イライラしたり不安だったりうつ状態になっている人に対して、何かしらの物理的処置、社

第1800回投稿記念
これで1800記事目になります。ブログ創設から1800回目の投稿ということで「第1800回投稿記念」です。 前回の第1700回投稿記念は、2020年1月5日だったので、前回からの100記事は、4ヶ月弱かけて投稿したという感じです。書庫の植物を増やしたことが後半の伸びに影響しているでしょう。 1ヶ月ほど前に六周年を投稿したばかりですが投稿記念なので致し方ありません。 さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。 また、contactか
調子が悪い時は静観して時を待つ
何かしら調子が悪かったり、ツキに見放されているように感じる時、まずやることはこころを落ち着かせることです。 そして流れを静観して、時を待つというのが理想的であり、無理な時に無理をすると、当然に理に適っていないのでより一層物事がぐちゃぐちゃになっていきます。 ― 特にここ最近は、季節的なものを含めてマクロ的な流れが意識に影響を及ぼすということが顕著になってきたように感じます。 そういえば最近のことになりますが、本ブログを通じてのご連絡に関
気づく力と自己観察
気づく力と自己観察について触れていきます。 「自己観察」においては、どのレベルで自己観察するかということが重要になってきます。 対象の抽象性のレベルと観察のあり方、そして観察における気づく力が重要な要素となってきます。 例えば、「自分」というものに関して、どのような目線でそれを捉えているかということによって、観察のあり方が変化してきます。また、それを観るにしても観るということに対する集中力によって、観え方が変わってきます。 ― 「知識の
白と黒の先にある透明へ
白と黒の先にある透明へ、ということで苦楽の両極端についてでも触れていきましょう。 まあイメージとしては「有と無を抽象化した空の如く」という感じです。白と黒の間は灰色ですが、白と黒の先にあるものは透明的であるというような感じです。 と、そうなるとイメージがつかみにくいので、まずは少し日常的な感じで進めていきましょう。 太宰治に対する評価 いつも仲良くしている士業の方と、文学についてお話したりしたことがあります。まあ単純には小説等々をはじめ

気のせいのようでもあるし、事実のようでもある
それが本当の真実であるということを証明できないようなタイプの主観的な感想については、それが妄想であれ「何かの象徴」として表現されているものなので、よほどの暴論でない限りそれほど問題にはしていません。 「気のせいのようでもあるし、事実のようでもある」という感想を持つしか無いような、巷で言う心霊系のお話については、「見えたのだから見えたのでしょう」という同語反復的なレベルのお話として捉えるに越したことはありません。 自我領域の主観的事実が、

一種の崩壊感
崩壊感という言葉自体はなんだか、消極的な感じがしてしまいますが、創造と破壊というコントラストが象徴するように、どのような分野や段階の話であっても、新しいものが形成されるときには必ず崩壊がセットになっているので、崩壊感が来た時は新しい世界の幕開けということにもなります。 平穏な状態というものは、普通「安定していて揺るがない」という感じにはなりますが、やじろべえのようにある程度両端が伸びている方が安定したりもします。 両極端の「伸び」による

