タグ別アーカイブ: 哲学

哲学分野

重圧の転嫁

罪と罰のラスコーリニコフのように、一種の重圧の転嫁が起こることがよくあります。そんな20歳前後の時の男性の心理状況を扱った作品は、小説や楽曲にも多くあります。 特に近代化してからが多いですが、それ以前の作品にもちらほら垣間見れるそれは、時に特定の思想を持ったものや自己顕示欲を満たすことを目的とした人に利用され、時に脳筋体育会系の優越感に利用されたりもします。 しかし転嫁も間違いですが、そうした人たちが指し示す社会への従順も本質的ではありません。そして転嫁的な意図だけが全てというわけではない哲学的領域の問いもあります

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偶然への気付きと必要なき裏付け

生きている中で起こる全ての出来事には偶然の要素が含まれています。この偶然とは思考の範囲外、自我による想定や判断の範囲外という意味くらいに考えていただければ良いでしょう。 自分が努力したからとか、努力しなかったからとか、才能があるとかないとかいった印象はアイツこと自我の判断であり、すべての要素を分解すると偶然要素がふんだんに含まれていることに気付きます。 また、願いのようなものが叶っているかいないかという点について、「特定の何か」に限定して「考えて」みると、叶っていないような気にもなりますが、抽象的な幸せに関しては、

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「無知の知」による迷宮からの脱出

一度哲学的領域に入ってしまうと、ソクラテス的な迷宮に入り込んでしまうことがあります。それは「無知の知」のような一種の納得せざるを得ないようなものを通過すると、社会生活等々がままならなくなってしまうというような現象です。無知の知そのものは、それはそれで概念としての空性であり、ある種の理として「それそのもの」という感じになりますが、そうした正しさがあると、混乱から迷宮に突入してしまうことがあります。 これは端的には、「定義できないのだから何も示し得ず、示し得ないのであれば、それらをもって何かを示すということは成り立たな

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知足と空性と「充足への移動」

知足、「足るを知る」について触れていきます。その意味について至るところで様々な解釈がなされていますが、まあそれだけ抽象性があるということになるのでしょう。ただ一応ここでは、仮観の内にある俗物の解釈を超えて智慧により「足るを知る」を捉えていきます。 つぶやき程度ですが、知足について「吾唯足るを知る」というものは、吾唯足知・吾唯知足と書かれたりします。この表現は国産のものであると考えられるので、レ点の問題だけだと思っています。知足は、大乗の仏遺教経における「知足之者」や「老子」などで出てくるものですが、老子の「知足者富

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ゼロの錯覚

求めても得られない苦しみである求不得苦には様々な要因がありますが、「ゼロの錯覚」こそが求不得苦をもたらす最たるものであり、無駄な苦しみを生む要因の一つとなっています。大切なものとの別れからくる苦しみである愛別離苦についても同様です。 「ゼロ」は、数学的には偉大な発明であるものの、この心にとっては求不得苦や愛別離苦をもたらす要因でもあります。 不足感の正体はゼロを想起するというところにあります。 「ゼロ」という概念は数学的空間の中にだけあり、現実においては、記憶の連続性の中での記憶や想像とのギャップがあった時に想起さ

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意識を先に置いたり分散させること

車の運転と同じように、視点は遠い方が安定し、またたくさんの方向をちらほら確認している方が安全に歩んでいくことができます。 あまりに手前の方ばかり見すぎると、感情が大きく揺れ動いてしまい、まさに動揺してしまいやすくなります。 既に無意識的動作となっている運転動作と同様に、日常のすべてが「無意識的有能」以上の領域になると、憂いはどんどん減ってきます。ただ、リスクがすべて消えるわけではないということを踏まえての「憂いのない運転」のような感じになります。 日常の9割以上は、遠くに視点を置くだけで基本的な感情の動揺はなくなり

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心とは何か

「心とは何か?」ということについて様々な議論があります。しかしながら、あまりに定義し難い対象であるため、どのレベルで定義するかによって、いかようにも定義できてしまうのが心です。 「心とは一体何なのか?」 その答えを示すのであれば、端的には次のような定義を示すことができます。 「受け取る働き」 「認識する機能」 「受け取る点」 そしてその上で、なぜそのように心とは何かという問いに対するひとつの捉え方をするのか、そして、そうした場合、何が見えてくるのかという点について、哲学的にかつ一般的に示しつつ、最後は智慧により語る

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生は浮きたる漚のごとく

形として見えるものでありながら、実際にあるとまでは言い切れないものであり、かつ「自らの意志」があるように見えながら流れの中にあるものということで、生とはまさに浮きたる漚のごとくという感じになりましょう。 「自らの意志で頑張った」ということも朧げなものであり、「一生懸命がカッコいい」というような周りの評価から形成されたという点もありつつ、そんな「一生懸命がカッコいい」というような評価そのものもどこかから生じたものであったりします。 そして、そうしたことを伝えた人も、言葉も、概念も全て流れの中でまとまりとして形成された

