懐疑の懐疑
「恰幅のよい頭にとって、懐疑は何というよい枕だろう!」― モンテーニュのこの言葉は、パスカルをいつも憤怒させた。というのは、パスカルほどよい枕をとくにそんなに強く熱望したい人はいなかったからである。だが、何が欠けていたか?― 曙光 46 パスカルは、お父さんの税金の計算が楽になるようにと計算機を作ったり、「一人一台ってのじゃなくて、みんなで共有すれば楽なのに」という発想で、元祖公共交通機関を構想するという、ただ数学者としてのみならずカリスマ的ビジネスセンスを持った人でした。パスカルの定理の人ですね。圧力・応力の単位
認識の悲劇の終幕
以前に書きましたが、認識の悲劇は、がっかりによって終りを迎えます。「最大のがっかり」 「自己犠牲が一番の人間向上の手段であった」と、ニーチェは触れていますが、今でもよくブラック企業などはそんなことを言います。 何のために自己犠牲ということをしてしまうのでしょうか。おそらくその点については触れられること無く、自己犠牲の先に「何かの意志に適う」ということを盲信しているという構図です。 自己犠牲の精神からの脱却 認識の悲劇の終幕ということで自己犠牲の力とがっかりについてから進めていこうと思います。 自己犠牲の力と「がっか
起源と意義
起源を知り、それを前提として考えることはあまり勧められたものではありません。まさにその「起源」というものに依存し、その方向性からしか物事見れなくなります。ただ、進化するにつれて元々の意義を忘れすぎな局面も、現代では絶えません。 起源と意義ということで、そうした物事の「起源」をあまりに推し進めることは単なる文化の名を借りた意識的な結界であると思っています。 といっても、物事をよくよく見渡してみると、ほとんどの事が過去に出尽くしているというのは否めません。しかしだからといって、古人や起源が素晴らしいというのは、ナンセン
どれほどの力が現在思想家の中に集まらねばならぬか
考古学者や国語学者という言葉を見ても「ああそうですか」という感じがしますが、なぜか「哲学者」という言葉を見たときには違和感を感じます。 同様に、陶芸家、噺家、という言葉を見てもなんとも思いませんが、「思想家」という言葉には「関わらないほうがよさそう」という感じがします。 哲学や思想 その原因は、哲学や思想が人生の根幹に関わりそうな事柄だからでしょう。テレビ番組を見るような感覚でその場の楽しみとしては聞き流せないような事柄を取り扱っているからこそ、変な感じがします。 その変な感じには、やはり「学問なのか?」というよう
観想的な生活の由来
ふっと思うことを「観る」というか観察することはいいですが、一歩間違えればそこに何かを結びつけようとします。 そういう癖は太古の昔であれば原始的宗教と言われるもののように、自分たちが把握できない対象についての畏怖から想起されたと思いますが、現代では、ありふれた情報によって「つじつまを合わせよう」とするアイツ働きによってそれは完成されます。 「観想的な生活の由来」ということで、観想という言葉などから見ていきましょう。 観想という言葉 観想という言葉は、仏教的、神学的、古代ギリシャ的な分類によって言葉としてはさまざまな取
観想的な生活の評価のために
―結局学問はやはり万人に対して非常に利益になるものになった。この利益のために現在実践的な生活を営むように予定された極めて多くの人々が、その顔に汗し、しかもずいぶん頭を悩まし、呪いながら、学問への道を歩んでいるが、しかしそのような労苦は思想家や学問研究者の群の責任では全くない。それは「自家製の苦労」なのである。 曙光 41 苦労というものはすべて自家製です。自家製なのですが、その原因を外部的に作り出す人も外から見れば確かにいます。すべて自家製だからといってほかの人が何もやっていないかというとそうではありません。 苦労