イメージをともなわない言葉だけの網
感動という文字を見ても感動しないように、言葉はうまく紡ぎ合わせて何とかイメージを形成しないと、感情を動かすことはできません。 しかしうまく編まれたからといって「イメージ」が生まれないということもあります。 「笑う月」の中では次のように語られています。 「日頃から言葉の操作に従事しているぼくのような場合、イメージをともなわない言葉だけの網が編まれてしまう可能性だってあるわけだ。夢を見たという表現は、もはや適切でなく、夢のなかで言葉が編まれ
口に出して呟いて
思うだけよりも口に出して呟いていた方がより強固であり、何かしらに書き出してつぶやいているとより強力となるというのは、アファメーションの原則のひとつということのようですが、僕の場合は昔から口に出して呟いていると、向こうから勝手にやって来るというのが基本となっています。 因果関係の全てが観えないと、変なふうに感じるはずですし、一般的な解釈としては、認知バイアス的な部分として、「意識の向け方を変えれば見える」的な説明がなされたりもします。それ
絆という大きな束縛
絆という大きな束縛を解き放つこと、それが苦しみから脱することのポイントとなります。 サンユッタ・ニカーヤ第Ⅳ篇第一章第四節、第五節の「わな」をヒントに、大きな束縛について触れていきましょう。 本日で、養子のうさぎが亡くなって二年になります(うさぎの死 さようならわが息子よ)。昨年は、「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみを書いてみましたが、今年は愛別離苦の元となる絆という大きな束縛について触れていきます。 「あなたは悪魔のきずな(わな)で
論理では辿り得ないその迷路
哲学というものは日常の当たり前に「んあ?」と疑問を投げかけるものというのが基本となります。なので「人を幸せにしない」というふうに捉える人が多いということになります。 日常の当たり前のうち、社会的な「当たり前」に疑問を投げかけると倫理学等々になりますが、もっと誰にでも適用されるような自然で密接な部分となると哲学となります。 そして、それらの答えはだいたい宙に舞っているので、論理では辿り得ない迷路に突入することになります。 共通認識、共通前
意識的操作を超えたもの
自分が外の世界に反応するのではなく、外の世界が自分に反応する、ということは、認知バイアス等々を用いてある程度論理で説明しようと思えば説明できますが、それだけで捉えられるものではありませんし、あまりそうした事を言うと「表層的な意識とは裏腹なのはなぜだ!」ということになりかねません。 まあ、目覚めが最悪ならば、その最悪具合に応じてその日一日は「不快なものに目が行く」ということになってしまう、と言う程度ならばなんとなく納得がいきますが、そんな
自己実現と安らぎ
「あなたの自己実現とこの心の安らぎは関係がありません」 といった感じで、自己実現と安らぎについて触れていきます。 ふと心が折れそうになった時、一種の呪文のようにつぶやいてみると面白いかもしれません。 より厳密に考えると、「無意識は単語の概念から想起するため否定形を認識できない」とか、「単語の意味を想起してから打ち消すので、一度は想起してしまう」という部分もありますが、そのようにしか表現できないので、ひとまず先の感じのフレーズにしておきま
認知のあり方と解釈
認知のあり方と解釈について触れていきます。 社会においては、誰が発したのかというところが影響することがありますが、本来は意味において誰が発するかというところは、哲学領域等々、領域によっては本当に関係がありません。 出典を根拠とされようが、その出典自体は何に保証されているのか、という感じになります。より詳しい論証やデータがあるくらいで、蓋然性が高まる程度でしかなく絶対的な根拠としては成り立たないのです。 ただ、 「内容は同じでも誰が発する
趣味や職業と生き物の命と不殺生
「趣味や職業と生き物の命と不殺生」ということで、生き物の命と人が生きていく上での殺生について触れていきます。 たくさんの数のご連絡の中から「趣味の釣り」や職業として殺生を避けられない職業についてのご質問を受けました。 趣味としての釣りにおいては、海の生き物に対する殺生が関連し、ガーデニングにおいてもいわゆる雑草取りや害虫駆除という殺生が関連してきます。 職業としては、畜産や漁業・狩猟をはじめ、農業や造園であっても先のガーデニングと同様の
有身見とヴィパッサナーと諸法無我
有身見とヴィパッサナーと諸法無我といった感じで、ご質問のご連絡を受けた中から諸法無我に関連したものを一般化して残しておきます。 「有身見を錯覚であると見破るヴィパッサナー」、「自己観察中の自分は一体何者なのか?」、「ふたつの心が同時に生まれていることになるのか?」、「諸法無我に関する哲学的・科学的な構造の理解」、「五感で得た情報をありのままに捉えられず、自我によって演算してしまって、悲しいという意識が生まれたのか?」、「自我がない状態で
真我の否定、心と意識の違いと諸法無我
真我の否定、心と意識の違いと諸法無我といった感じで、ここでは、ご質問のご連絡を受けた中から諸法無我に関連したものを一般化して残しておきます。 「真我という概念の否定」、「色即是空の空」、「心身二元論・霊肉二元論と心」、「心と意識の違い」、「一つのチャネルである意識」、「認識する働きである心」についての質疑応答について記載しています。 諸法無我は、極めて理解しがたい理になります。 諸行無常や一切行苦に関しては、概念の抽象度を落としてでも示

