誰のために真理は存在するか
今までは、誤謬というものは慰めになる力であった。現在人々は、認識された真理に同じ効果を期待して、いささか長い間すでに待ち受けている。真理が他ならぬことを―慰めることを―果たすことができないとすれば、どうだろうか? 曙光 424 前半抜粋 ニーチェには残念ですが、真理は、誰のために存在するという性質のものではありません。誰かのために用意されたようなものは真理ではなく妄想であり、誰のためということことでもなく、かつ誰にでも確認できることこそ
不平家
それは、あの古い勇者の一人である。文明が彼の癪にさわる。文明は一切のよいもの、名誉、富、美人を ― 臆病者の手にも入り得るようにする、と彼は考えるからである。 曙光 153 不平家ということで、不平について触れていきます。不平とは何かを不満に思っていて、心が穏やかではないことを意味しますが、その奥には、不平等としての「公平ではない」という状態があるはずです。 不平家とは、そうした不平や不満をもつ者、「公平ではない不平な状態」を厭い嘆く者
宣誓のひな型
「今私が嘘を言うなら、もはや私は決して真面目な人間ではない。誰でも私に面と向かってそういってよろしい。」―私はこのひな型を、法廷の宣誓とその際しきたりである神への呼びかけとの代わりにおすすめする。この方が強い。信心深い人でも、これに反する理由は持たない。 曙光 152 前半抜粋 宣誓とは、もちろん誓いの言葉を述べることであり、主に「誠意を見せるため」という目的のために述べる誓いの言葉のことを意味します。 宣誓というものがなぜ必要なのか、
ここで新しい理想がつくられる
恋愛状態のとき、自己の人生の決断を下したり、激しい気まぐれのために自己の伴侶の性格を断然決定してしまったりすることは、許されるべきことではない。われわれは、愛人同志の誓いを公に無効であると宣言し、彼らに結婚を許さないようにするべきであろう。 曙光 151 前半抜粋 性格も傾向はある程度固定的なものであっても、表に現れる行動などは一様ではありません。そのかかる負荷度合いが弱かったり、単発なら怒ることがなくても、様々な種類の強いストレスが連
結婚の偶然
「まだひとりぼっち?」というような広告がよく出ます。まだどころか全存在は永久に独りです。独りでないかのように感じるのは錯覚ですから、独りであっても、誰かといても、結局は独りなのだ、と肝に銘じるどころかそれが自然です。 好きな人がいればその人と結婚すればいいですが、「出会いがないけど結婚がしたい」という人は、今一度自分がどういう理屈でそのようなことを考えているのか考えてみたほうがいいでしょう。 「みんなが言っている」というのは、世間の人を
どこで自分を知るか
動物は他の動物を見るや否や、心の中でそれと優劣を争う。そして未開時代の人間も同じやり口である。ここから、どんな人間でもその場合、ほとんどその防御力と攻撃力に関してのみ自分を知るということが明らかになる。 曙光 212 時に防御力、攻撃力という言葉を使うからこそ「言ってることが少年ジャンプっぽい」と有吉氏に言われるんだぞニーチェ! つまりは他の存在と相対化してしか自分を測れないのが通常だというようなことでしょうか。となると、「俺のスペック
不死を夢見る人々に
大昔からでしょうか、不老不死を追い求めるようなテーマは数知れず、今でもアンチエイジングという言葉がちらほら歩いています。 そういう事を追いかけている人もちらほらいたりするものの、老いなかった人も、死ななかった人もいないので、現在もそのような人を確認できないわけですが、どうしてそんなにその事実を無視するのでしょうか。 しかしながらそんな事実よりも、もっと忘れそうになるのが、「不死は幸せだ」は本当か、ということです。夢見ているのだから、いい
それ「自体」
昔人々は、おかしなものが性質として付着している物がわれわれの外部に存在するかのように、おかしなものとは何であるか?と問うた。 ― 現在人々は、笑いとは何であるか?笑いはどうして起こるのか?と問う。人々は考えたあげく、よいものそれ自体、美しいものそれ自体、崇高なものそれ自体、悪いものそれ自体は存在しないが、われわれが自分の外部や内部の物にそのような言葉を与える魂の状態は存在する、ということをとうとう確定した。 曙光 210 抜粋 それ「自
最も厳密な理論の効用
人々は、ある人間の多くの道徳的な弱点を大目に見、その上粗い篩(ふるい)にかける。彼が最も厳密な道徳理論を信奉するといつも公言しているとしてのことだが!これに反して人々は、自由精神の道徳学者の生活を、いつも顕微鏡で調べてきた。その生活に過失があれば、ありがたくない認識の最も確実な反証になる、という底意を抱きながら。 曙光 209 「その生活に過失があれば、ありがたくない認識の最も確実な反証となる」 これは日常でよく行われていることです。自

