万一の僥倖をたのんでの事だろうか
万一の僥倖をたのんでの事でしょうか、定型文的な営業メールが未だによくやってきます。 まあ営業メールにおいて、調べても出てこないような業務形態のあり方が垣間見れたりするので少し面白かったりはするのですが(めったに体験を語らない)、もうそろそろいい加減にそうした文化は廃れていけばいいと思っています。が、それでも一定数の人が引っかかるからこそ今でもそうした手法が取られているのでしょう。 こうした旨は、数撃ちゃ当たるの発想と営業代行で触れたりしていましたが、最近来たものはもっとひどく、差出人としての名前と、文末の署名欄がバ
磁石に吸い寄せられる鉄片のように
磁石に吸い寄せられる鉄片のように魅力なり何なりに弱い側が強い側に引き寄せられるという感じで考えると、商いでもなんでも結構うまくいったりします。 ただ、そうした魅力のようなもの自体は画一的に決まっているわけではなく、ある人にとっては魅力的に映ってもある人にとっては気持ち悪いものとなりうることもあるという感じになっており、また、ある特定の魅力がさも絶対的なものかのように演出して物を買わせたりしようとする人達もいるので、「魅力」というものについてはよくよく検討しなければなりません(魅力と期待・信用と相対基準)。 他の方向
心をときめかせるに足る珍品
昔から物欲があまりないので、物によって心がときめいたという経験は少ないのですが、やはりなるべく汎用製品ではなく、電気も通わず、手の込んだもので洒落っ気のあるものが良いと思っています。 家電屋さんで買えるものよりも手紙のほうがありがたいという感じになり、代替性がないほうが心ときめくのは当然といえば当然で、それそのものが持つ便利等々の機能がなければ無いほどよいという感じになります。 電子的な通信が一般的となった現代では、いきなり旅先から届いたポストカードですら「心をときめかせるに足る珍品」となりうるようになりました。
見晴しのきく場所は、同時に見られやすい場所でもある
見晴しのきく場所は、同時に見られやすい場所でもあるということなので、高い位置にいる事自体はいいですが、同時にリスクを増やすことにもなります。 何かしら代表となったり、壇上に立って話をしたりすると、「その注目を浴びるはずなのは私だ」というような僻み根性を持った人たちからの反発を浴びることになることがあります。 そのような現象はどの業界でも同じだと思いますが、本来人の成功のようなものと自分の成功のようなものは関係がありません。 まるで唯一でなければならないかのようなその頂点への嫉妬は、認知的な歪みから生じています。 認
食糧分配係
食糧分配係といえば、元祖は鍋奉行、現代では「介護アピール」という感じです。 セキセイインコ等々草食の鳥類における殻付きの穀物と殻剥きの穀物の違い、うさぎにおける牧草とペレットの違いのようなもので、ある種食べやすいということは、食べるということに対する本能的な満足感を低下させてしまうようなものになると思います。 「むきえさ」でも大丈夫ですが、「殻つき」の方が鳥は活き活きしたりします。またうさぎも牧草が無いと怒りやすくなったりします。 食料分配を意図してということなのか、何かの信念に従った独自マナーということなのかはわ
空間の争奪戦
まるで囲碁のように、その空間を占めているものの面積や体積がその人の力を示すような代理構造になっていたりするので、至るところで空間の争奪戦が起こっていたりします。 ― 部屋の中の物はその人の意識の中を示しているフシがあります。少なければ少ないほど重要なものが少なく、重要なものが少ないほど何かの変化に反応することも減るため、結果的に煩いも減っていきます。 意識の中においてもその空間に占めるものがたくさんあり、重要性の高いものがたくさんあるとそれだけ気になることが多いということになるので煩いが起こる可能性が高まってしまい
ちっぽけな誤解の種子