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徒に天地のあひだに生るるのみ

日常社会生活を送る上ではさして問題視されない「生きていかなければならないからね」というような言葉も、哲学の空間に足を踏み入れた人たちにとっては「ねばならない」というような断定に違和感を感じるものですし、厳密には「ねばならない」ということは確定していません。 人間賛美や生命賛美というのが当たり前かのように語られたりしますが、それら賛美は当然中の当然というわけではありません。 「価値あるものということにしておかないと何かと都合が悪い」というところが生き物としての人間の共通項のような感じになっているので当たり前かのように

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問ひわきまふる心愚かならず

質問の仕方によって、その人が何を考え奥にどんな目的を持っているのか、ということや知能の程度がわかったりします。 抽象的な質問の仕方では返答する相手が対象の特定に困ってしまう、ということで、抽象的過ぎる質問は避けるべきであるということもありますが、あえて抽象的な質問をすることによって、無意識に潜む想念を表出化させるということもあるので一律には論じえません。 ただ、抽象的な質問をしておきながら、対象を特定するため、つまり具体化のためにこちらから質問をすると「質問に質問で答えるな」と言い返してくるような人がいたりもするの

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信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造

「信念の書き換え」とそれら信念における「未来についての不完全な論理構造」について触れていきましょう。 「信念」というものは書き換えが可能だったりもします。洗脳、マインドコントロールによって行われていることは、いわば信念の書き換えであり、外界の現象を捉えて反応する関数部分に対する「方程式の書き換え」という感じになっています。 ただ、書き換え可能なものと書き換えが不可能なものがあります。しかし大半は書き換えが可能です。これは、普遍的な「理」と解釈可能性のある「信仰」や「主義」の違いのようなもので、絶対性を持たないような

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「空」でありながら実在するかのように働く機能

それが実在するものでなくとも、実在するかのように働くことが迷妄の要因の一つとなっています。 本来は「有るような、でも、無いようなもの」である「空」でありながら、実際にはそれが実在するかのように働く機能があり、それが実際に何かしらの結果をもたらしたりします。 あくまで五蘊により捉えたものとしての対象であり、本質的には有と無を統合した概念である「空」としての性質を持つものであっても、観念の領域では有としての前提が生じるために機能が生まれ、機能に応じた結果が生じることになります。 それは実在するものであるのかはわからない

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感情的解決法では乗り越えられない論理的迷妄の壁

うつなどの精神症状が語られる場合、感情的なリラックス、身体的な楽さが軸に置かれ、それらをもたらすものであるようなコミュニティや「人と話すこと」などが大切であるというようなことが囁かれたりします。 しかしながら、ここであえて触れておきますが、そうした感情的解決法では乗り越えられない論理的迷妄の壁というものがあります。 すなわち、世間で提示される「解決策」は、イライラしたり不安だったりうつ状態になっている人に対して、何かしらの物理的処置、社会的関係性の調整等々によって「ほっ」としてもらえばそれで良くなるだろうとか、「人

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第1800回投稿記念

これで1800記事目になります。ブログ創設から1800回目の投稿ということで「第1800回投稿記念」です。 前回の第1700回投稿記念は、2020年1月5日だったので、前回からの100記事は、4ヶ月弱かけて投稿したという感じです。書庫の植物を増やしたことが後半の伸びに影響しているでしょう。 1ヶ月ほど前に六周年を投稿したばかりですが投稿記念なので致し方ありません。 さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。 また、contactからご連絡いただいた方、投稿にコメントをいただいた方、ありがとうございます。毎度の

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調子が悪い時は静観して時を待つ

何かしら調子が悪かったり、ツキに見放されているように感じる時、まずやることはこころを落ち着かせることです。 そして流れを静観して、時を待つというのが理想的であり、無理な時に無理をすると、当然に理に適っていないのでより一層物事がぐちゃぐちゃになっていきます。 ― 特にここ最近は、季節的なものを含めてマクロ的な流れが意識に影響を及ぼすということが顕著になってきたように感じます。 そういえば最近のことになりますが、本ブログを通じてのご連絡に関してもタイミングがほぼ同時ということもあったりしました。それぞれの方々は、それぞ

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気づく力と自己観察

気づく力と自己観察について触れていきます。 「自己観察」においては、どのレベルで自己観察するかということが重要になってきます。 対象の抽象性のレベルと観察のあり方、そして観察における気づく力が重要な要素となってきます。 例えば、「自分」というものに関して、どのような目線でそれを捉えているかということによって、観察のあり方が変化してきます。また、それを観るにしても観るということに対する集中力によって、観え方が変わってきます。 ― 「知識の習得や理解では安穏にたどり着けないのならばどうすればいいのか?」 きっと思考先行

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白と黒の先にある透明へ

白と黒の先にある透明へ、ということで苦楽の両極端についてでも触れていきましょう。 まあイメージとしては「有と無を抽象化した空の如く」という感じです。白と黒の間は灰色ですが、白と黒の先にあるものは透明的であるというような感じです。 と、そうなるとイメージがつかみにくいので、まずは少し日常的な感じで進めていきましょう。 太宰治に対する評価 いつも仲良くしている士業の方と、文学についてお話したりしたことがあります。まあ単純には小説等々をはじめ、おすすめ本的なことを含めた雑談です。 まあそのお話の中で太宰治氏のかの有名な「