雪道走行 バイク編
実質上新年2015年初投稿になります。新年初温泉に行ったものの帰りは10センチどころで済まないほど積雪しており、荒れる猛吹雪の中バイクで走行するという正月になりました。 常に雪が積もっているエリアというわけではなく、年に数回程度積もることがある京都での雪道走行について触れていきます(ということで、スノータイヤやチェーンを装備した場合ではなくノーマルタイヤで不意の積雪、といったシーンについて)。 狂気に見える二輪車での雪道走行 二輪車での

新年 2015
みなさま、あけましておめでとうございます。 2014年から2015年になりました。 いつも役所関連は、「平成」で表記しています。今現在のことならいいですが、「何年まで有効」のような表記も「平成」表記と言うことに違和感を感じているのは、僕だけではないと思います。 日本人だから日本の形式に合わせるというのはいいですが、それは現在の日付だけにした方がいいですね。年号が変わった時に計算するのは馬鹿らしい、それでも「こだわり」を手放さないのが変な

さよなら2014
さよなら2014。 2014年は非常に記念すべき年になりました。 何よりも、身が軽くなりました。 不要なものがどんどんなくなっていきました。そのおかげで、周りの社長仲間たちには、「お金に困っているのではないか」と勘違いされるほど、無欲恬淡になりました。元からあまり欲は強くありませんが(代わりに元々は怒りが強すぎました)、本当にあまり物が欲しくないどころか、静寂を好むようになりました。 ある程度お金を持つと、「お金があるなら水商売かゴルフ
大きな沈黙の中で
「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」と言ったのはウィトゲンシュタインです。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」で終わることで有名です。 論じえぬことに対してあれこれ論じて盛り上がるのは雑談程度で十分のはずなのですが、世の中では論じ得ないこと、論じても仕方ないことがたくさん論じられています。それに必要以上に価値を付けるのでより一層おかしくなっていきます。 どうコメン

良心問題
「では要するに、諸君は一体どんな新しいことを望むのか?」―われわれはもはや原因を罪人に、結果を絞首刑吏にしようとは思わない 曙光 208 原因を潰そうとして頑張ってみるものの、原因を潰しても結果が変わらないことがあります。 原因を潰そうとしたら、他の面まで潰れてしまうという場合もありますが、他の面も変わらなくて結果も変わらなかったというケースです。 原因だと思っているポイントが間違っている場合、というのもありますが、原因はそんなに単純で
小さな逸れた行為が必要である
オリジナルや個性という言葉がすごいことかのように取り扱われ、平均的な生活から「少しはみ出そうと」躍起になりつつも、自分塾を正しく開いてこなかった場合には、「オリジナルだ」と主張するようなものを創作したとしても、絶望するほどチンケなものになります。 楽器人生 さて、個人的に楽器をやり始めたのは、詳しく言えば幼稚園くらいですが、ベースなどを触りだしたのは中学生の時です。 相棒プレシジョンベースとの20年(2019年3月投稿) その当時は数人
最も古い道徳的な判断
われわれの身近で或る人間が行為をした場合、われわれは、実際どのようにするか?さしあたりわれわれは、われわれにとってその行為がどんな結果になるのかを注目する。― われわれはこの視点下においてのみその行為を見る。 曙光 102 序 本当は違うはずですが、人は外見や行為で人に判断されます。 真の意味での行為について判断されるのであればいいのですが、それを親なり何なりに肩代わりしてもらいつつ、外からの評価を得ようとする人もいます。 しかしながら