虚しさの先にある安穏
経験の始まりと終わりを明確に捉えて区切ることはできませんが、終わりに生じる結果を観察していると、たいへん虚しい気持ちになってきたりします。 それはいわゆる諦めのようなものとは違っています。 一見虚しいような感覚にもなりますが、それでも憂いはありません。 なぜなら単なる虚しさには奥に期待があり、期待なき一種の虚しさには安らぎしかないからです。 でもその期待のなさは、諦めとはまた様子が異なっています。 ― 「名とすべて」の時と同様に雑記第2
超人思想と力への意志(権力への意志)
超人思想と力への意志(権力への意志)について触れていきます。 超人思想とは、ニーチェが「ツァラトゥストラはこう言った(Also sprach Zarathustra)」あたりで示した、能動的ニヒリズム的に生きる姿といった概念です。「生の肯定」として、永劫回帰の中で「生きること」を肯定して生きるという感じです。 力への意志(権力への意志,Der Wille zur Macht)とは、生の本質として、内的条件が外的に適応するというものではな
永劫回帰(永遠回帰)
永劫回帰(永遠回帰)とは、「この生が何度も何度も繰り返されるとすれば…」ということをもって今の生を肯定する試みであり、ニーチェがルサンチマンやニヒリズムを脱却するものとして考えた思想になります。 所詮思想の範疇であり、思考実験のようなものでもありますが、西洋文化の中で考えうる思考の限界だったのではないでしょうか。 この概念は、独語の「Ewig Wiederkehren」が訳された語なので、永劫回帰とか永遠回帰というふうに表現されたりして
さよなら2018
2018年が終わります。一応例のごとく2018年を少し振り返っておきましょう。 昔からですが、僕は戌年が嫌い、というよりもおそらく相性がよくありません。学年で言えば概ね一つ上であり、最も相性の悪かった人たちです。おそらくそんな事が関係しているのでしょう。 戌年の人には申し訳ないですが、犬や戌という概念すらあまり好きではなく、昔は戌年の「戌」という字を見ただけでちょっと嫌な気分になるくらいでした。 そういう感じなので「やっと終わる…」とい
涅槃寂静
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)について触れていきます。涅槃寂静はもちろん仏教用語ですが、仏教の根幹でありながら最も意味がわからないものであると思います。なぜならいくらわかりやすく書こうと思っても、涅槃寂静は「理解するもの」ではないからです。 涅槃寂静とは、「悟り」と呼ばれるような仏教の目的であり到達地点です。しかしそれが何かということを示すことはできません。 諸行無常や諸法無我、一切行苦ついては、哲学テーマとして書いてみましたが、涅槃寂
蓋然性とあいまいさ
思えば「蓋然性」と「あいまいさ」が長年僕を苦しめていました。それは哲学的問いであり、とりわけ哲学的領域と社会との整合、社会生活における自分のあり方としての課題です。 ふと病中で活字中毒だった頃を思い返すと、この「蓋然性」というものをどう取り扱うか、どの程度の曖昧さならば良しとするのかの線引が難しく、その問いに真剣に向き合ってしまったからこそ「笑ってしまうような悩み」を抱えることになってしまいました。 あくまで確実性の度合いの問題である「
思考の罠
思考の罠ということで、思考がすべての展開にブレーキをかけたり、絶え間ない重圧をかけたりしてしまうことや、「考えないほうがうまくいき安らぎに帰する」というようなことについてでも触れていきます。 少しばかり「苦」ばっかり扱ったので今回は明るいテーマです。 なんだかんだで哲学的なテーマは重く感じたりします。その重さは人を幸せにはしてくれないという意味で、哲学は何事にもあまり解決をもたらしてくれないということにもなりますが、あまりに曖昧だと逆に
四苦八苦 あらゆる苦しみ
四苦八苦シリーズが全て完了したので、四苦八苦をまとめておきます。四苦八苦(しくはっく)とは、四苦である「生老病死」に加え、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)といった8つの苦しみを意味しています。 四苦八苦は、もちろん仏教用語であり、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみといった「生老病死」と合わせて、嫌いな人と会わねばならぬ「怨憎会苦」、愛するものと別れる苦しみである「愛別離苦」、求めても得られない
五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)五種の執著の素因は苦しみをもたらす
五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)について触れていきます。四苦八苦シリーズ最後の苦しみは、この五蘊盛苦(ごうんじょうく)です。これは、五盛陰苦(ごじょうおんく)、五取蘊苦(ごしゅうんく)と表現されることもあります。五蘊盛苦とは、「五種の執著の素因は苦しみをもたらす」「五種の素因への執著が苦しみを生じさせる」という意味であり、四苦八苦全ての苦しみはこの五種類の素因への執著から成り立っているということを指します。 五蘊盛苦は、一切行苦の「一切の