習慣の穿鑿
穿鑿は「せんさく」と読むそうです。穿(うが)ち、穴を掘ること、から根掘り葉掘りというような意味合いで使われるようですが、「刷新」という言葉を使って普通に生きていてはあまり使わない単語を見せて「なんだかすごい」というような関心を引き寄せようとするようなことで、「読めへんよ」と一瞬感情を沸き起こさせることが目的ですから、あまり気にしてはいけません。 字は違いますが、「詮索する」も「根掘り葉掘り詮索する」という風に使われるように、穿鑿も「根掘り葉掘り穿鑿する」という感じになるのでしょう。 詮索と穿鑿 ただ、印象として詮索
「純粋な精神」の偏見
純粋な精神、純粋な人、そういう時に使われる「純粋」は、純粋ではなく愚かなだけの可能性が高いでしょう。無知が一番の元凶と言われますが当然です。 ここでいう無知は、「日本語を知らない」とか「テストの点が悪い」とかいうものではありません。純粋すらアイツに利用されます。 そういう観念、ラベリングがあると、「純粋、あるがまま」といっても、キャンバスにペンキをぐちゃぐちゃに塗って「何にもとらわれない芸術」という結果を生み出す原因になります。 無知と純粋 じゃあ何が無知なのか。何が純粋ではないのか、ということに疑問が出てくるでし
道徳的な判断によって変形された衝動
ニーチェはとにかくキリスト教を筆頭に、宗教的な前提を否定することが大好きで、道徳という言葉を使う場合、そのほとんどは古代ギリシャやキリスト教的な前提をさしていて、ひたすらそれを目の敵にしています(対象はイエスではなくキリスト教会などです)。それほどまでに想像を絶するほどに西洋文化にはその影響が隅々にまで及んでいたのでしょう。 「道徳的な判断によって変形された衝動」ということで、宗教的な前提や考え方の影響が本質的な理(ことわり)の理解の邪魔をするという点についてでも書いていきましょう。 何かしらの宗教的な前提や立場的
効用からの誤った推論
守護霊が見えたから、やっぱり守護霊はいるんだ、というような事を本気で信じている人がいますが、そういうことはやめておいたほうがいいでしょう。 やめろといってもどうせそのままは聞き入れないことくらいはわかっていますから、やめておいたほうがいい、というふうに言っておきますが、それは存在を肯定しているわけではない、ということは断言しておきます。 「それを守護霊と呼ぼうが構わない」という類ではありません。「時にそれは魂や真我と呼ばれるが、その人には守護霊というふうに出てきた」というような類ではないということです。そんなものは
底意ある馬鹿げた畏敬
上下関係についてはさんざん書いてきましたが、すこし違ったアプローチをということで、「だからどうした」について触れていきましょう。 昔々の営業先で、はたまた社内で、「自分の旦那はこんなにすごい」とか「うちの会社はこんなにすごい」というような事を話題にしたがる人がいました。 そんな時には、事実というより現在の状態について何か誇らしげに主張しているわけですが、「だからどうした」と言われれば全て終わりです。 それを聞いた相手が、その誇らしげな事柄に感心する隙を持っていなければ「だからどうした」で終わりです。それは僻(ひが)
感情とその判断からの由来