気づかわしい
ある信仰を、風習であるという理由だけで受け入れる。―このことはしかし不誠実であり、卑怯であり、不精であるということを意味する!それでは、不誠実、卑怯、不精が倫理の前提であるというのか? 曙光 101 「気づかわしい」とは、事の成り行きなどが気にかかることであったり、「心配だ」「気がかりだ」というようなことを指しますが、12月25日は世間でもクリスマスだということで、「聖なる夜」が「性なる夜」的に気づかわしいということになりましょうか。稲
夢からさめて
生きているということは、明晰夢のようなおぼろげなものです。何度か書きましたが、僕は夢という言葉が苦手です。 イニシャルDの最終話で「プロジェクトDのイニシャル、Dreamに込めた俺の夢だから」と、高橋涼介が言った時には彼の評価が2段階位落ちました。 「高橋涼介が一番だ」、ということで頭文字DのゲームでもFC(RX-7)を使っていましたが、少しがっかりしました。D8になってからはもうゲームはやめたので、関係のないことです。 衝撃的な出来事

クリスマス被害者の会
僕は12月生まれです。なぜか友人は11月から2月の間に生まれた人が多い傾向にあります。 生まれた日は大雪が降っていたそうです。いまでは好きな季節というものがありませんが、雪国でもないのに、もしからしたら雪が降り始める季節、小さい時は12月が一番好きな季節でした。 ― クリスマス被害者の会ということで、12月後半生まれの方が実感するような「クリスマスによる被害」について触れていきましょう。 クリスマス被害 12月後半から1月前半生まれの方
われわれのすべてが非理性的である点
われわれは相変わらず、誤りだと思っている判断や、もはや信じていない学説から結論を導き出す。 ― われわれの感情によって。 曙光 99 理性によって判断しているつもりでも100パーセント感情で決めていると言った人がいます。感情というものは厄介なものです。 感情主軸の話は話すだけ無駄なことが多いですが、感情が動かないようなものは気持ちに響かないため、経済社会においても感情に働きかけないものは全くに近いくらい売れません。 理性的と言われるよう

