徒に天地のあひだに生るるのみ

日常社会生活を送る上ではさして問題視されない「生きていかなければならないからね」というような言葉も、哲学の空間に足を踏み入れた人たちにとっては「ねばならない」というような断定に違和感を感じるものですし、厳密には「ねばならない」ということは確定していません。

人間賛美や生命賛美というのが当たり前かのように語られたりしますが、それら賛美は当然中の当然というわけではありません。

「価値あるものということにしておかないと何かと都合が悪い」というところが生き物としての人間の共通項のような感じになっているので当たり前かのようになっているだけであり、そうして人間の生を肯定しておかないと「じゃあ、否定されてもよいのだな」ということで苦痛を与えられてしまうというようなことが裏側に潜んでいるというのが「当然の認識」の背景にあるものです。

間を取って「中庸」ではなく、重なり合う「空」

そんな時に本来用いるのは、肯定と否定のいずれでもあり、また、いずれでもないような、中間でもなく第三のものでもない「空」や無属性というような捉え方です。

抽象的でぼやけているので、「間を取って中庸」という感覚で捉えてしまう場合もありますが、中庸は偏りがないというだけで重なり合っているというイメージではありません。

論理を組み立てていく上では、相対主義的に肯定も否定もどちらについても成り立たせることができます。しかし、物事は肯定と否定だけではなく、未確定という意味でもない、重なった状態ともとれる状態いうものがその本質です。

この心以外の心を経験することはできない

心を単に受け取る機能として捉えた上で命を考えてみると、この心以外の心を経験しようがないため、命が成り立っているということを断定することは哲学的に不可能です。しかしだからといって成り立っていないと断定することも不可能です(心とは何か)。

成り立っていないと断定した上で「何でもアリ」とするのが歪んだ空観であり、その捉え方は、外界において命が成り立っていないとしても、我執を生み、この心で受け取るものを苦とするという別の側面が見逃されています。

人間の生を肯定しないということは「危ないと思われて排除される」ということや、「肯定しないのであれば否定してやろう」と迫られた時に対抗できないというようなことから、社会においては肯定する方がベターということになっていますが、厳密にはそれも偏りがあるという意味で偏見といえば偏見です。

偏見に対して反証すると、否定の方の肯定ということなり、またそれも偏見ということになってしまいます。

「ここ」というものすら朧げ

というような論理の罠をくぐり抜けるには、日常感覚で「これならば他の人も認めるだろう、認めざるを得ないだろう」というような論理展開から少し離れ、言葉として紡ぐのは難しいような抽象的な空間の中で、論理を紐解いていくということが必要になっていくでしょう。

ただここにあるというような感覚、生命はただそんな感じであるというぼやっとした感想が最もふさわしいものになるでしょう。否、ここというものすら朧げで、あるという概念すら的確ではないというのが本当のところです。

そんなことを人に話すと「なんだ君は」と怪訝な顔をされる程度なので、別に人に話して承認してもらう必要はありません。その相手の是か非かで変わるようなものではないのですから。

徒に天地のあひだに生るるのみ。

肯定と否定のいずれでもあり、また、いずれでもないような、中間でもなく第三のものでもないような生。

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