生は浮きたる漚のごとく

形として見えるものでありながら、実際にあるとまでは言い切れないものであり、かつ「自らの意志」があるように見えながら流れの中にあるものということで、生とはまさに浮きたる漚のごとくという感じになりましょう。

「自らの意志で頑張った」ということも朧げなものであり、「一生懸命がカッコいい」というような周りの評価から形成されたという点もありつつ、そんな「一生懸命がカッコいい」というような評価そのものもどこかから生じたものであったりします。

そして、そうしたことを伝えた人も、言葉も、概念も全て流れの中でまとまりとして形成されたものであり、そうして形成されたものが実在するというわけでもなく、何もないなら形成もされ得ないということで、無いというわけでもなく、またあるというわけでもありません。ということで流れの中の漚(泡)のようなものです。

漚が生じ、また消えていくのも流れによります。問題は、漚とは何かとか、漚の生滅とは何か、いかようにして起こるのかとか、状態を変化させるにはどうすればよいかというようなことではなく、その状態に関わらずその状態に振り回されず静止していることという感じになるでしょう。

漚そのものやその状態がどうあるかが、我とするならば、心はその状態を受け取る傍観者のようなものです。

ということなので、「永遠の生命を求めて」ということで、「記憶や思考を人工知能に移行」ということを考えている人たちがいたとするならば、根本からズレているとしか言いようがありません。

「それは漚を残して傍観者は消えるというようなことになるので元も子もない」ということが見えていないということになります。

それは漚が漚を見ているからこそ生ずるものであり、「心とはそういうものではないですよ」という点については盲目となっています。きっと、漚そのものが持つ白き濁りにより隠されているのでしょう。

生は浮きたる漚のごとく。

彼岸より漚を観よ。

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