第400回投稿記念
これで400記事目になります。ということで第400回投稿記念の回です。またまた特別企画中かつ、書庫の作成中ですが、これらもある程度成熟してきたのでそろそろペースをぼちぼちにしていこうと思います。 さて、常連さんいつもいつもご高覧ありがとうございます。 早いもので記事は400になりました。簡易的なページをたくさん作ったため、第300回から今回にかけては早かったように思います。検索エンジンのインデックス数は888になっています。結構な数にな
道徳の変化
道徳にはたえず変形が施されて手が加えられている。― このことを引き起こすのは、上首尾の結末に終わる数々の犯罪である(たとえば、道徳的な考え方を新しくすることはすべてその一つに数えられる)。 曙光 98 いつでも決め事は解釈によっておかしくなっていきます。「道徳の変化」ということで、決め事など明文化されたもの、道徳など明文化されない不文律というようなものも常に変化し変形していきます。それが社会的なものであれば、当然に社会の変化に応じて変化
道徳的になるのは、道徳的であるからではない!
道徳に服従することは、君主に服従することと同じように、奴隷的でも、思い上がりでも、利己心でも、諦めでも、陰鬱な熱狂でも、無思慮でも、絶望の行為でも、ありうる。それ自体としては、それは道徳的なものではない。 曙光 97 つまりは校則に書いてあるからとか、上司にそう聞いたからという理由で「道徳」を守っているかのようなギムキョな言動は、道徳的なものではないということでしょう。奴隷的・思い上がり・利己心・諦め・陰鬱な熱狂・無思慮・絶望の行為、よ
どれほどの力が現在思想家の中に集まらねばならぬか
考古学者や国語学者という言葉を見ても「ああそうですか」という感じがしますが、なぜか「哲学者」という言葉を見たときには違和感を感じます。 同様に、陶芸家、噺家、という言葉を見てもなんとも思いませんが、「思想家」という言葉には「関わらないほうがよさそう」という感じがします。 哲学や思想 その原因は、哲学や思想が人生の根幹に関わりそうな事柄だからでしょう。テレビ番組を見るような感覚でその場の楽しみとしては聞き流せないような事柄を取り扱っている
観想的な生活の由来
ふっと思うことを「観る」というか観察することはいいですが、一歩間違えればそこに何かを結びつけようとします。 そういう癖は太古の昔であれば原始的宗教と言われるもののように、自分たちが把握できない対象についての畏怖から想起されたと思いますが、現代では、ありふれた情報によって「つじつまを合わせよう」とするアイツ働きによってそれは完成されます。 「観想的な生活の由来」ということで、観想という言葉などから見ていきましょう。 観想という言葉 観想と
観想的な生活の評価のために
―結局学問はやはり万人に対して非常に利益になるものになった。この利益のために現在実践的な生活を営むように予定された極めて多くの人々が、その顔に汗し、しかもずいぶん頭を悩まし、呪いながら、学問への道を歩んでいるが、しかしそのような労苦は思想家や学問研究者の群の責任では全くない。それは「自家製の苦労」なのである。 曙光 41 苦労というものはすべて自家製です。自家製なのですが、その原因を外部的に作り出す人も外から見れば確かにいます。すべて自
習慣の穿鑿
穿鑿は「せんさく」と読むそうです。穿(うが)ち、穴を掘ること、から根掘り葉掘りというような意味合いで使われるようですが、「刷新」という言葉を使って普通に生きていてはあまり使わない単語を見せて「なんだかすごい」というような関心を引き寄せようとするようなことで、「読めへんよ」と一瞬感情を沸き起こさせることが目的ですから、あまり気にしてはいけません。 字は違いますが、「詮索する」も「根掘り葉掘り詮索する」という風に使われるように、穿鑿も「根掘

「純粋な精神」の偏見
純粋な精神、純粋な人、そういう時に使われる「純粋」は、純粋ではなく愚かなだけの可能性が高いでしょう。無知が一番の元凶と言われますが当然です。 ここでいう無知は、「日本語を知らない」とか「テストの点が悪い」とかいうものではありません。純粋すらアイツに利用されます。 そういう観念、ラベリングがあると、「純粋、あるがまま」といっても、キャンバスにペンキをぐちゃぐちゃに塗って「何にもとらわれない芸術」という結果を生み出す原因になります。 無知と
道徳的な判断によって変形された衝動
ニーチェはとにかくキリスト教を筆頭に、宗教的な前提を否定することが大好きで、道徳という言葉を使う場合、そのほとんどは古代ギリシャやキリスト教的な前提をさしていて、ひたすらそれを目の敵にしています(対象はイエスではなくキリスト教会などです)。それほどまでに想像を絶するほどに西洋文化にはその影響が隅々にまで及んでいたのでしょう。 「道徳的な判断によって変形された衝動」ということで、宗教的な前提や考え方の影響が本質的な理(ことわり)の理解の邪
効用からの誤った推論
守護霊が見えたから、やっぱり守護霊はいるんだ、というような事を本気で信じている人がいますが、そういうことはやめておいたほうがいいでしょう。 やめろといってもどうせそのままは聞き入れないことくらいはわかっていますから、やめておいたほうがいい、というふうに言っておきますが、それは存在を肯定しているわけではない、ということは断言しておきます。 「それを守護霊と呼ぼうが構わない」という類ではありません。「時にそれは魂や真我と呼ばれるが、その人に