底意ある馬鹿げた畏敬

上下関係についてはさんざん書いてきましたが、すこし違ったアプローチをということで、「だからどうした」について触れていきましょう。

昔々の営業先で、はたまた社内で、「自分の旦那はこんなにすごい」とか「うちの会社はこんなにすごい」というような事を話題にしたがる人がいました。

そんな時には、事実というより現在の状態について何か誇らしげに主張しているわけですが、「だからどうした」と言われれば全て終わりです。

それを聞いた相手が、その誇らしげな事柄に感心する隙を持っていなければ「だからどうした」で終わりです。それは僻(ひが)んでいるということではありません。

本当に「だからそれがどうした」です。

僻みとの違い

僻んでいるという感情の状態は、思考の中にそれに対する憧れや畏敬があるはずです。しかしそれが自分の手元にない、しかし相手は持っているという状態で起こるものです。

そういう状態で「だからどうした」と発すると、僻みという感情が現象として起こり得ります。その場合は、その「すごいこと」をすごいことだと思っています。

根底にあるのは恐怖心

そういうふうに思ってしまう原因は、それを根拠に何かをコントロールしたかったり、それを根拠に自分を守ろうとしていたりするからで、やはり根底には恐怖心があります。

自慢のようなことを聞かされた時に、怒りのようなものを感じてしまうのはそのような構図です。相手優勢では困る、というような点がメインで、その他には、見苦しさなども複雑に入り混じっています。

だからどうした

そういう時に「だからどうした」という言葉が自然出てくるときがあります。言葉としてはそれだけですが、その言葉には似て非なる概念のパターンが潜んでいます。

ひとつは「本当にすごいということは、そういうことではなく、こういうことだ」というような、「何かしらのすごいこと」という前提は認めるものの、その枠内で解釈を変えたりすることです。

その解釈の変更も同属性のモノの中で解釈を変える手法から、別属性の「何かすごいこと」にすり替えるものまで変化は多様です。

それらはルサンチマンと呼ばれます。奴隷精神による解釈変更です。恨みや僻みを解消するために基準を変えて解釈変更して自尊心を満たそうとするようなことです。

今の現象には何の関係もないという意味での純粋な「だからどうした」

もう一つは、純粋に「だからどうした」です。それを聞かされたところで、今ある現象には何の関係もありません。

その自慢のような言葉が出てくる前には、相手に何かの記憶や思考があったはずです。しかしそれは記憶から導き出された妄言です。

それを聞かされても、目の前にある現象が何か変わるか、変わりません。喋ることによって空気が揺れたり酸素が二酸化炭素に変わる程度で、本当に自分には関係ありません。

「こう見えてもモテるんだぞ」

だからどうした、です。

「モテるよりも健康なほうが素晴らしい」というようなことは、ルサンチマンですが、単純に「だからどうした」です。

ここまで来たなら、ついでにもっと純化してみましょう。

実際には「うちの旦那は大企業に勤めている」と誰かが発しても、それは、現象としてその空気の振動だけです。

その空気の振動が起こるまでには、様々な原因や条件があります。そしてプロセスもあります。頭の中で思考が巡ったということも原因の一つです。

聴覚がなければただの空気振動です。空気振動を感じる触覚が、空気の動きは感じるかもしれませんが、音は感じません。空気の振動によって視界が少し動くかもしれませんが、音声情報というものは認識できません。

さらに言うと、音声を認識してもそれはその場で間隔なく変化しています。聴き終えた時には、聞いた記憶しかありません。つまり実体はありません。

それを踏まえれば、僻みでもなんでもなく「だからどうした」です。

「だからどうした」と言うまでもなく、だからどうしたです。

底意ある馬鹿げた畏敬 曙光 36

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