「君の感情を信頼せよ!」― しかし感情は最後のものでも最初のものでもない。感情の背後には判断と評価があり、それらは感情(傾向、嫌悪)の形をとってわれわれに遺伝している。 曙光35 感情は今の状態の一つの指針で、「その場」に限って言えばそれが全てみたいなものですが、それはすぐに流れていきます。 たまたま訪れた感情にも、その原因があります。その原因を目にも止まらぬ速度で判断して評価しています。 そしてその感情の原因は信念であり、固定観念です。それに現象としての条件が整った時にある種の感情が湧いてきます。 「席を譲れ」と
道徳的な感情と道徳的な概念
これだけ道徳、道徳、と繰り返していては、道徳が好きなのかと思われそうですが、繰り返したくないのに繰り返さざるを得ない、これが特別企画の醍醐味です。 道徳の厄介なところは、それを教え込まれてきたから信じ込んでいる、という側面を持ちつつも、その要素に気持ちがスッキリするというものが含まれている点です。また、社会的に見た時にはそれが妥当、というようなことも含まれているので、取り扱いが難しかったりします。 そういうわけで「道徳教育の難しさ」と「いじめ防止」について触れていきましょう。 道徳教育の難しさ 道徳教育を行おうと思
原因や結果や現実の軽蔑
結局現実的なものは、それが象徴でありうるかぎりにおいてのみ、まだ価値があるのだと考える。こうして人間は風習の倫理に威圧されて、第一に原因、第二に結果、第三に現実を軽蔑し、すべての彼の高級な感覚(畏敬や、崇高や、誇りや、感謝や、愛の感覚)を、想像された世界、いわゆる高級な世界と紡ぎあわせる。そしてやはり今日でもわれわれは、人間の感情が昂まる場合には、何らかの方法であの想像された世界が働く、という結果を見るのである。悲しいことである。しかしいつかは学問的な人間にとってすべての高級な感情が疑わしくなるに違いない。 曙光3
輪止め
道徳的に苦しみ、その上この種の苦しみの根底には誤謬があると聞くこと、これは癪にさわることである。 ― 道徳の新しい理解を阻止するものは、誇りであり、誇りを満足させる習慣的なやり方である。 曙光 32 省略しましたが、ニーチェは曙光のこの箇所(曙光32)で苦行ジャンキーについて触れています。 苦行を筆頭に、「苦しめばカルマが消える」「体を厭い痛めつければ浄化される」という思想から「努力そのものを賞賛する」といったものまで、苦しみや忍耐、自己犠牲を美徳とするものはこの世にたくさんあります。 そして「苦しむ」、「忍耐する
精神に対する誇り
「誇り」というものは、勝手に内側にとどめておくか、第三者への賞賛の場合に使うようなものです。この言葉の使い方を間違えれば、誇りはただの優越感であり、高慢であり、後ろめたさへの自己説得になってしまいます。 本来自分自身が持つ誇りは、自分自身で納得しておくようなものです。また、誰かを勇気づける時に用いたりするという場合もあるでしょう。しかし「これが私の誇りである」と言い放ちつつ、誇りを卑怯な手段として利用する人たちもいます。 ということで「誇り」と称する傲り、強がりのような、優越感、高慢、後ろめたさへの自己説得について
徳としての高尚な残酷さ
優越への衝動に全く依存している道徳がここにある。― それをあまり立派だと考えてはならない。 ― まさしく彼が自分の残酷さをぶちまげてやりたいと思うある人々がいる。そこに偉大な芸術家がいる。彼が偉大になるまでは、征服される競争者の嫉妬心を痛切に感じる快楽が、彼の力を眠らせなかったのだ。― 偉大になるために、彼は他の人々にどんなに多くつらい瞬間を支払わせたことだろう!修道女の純潔。彼女は何という非難のこもった眼差しで、違った生活の女性を真面(まとも)に見ることだろう!この眼差しには何と多くの復讐の快感があることだろう!
