自発的な意志による苦悩の道徳

友人が自発的に「新興宗教に入った」と告白してきたことがあります。

実はそれは後に告白されたというより、その宗教団体に属しているということを先に知ってから、友達になったのですが、僕はご周知の通り宗教には絡んでいません。宗教ではないというような団体にも属していません。

新興宗教・カルト宗教はもちろん、それに類するような団体には関わりたいと思いませんし、それどころか宗教に絡まなくても何かの団体に入ったり、団体を形成して群れたいとすら思いません。そういうことはライングループで盛り上がって「絆」が大好きな人がやることだと思っています。

ただ、宗教に絡んでいるからといって、すぐさま拒絶することはありません。宗教関連の話題以外なら特に問題ないわけですから。

それに僕はそれ系の話をされても、「おとぎ話」を聞かされるような心境にしかなりません。特に怒りも憂いもありません。

苦悩による似非自発的意志

大抵の新興宗教にハマる人は、人生最大級のダメージが二つくらい重なると、何かにすがりたくなるというような状況が元で思わず入信してしまうというケース多いでしょう。

つまり気持ちの隙ができたときに「それは神様からの試練だったんだ」というようなことや「昔の悪いカルマが今、実現した」というようなことで自分を言い聞かせようとしているような状況ですね。

シラフであればハマりもしないと思いますが、人生に疑いを欠けるような出来事が連続して起こると、やはり人は自棄を起こし、何かにすがりたくなる生き物なのでしょうか、そうした時に身の回りにいる人に相談したりしてしまいます。

相談相手が宗教の信者の場合、宗教団体の施設に連れて行かれて集団でマインドコントロールされる

そして、その人が宗教の信者だったとすれば「一緒に乗り越えよう」などと言いながら宗教団体の施設に連れて行って集団でマインドコントロールに入るという感じがゴールデンルートです。

辛い出来事すらも「あなたを道に誘うためだったのですよ」などと言って意味付けを変えようとしたりします。

この時、反駁しようにも気が弱っているので相手に飲み込まれやすい状態となっています。

ということで「相談」によってばかり解決しようとすると、そのような洗脳・マインドコントロールの危険性もあるわけです。

アイツの辻褄合わせ

ただ、そういう現象を自分ではどうにもできないのに、どうしてそれがそうだとわかるのでしょうか。

端的には「どうしてそれが神が与えた試練だということがわかるのか?」ということです。

なぜそんなふうに宗教的な発想ができるのでしょうか?

それは、何かの本で読んだこと、見聞きしたことが、色々と脳の中で合成されるからです。

アイツは辻褄を合わせることが大好きですから、何かの現象の解釈をそれまでの記憶から強引に組み合わせて、「これが答えだ」と提示してきます。

解釈は必要ないのに、解釈する性質があるので、そういう提示をしてきますが、それを飲んでしまったとき、そういうモノにハマってしまいます。そして何かを法則化しようとします。

無理矢理な因果

例えば、「母が病気になった。毎日拝んでいたら治った」というようなことが宗教団体の布教案内に書いてあったりしますが、「治った」だけです。そこに「拝んだから」は関係ありません。

「治った」だけで十分なはずなのに、それに「拝んだから」を関連させようというか法則化しようとします。

これは「何か不都合なことが起こったら、拝めばいいんだ」というような「都合が悪いときに自分にもできる汎用性の高い対応策」が欲しいというようなことです。

「100%の確率」が法則

根底は言うまでもなく不測の事態に対する恐怖心であり妄想です。100%の確率で治ってもらわなければ、それは法則ではありません。

再現性と普遍性を持ったものでないと法則とは呼べません。

「確率が上がる」という逃げ道がありますが、命題の性質上、治るか、治らないか、の二択しかありません。残念ですが、もし一人でも治っていない人がいれば、それは法則ではありません。

ある成分が、何かの細菌を死滅させるというのは法則です。外的環境によりその物質が変化してしまったとか、その細菌が変異している場合は別ですが、ある特定の細菌がある物質によって死滅するのは法則です。そういうことが法則になります。

自発的な意志の原因

しかし、その友人もですが、新興宗教に「自発的な意志で入信した」というものの、要素はたくさんありました。

隙があるときに「一番近くにあったもの」だったという点ですが、いきなりぜんぜん知らない日本の裏側くらいにある新興宗教にハマるでしょうか。存在を知らなければハマることはできません。

たまにインドにハマった人やどこかの島国での原始的宗教にハマった人のように、週刊誌レベルの本に触発されるような人はいますが、必ず知らなければ「自作」するくらいしか新興宗教的なことはできません。つまり「自発的な意志」にも原因が必要であり、その原因は自前のものではありません。

あくまで「人に強制された」とか、「親が入信していて、子供のころからそういう生活だった」というわけではないというだけで、完全にオリジナルではないというようなことになります。

ただ、この言葉の裏には、「親の影響ではなく、自分が客観的にいいと思った」というような自己説得があります。

その時点で知らぬ間に影響を肯定しているようなフシがあり、また、「信じよう」と頑張っているような姿に見えます。

ということで、そうした宗教入信プロセスを見聞きしても、そういうドラマを見ているような気分になるだけです。

洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みた

自発的な意志による苦悩の道徳 曙光 18

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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