スーツ姿の時とパーカー姿の時で人の対応が違うということについて触れたことがありましたが、そのような感じで、ちょっとした許容や一時的な役割ですら相手に勘違いを生み出してしまうというようなことについて触れていきます。 ちょっとの「許容」や「一時的な役割」といったものは、ちっぽけな誤解の種子となることがあり、良かれと思って選択したそれらは、時に相手の中に邪念を生み出してしまうことがあります。 「聖人君子ならば、何事も広い心で許すだろう」ということは大きな誤りであり、そうした概念を盾に取り、己の怠慢や邪念を正当化するという
こんなふうに淡々と、日常茶飯のように
ある人にとっては難しく、また難しいからこそワクワクするようなことであっても、またある人にとっては日常茶飯のように淡々とこなすことができるものであったりします。 そんな日常茶飯事レベルになった時、当然ながらその余裕さに比例して、それに「なりたい」という気持ちやワクワクは消えていきます。 それがなく渇望している人にとっては、嫉妬や羨望の対象となるものであっても、それを持つ人にとっては「普段、意識すらしない」ということもよくあります。 ただそうして日常茶飯のようなものになったとしても、それに一種の羨望を抱いていた頃から見
寓話の現実化
いつか読んだ寓話が現実となるようなことがたまにあります。 それらはあくまで例えが現実的になるという感じですが、寓話も誰かが創作したものでありながら、その創作においては現実の体験のシーンたちが少なからず反映されているので、別におかしなことでもありません。 そうした印象やシーンにイメージを向けたからこそそれがよく見えるということもありますが、そうした認知的な話だけでなく、「見えやすくなっただけ」という説明だけでは説明しきれない形で物事が実際に起こることがよくあります。 それは概要のみがそろっていて具体的なところは想定外
野生化が進むにつれて
野生化という表現が良いのかどうかはわかりませんが、事業等々どんどん事が進んでいくと実践的で実務的な話ばかりになり市販化されている「それ系の情報源」に触れる機会が減っていきます。 まあもちろん直接的に関係しているものは、継続的に情報に触れることもありますが、「あたかも社長が読んでいるかのような名前の雑誌」などは、そうした人になりたい人たちが読んでいるというのが実情で、本当に社長をしている人は全く読んでいなかったりします。少なくとも僕の周りの社長仲間たちは、そうしたものを読んでいる人はおらず、やはり「若い時に少し読んだ
車窓の外には、原野がひろがっていた
以前、奈良に行った時のことですが、友人に春日山原始林の方に連れて行ってもらったことがあります。春日大社の神山ということで伐採が禁じられていたからこそという感じのようですが、確かに何だか少し雰囲気が違うような気がしました。 ― さて、世の中には「ブルー・オーシャン戦略」として語られることがある経営戦略があります。まあ端的には、競合が多く労力の割に不毛な争いとなるようなレッド・オーシャンを避けて、競合がいない市場に飛び込みましょう戦略という感じです。 ちょっとした視点の変更で、全く競合がいないような市場を生み出すことが
一滴の雨のしずくが、大海の主成分であることに変わりはない
一滴の雨のしずくが、大海の主成分であることに変わりはないように、客観的な世界を仮定した場合、一人ひとりが社会の構成員であるように、言葉、情景といった一つひとつの記憶が膨大な無意識を構成するものであることには変わりありません。 それがどのようなものであれ、いずれ心的複合体として重要度の高いものとして発露することがあります。非常に微細なものであってもいつか何かしらの意図の発生の材料となっているという感じになります。 ひとつの言葉がきっかけとする連想 ひとつの言葉がきっかけとなって凄まじいほどの連想を呼び起こしてしまうと
それに、モデルと言っても