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気のせいのようでもあるし、事実のようでもある

それが本当の真実であるということを証明できないようなタイプの主観的な感想については、それが妄想であれ「何かの象徴」として表現されているものなので、よほどの暴論でない限りそれほど問題にはしていません。 「気のせいのようでもあるし、事実のようでもある」という感想を持つしか無いような、巷で言う心霊系のお話については、「見えたのだから見えたのでしょう」という同語反復的なレベルのお話として捉えるに越したことはありません。 自我領域の主観的事実が、完全にありのままを包括した世界とイコールであると考えることはできません。 見えた

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一種の崩壊感

崩壊感という言葉自体はなんだか、消極的な感じがしてしまいますが、想像と破壊というコントラストが象徴するように、どのような分野や段階の話であっても、新しいものが形成されるときには必ず崩壊がセットになっているので、崩壊感が来た時は新しい世界の幕開けということにもなります。 平穏な状態というものは、普通「安定していて揺るがない」という感じにはなりますが、やじろべえのようにある程度両端が伸びている方が安定したりもします。 両極端の「伸び」による安定 ということで、ある程度両極端を経験していたりしつつ、そのどちらにも傾かない

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イメージをともなわない言葉だけの網

感動という文字を見ても感動しないように、言葉はうまく紡ぎ合わせて何とかイメージを形成しないと、感情を動かすことはできません。 しかしうまく編まれたからといって「イメージ」が生まれないということもあります。 「笑う月」の中では次のように語られています。 「日頃から言葉の操作に従事しているぼくのような場合、イメージをともなわない言葉だけの網が編まれてしまう可能性だってあるわけだ。夢を見たという表現は、もはや適切でなく、夢のなかで言葉が編まれた、とでも言い替えるべきだろう」 言葉が発端となり、言葉と言葉が編まれ、言葉と視

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口に出して呟いて

思うだけよりも口に出して呟いていた方がより強固であり、何かしらに書き出してつぶやいているとより強力となるというのは、アファメーションの原則のひとつということのようですが、僕の場合は昔から口に出して呟いていると、向こうから勝手にやって来るというのが基本となっています。 因果関係の全てが観えないと、変なふうに感じるはずですし、一般的な解釈としては、認知バイアス的な部分として、「意識の向け方を変えれば見える」的な説明がなされたりもします。それはそれでいいですが、「万人が納得しそうな感じ」でしか語られないという感じです。

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絆という大きな束縛

絆という大きな束縛を解き放つこと、それが苦しみから脱することのポイントとなります。 サンユッタ・ニカーヤ第Ⅳ篇第一章第四節、第五節の「わな」をヒントに、大きな束縛について触れていきましょう。 本日で、養子のうさぎが亡くなって二年になります(うさぎの死 さようならわが息子よ)。昨年は、「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみを書いてみましたが、今年は愛別離苦の元となる絆という大きな束縛について触れていきます。 「あなたは悪魔のきずな(わな)で縛られています。―天界のきずなと人間のきずなとがありますが…。あなたは悪魔の縛め

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論理では辿り得ないその迷路

哲学というものは日常の当たり前に「んあ?」と疑問を投げかけるものというのが基本となります。なので「人を幸せにしない」というふうに捉える人が多いということになります。 日常の当たり前のうち、社会的な「当たり前」に疑問を投げかけると倫理学等々になりますが、もっと誰にでも適用されるような自然で密接な部分となると哲学となります。 そして、それらの答えはだいたい宙に舞っているので、論理では辿り得ない迷路に突入することになります。 共通認識、共通前提に疑いをかける哲学 哲学は、主に人々の共通認識、共通前提のようなものに疑問を投

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意識的操作を超えたもの

自分が外の世界に反応するのではなく、外の世界が自分に反応する、ということは、認知バイアス等々を用いてある程度論理で説明しようと思えば説明できますが、それだけで捉えられるものではありませんし、あまりそうした事を言うと「表層的な意識とは裏腹なのはなぜだ!」ということになりかねません。 まあ、目覚めが最悪ならば、その最悪具合に応じてその日一日は「不快なものに目が行く」ということになってしまう、と言う程度ならばなんとなく納得がいきますが、そんな最悪の目覚め自体を望んでなどいないというところから考えれば、外の世界が自分に反応

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自己実現と安らぎ

「あなたの自己実現とこの心の安らぎは関係がありません」 といった感じで、自己実現と安らぎについて触れていきます。 ふと心が折れそうになった時、一種の呪文のようにつぶやいてみると面白いかもしれません。 より厳密に考えると、「無意識は単語の概念から想起するため否定形を認識できない」とか、「単語の意味を想起してから打ち消すので、一度は想起してしまう」という部分もありますが、そのようにしか表現できないので、ひとまず先の感じのフレーズにしておきました。 この自己実現と安らぎの関係については、複数の意味が抽象的に統合されていま

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