徳の俳優と罪の俳優
演劇などを見せられると、感動するどころか「寒気」がしてしまいます。特に売れない劇団が何か地域の催し物で無償で舞台などをしていると本当に鳥肌が立ちます。 全てのタイプの演劇というわけではないのですが、もう個人的にはあの演劇中の「しらこさ」には体感レベルで耐えきれない自分がいます。 そうした演劇、お芝居の寒さは、「見ているこちらが恥ずかしい」という類のものですが、その寒さをどこまで究極的に楽しんでしまうか、というのが以前ひとつのテーマでした。 演劇用の喋り方に寒気 排除したいという気持ちは「怒り」ということになっている
論拠としての気分
昔までは、約束の時間に1分でも遅刻する人を嫌っていました。 完璧主義というわけではないのですが、そういう人がどういう神経をしているのかわかりませんでした。そして、盗人にも三分の理ということで、どういうことか真剣に考えたことがあります。 すると訳を聞くと「楽しみに来ているのに、そういう細かいことを言われると気分が台無しになる」というものでした。 また、「仕事や遊びの局面で、最高のパフォーマンスを出したい」というものでした。 「相手の都合はお構いなしかい」 ということになりますが、これらの「盗人にも三分の理」を真剣に考
超人的な情熱に対する信仰のもつ価値
―突然で一度だけの約束から永遠の義務を調達した、制度や風習のことを考えるがよい。そのたびごとに、そのような改造によって極めて多くの欺瞞と嘘が生まれた。また、そのたびごとに、しかもこのような犠牲をはらって、新しい超人的な、人間を高める概念が生まれた。 曙光 27 嘘をつかねばならなくなるなら、原則的に約束はしてはいけません。 ただ、約束をした時点ではわからなかったことが追々わかってくることがあります。その時に約束を守ることを重点に置いてしまうと、ウソをつかなければならなくなります。 最もよい約束の仕方 約束といえば、
動物と道徳
拝金主義というのはどこまでも拝金主義に徹していきます。だからこそ一部の動物を「経済動物」という呼び方をしたりします。 経済動物という表現は、つまり「儲かればいい」であり、「儲けもできない上に、金がかかるなら殺す」です。 疚しさに対しての自己説得でしかなく、動物に対して経済動物や産業動物という呼称を用いる人間にロクな人間はいません。 経済動物という言葉 経済動物という言葉は、若干の疚しさを持ちながらも、「自分はいい人だと信じたい」という時に自己説得を行う場合に用いられます。 動物も懸命に生きています。 自然界のルール
風習と美
握手というものは、万国共通だということを聞きますが、ネパールで友人のお兄さんに初めて会った時に、右手で握手して、さらにいつもの癖で左手を添えると怪訝な顔をされました。 インドやネパール等々、一応あの文化圏では、左手は不浄の手とされていて、トイレに行った時でもトイレットペーパーなどを使わずに、原則左手で洗うようですから、確かに怪訝な顔をされるのはわかるような話です。 が、握手の際に怪訝な顔をしてしまうくらいなら、そんなこだわりというか風習はやめたほうがいいのではないでしょうか。 嫌な気分発動条件 それは文化の押しつけ
命令の証明
一般にある命令 ―の良し悪しは ―それが厳密に実行されたとして、その命令の中で約束された結果が生じるか、生じないかによって証明される。 道徳的な命令の場合は― ほかならぬ結果が見通されえないものであり、あるいは解釈しうるものであり、曖昧である― この命令は、全く学問的価値に乏しい仮説に依存しており、この仮説の証明と反駁とは、結果からでは、根本的に同様に不可能である。 曙光 24 抜粋 毎日何かに拝んでいて、しばらくして病気が治った、と。 しかしながら病気が治ったことを根拠に「拝んだから治った」といっても何の証明にな
われわれのどこが最も精巧であるか
自律訓練法というものをやったことのある人は経験があると思いますが、思うだけで本当に手が温かくなったりします。そう感じるだけでなく本当に温かくなるのだから、錯覚でも何でもありません。 自律訓練法は、右手が重いと意識するだけで本当に重く感じてくる、右手が温かいと意識すれば、右手が本当に温かく感じられ、実際に体温も上がったりするというようなものです。それを両手両足でやったり、「頭が涼しい」というような感じで進めていくものです。詳しいやり方は調べればすぐに見つかると思います。 自分の意図した時間に起きる それをさらに進める
仕事と信仰
依然として新教徒の教師たちによって、一切はただ信仰次第であり、仕事は信仰から必然的に出てくるはずであるというあの根本的な誤謬が植え付けられている。 曙光 22 仕事と信仰ということで、信念として持っていることや信仰として持っていること、そして話していることなどと仕事内容に矛盾があるケースについて思うことがありますので、そんな感じで書いていきます。 特に職業として宗教関連の仕事(?)をしている人は、言動の不一致など、信仰と行動との矛盾を感じないのかということをよく思います。 職業としての宗教家であれば、普段儀式的なこ