本人にとっては自己顕示欲を始めとする自尊心獲得ゲームとなり、他者にとっては欲を刺激するものとして捉えられがちなモデル等々の職業ですが、経済社会の中ではどうあがいてもそれに携わる人が繰り上がり式などで役割を担うことになります。 世間が求めていないものは需給が成り立たないということになるため、少なからず求めに応じて役割を担う人が必要になってきます。 モデルに限らずですが、そうした属性を持つものを構成する人たちの是非を問うよりも、その人達の心のあり方がどうあるかのほうが大切です。なので、モデルならモデルとして良き心の持ち
無名性によって構成された世界
「名」は何かを区別し、他との分離を引き起こします。それは基本的に便利なものですが、個という執著をもたらすものにもなりえます。 言語を用いない自然界は「無名性によって構成された世界」ですが、それでもやはり視覚や聴覚といった別のベクトルで区別がなされていたりはするでしょう。そんな中でも記憶の組み合わせから起こる言語的な判断が無い分、分離の感覚は少ないと考えることができます。 ― 名があることによって起こることは良いことばかりではありません。名を印籠のように用い、名があることによりより蓋然性が高まる、信憑性があるかのよう
やむをえずつけた符牒
「やむをえずつけた符牒」ということで隠語についてでも触れていきましょう。 世の中にはたくさんの隠語のようなものがありますが、何だかひねりに欠け、バレてしまうのではないかと思ってしまうようなものもたくさんあります。 別にバレてもいいという意図でつけられたものもあると思いますが、中学の同級生の裏ネーム的なものの場合は、バレた途端に喧嘩になってしまったりするので、多段階に変形させて隠語化せざるを得ません。 あまりにストレートなものになるとバレるリスクが高まる上に野暮ったい、ということで、同級生たちは時に個人のひらめきを利
意識的操作を超えたもの
自分が外の世界に反応するのではなく、外の世界が自分に反応する、ということは、認知バイアス等々を用いてある程度論理で説明しようと思えば説明できますが、それだけで捉えられるものではありませんし、あまりそうした事を言うと「表層的な意識とは裏腹なのはなぜだ!」ということになりかねません。 まあ、目覚めが最悪ならば、その最悪具合に応じてその日一日は「不快なものに目が行く」ということになってしまう、と言う程度ならばなんとなく納得がいきますが、そんな最悪の目覚め自体を望んでなどいないというところから考えれば、外の世界が自分に反応
発想の種子の、登場のしてきかたのさりげなさ
どのような表現にしてもその人の内にあるものしか外には出てこないため、どんな組み合わせになるにしても発想の種子に関してもできるだけ多いほうが面白みが増していきます。そんな発想の種子の登場のしてきかたはいつもさりげなく、遠い昔にちらっと見ただけというようなものですら、何の脈略もなくある時ふと何かの起点となったりします。 そういえば、近年「英語教育をなるべく若いうちから」というような流れになってきているようですが、発想にしても思考実験にしても結局は母語たる言語で行うので、それより先に国語の方に力を入れたほうがいいのではな
再びぼくの意識に、たっぷり充電された状態で浮び上がってきた
あまり気にかけなくなった対象やほぼ忘れていたような物事であっても、ふとした時に「再びぼくの意識に、たっぷり充電された状態で浮び上がってきた」といった感じで、より洗練された形で復活してくることがあります。 その中でもとりわけ一度沈みまた浮かび上がってくるもの、それは意欲などになるのではないでしょうか。意欲すら洗練されて復活するという感じです。 やる気や意欲というものは安定しているようなものではなく、ある程度継続的に意欲に燃えているような人でも、小刻みに考えれば案外やる気がない瞬間も結構あったりします。 そんなわけなの
腰をおろして泣いていた
ふと気付けば歩道橋で腰をおろして泣いていたという経験があります。 それは夏の疲れがもたらしたものなのか、ふと気付いた何かしらの虚しさなのかはよくわかりません。 秋風がもたらした愁嘆。 それは何だか体からの本音のような、体が限界にきたからこその悔し涙のような、それよりももっと哲学的な「生きてるって何だろ生きてるって何?」のような雰囲気だったのかもしれません。 その当時、それまで病気で動きが鈍かった分を取り返すように、さまざまな事に奔走していました。それはそれで充実感もあり、また日に日に高まっていくスキルにも移り行く情
厚化粧した廃墟
廃墟というと八幡の通称軍人病院を思い出します。その場所は、尾ひれがついてまた尾ひれが付き軍人病院と呼ばれていました。 なお、現在では立入禁止になっているようです。 心霊現象が絶えないという感じのようですが、おそらく思い込みからやってきているのでしょう。「実際には軍人病院では無かった」という場合に「負傷した兵隊を見た」というのは、辻褄が合いません。ということできっと妄想の産物です。 当時単車に乗っていた僕は、一番最初は単車仲間と複数人でという感じでしたが、その後幾度となく女子に「連れて行って欲しい」と言われ、心霊スポ
ある種の侮蔑
何かを必要以上に保護することは、ある種の侮蔑を意味することになってしまうという構造を持っています。 「〇〇だから大目に見ろ」「〇〇だから仕方がない」というような論調は、その属性を持ちつつも為し得るべきことを成し遂げた人々を侮蔑することにもなります。 そしてそうした達成の可能性をハナから放棄することにもなりかねず、それは俗的表現をすれば自信を獲得することを他者が奪うということになるということでもあります。 ― 環境の差異を考慮できない思慮の浅さ まれに不良や犯罪者が更生すると普通のことをしているだけで評価され、普通の
主人公の最後の叫び
人体の構造上、「いえあおう」の順番で音の出る部分が奥に入っていき、軽々しいものから重々しいものへと変化していきます。 これは、そのまま情報空間に対するもの~物理空間に対するものというバロメーターを示すという感じになっています。「い」なら情報的で意識寄り、「う」なら物理的で肉体寄りといった感じです。 「いえあおう」の順でわかる意識的な叫び~肉体的な叫び 母音が「い」から始まるということは、いわば意識的なものであるという感じになり、「う」から始まれば本当に肉体的な叫びということになります。 腹を殴られて「いっ」とは言い
燃やしてしまった写真
デジタルデータとして残すというのが基本となった現代では、写真を燃やすという行動が未だに個人レベルで起こっているのかはわかりませんが、昔はよく写真を燃やすという描写がよくありました。今それを垣間見れるのは、抗議行動かカラオケのイメージ映像くらいのような気もします(実際にあるのかは知りません)。 そういえば、中学校卒業の頃の話になりますが、「家にあるのは縁起が悪い」という理由などから、卒業アルバムの中の一部の同級生の写真を切り取って燃やすということが流行っていました。 当時、リング等々のホラー映画が流行っていたというこ
共通の話題にしえない運命があったからといって
年齢や地域や日常の生活が異なれば、それだけ同じ話題で盛り上がるという可能性は低くなっていきますし、国が異なれば共通の部分などもっと僅かなものになるので、話の内容がある種原始的になっていきます。 同世代の人達と会う時であっても、十代の時ならば同じような情報に触れていたりするので会話にも困りませんが、今頃となっては社会の中でどう生きてきたかとか、職場という単位を含めてどのようなコミュニティの中に属していたかという差が鮮明になってきます。より深いところの話となると、話も具体的になるので、語彙を含めた話題の共通項がどんどん
どうやら糠喜びにすぎなかった
僕は普段あまり世間的な喜びを感じることがありません。 何かにつけて喜んだとしても、喜びに舞い上がって脇が甘くなって結局失敗したり、誤解したまま喜んで後で事実を知って落胆したり、喜びも束の間自体が急変するということもあります。 ということで「どうやら糠喜びにすぎなかった」ということが起こりうるというのが、理として否が応でも成り立っているので、そうした理から現象を観ているというのが基本になります。 爆発的な喜びに舞い上がることがない それが快楽的なこと、達成的なこと、苦からの解放というようなことという種類を問わず、爆発