人との深い関わり

思えば幼少期から人と深い関わりを持つことが多いなぁというようなことを思ったりします。しかし最近ではほとんどそんな深い関わりが生じることがありません。

人と深く関わって良かったこともあれば、さんざんだったということもあります。

さんざんだったことも数多くありますが、それなりに良い経験になっているので、振り返れば「良かった」というようなことも思います。

人と深く関わってしまう理由

なぜそんなに人と深く関わってしまうのかという点ですが、ひとつは「なるべく友だちになろうとする気質があること」であり、一つは、「人の深い部分を観るのが面白い」というような半分興味本位なところがあるといったものになります。

その他にも、元々被暗示性が高い傾向にあるので、相手の空間に入り込みやすいというような点もあると思います。

相手に飲み込まれていたような記憶

今では、相手の空間に入っても「当事者・傍観者の並列視点」なので、飲み込まれることはありません。しかしながら、昔、特に中学生~20代前後くらいの時は、半分以上相手に飲み込まれていたような気がします。

つまりそれは、一歩間違えると危ない思想等々に感染していた可能性もあったということになります。

しかしながら、出会う人、出会う人のレベルがそれほどだったので、危ないものには感染せずに済んだような気がします。

また、安全装置とでも言うべきか、行き過ぎるとフッと我に返るようなリミッターがどこかにあります。

なので、それほど何か損害を受けたということはありませんが、相手を思うばかりに遠回りなことをたくさんしたような気がします。

現実的な構造が立体的に見える

ふとした時に、現実的な構造が立体的に見えたりします。

何かしらの感情により多少気が狂れているという事実も見えながら、様々な関係性の構造が見えてきたりします。そして、客観的に見ると構造としてどうしてもそれは自分のためにならないというようなことがパッと見えるような感じです。

深く関わらないと奥底が見えない

「人の深い部分を観るのが面白い」ということに関してですが、最初からそのつもりでいたわけではなく、ある程度深く関わっていると、意外な部分がたくさん見えてきたので、それを面白いと思っていくようになったというのが本当のところです。

表面的な付き合いであれば、普通に見える人たちも、奥底では意外な部分があれやこれやとたくさん出てきます。

何の問題もない平凡さを見つけるほうが難しいくらいです。

ただ、やはり浅い付き合いの場合はそうした部分が見えません。なので平々凡々と過ごしているふうに見えたりします。

ただ、あまりに関わりすぎると、ようやく見つけた居所感が出てきて面倒なことになったりする場合があります。そうした居所感くらいまではいいですが、依存やコントロール対象にしてこようとするような場合です。

依存やコントロール欲が生じる

それはつまり、人生を支えてもらおうとする依存や一種の自己実現のためのコントロール欲が生じるということになり、双方に良い結果をもたらさないという感じになっていきます。

軽いところで言えば、話が自己中心的な自慢や憐れみ乞いのような愚痴ばかりの人は、話を聞く側としては嫌になってくるので、周りから人が去っていきます。欠落した自尊心の充足を他人に委ねている感があるからです。

そんな人が「自分の話を聞いてくれる」と思ったら、今までの分を取り返すかのようにガンガン話をしてきます。そして自尊心充足の成功法則として、すごい頻度で話しにやってきたりするわけです。

何かしら深い部分の自己開示があった場合、それを平然と受け容れるのはいいですが、相手としては「受け容れてもらえた」と思い、それまでの抑圧分をすべて解放するかのように行き過ぎな絡みをしてくる場合があります。

個人的には大抵のことには驚かず、引きもしないという感じなので、それが珍しいのか相手は「受け容れられたこと」に驚き、それからどんどん行き過ぎな絡みへと発展していったりすることがよくありました。

他の投稿で触れていますが、複数回の宗教勧誘を筆頭に、というような感じです。

「もうさんざんだ」と思った時

それぞれの過去のエピソードや何かしらの性質には驚きませんが、変に依存対象となると厄介になったりします。

そんなことを思ったのは20代前半の頃です。

それより以前の十代後半の頃くらいから、宗教勧誘や「彼女に彼女がいた」というような経験をしましたが、まだまだそんな人達とも「なんとかやっていければなぁ」とか、「本当に気にして排除すべき問題なのだろうか?」とかそうしたことをまあまあ真剣に考えて、考えている途中だったので嫌といえば嫌であり、問題といえば問題ではありながら、「もうさんざんだ」というようなことはそれほど思いませんでした。

ただ、20代前半の頃、一方的に好きになられた子に(つまり、僕としてはフッた側ということになります)、目の前で手首を切られたり、それを止めようとして自分の指を切ってしまった時、「もうさんざんだ。懲り懲りだ」というようなことを本気で思ってしまいました。

その時から「行き過ぎるとフッと我に返るようなリミッター」がはっきりと生じました。という意味では、ある意味で良い経験です。

僕としては、一応誰でもその人には幸せでいて欲しいと思いますが、その条件として僕を設定されるのはゴメンです。

一般的な認識としての愛にしても、双方が幸せになれないのならば成立しません。

苦し紛れに脅しをするような付き合いは、愛ではなく依存であり執著です。

というようなことを思い、伝え、その後もう一度少しだけ会って、それっきりとなりました。

幾度となく、連絡は無視しました。

そんなことはしたくありません。

しかしそうする他ありません。

そうする他無いような状況など望んでもいません。

でもそうするしかありませんでした。

相手の空間に飲み込まれると調子を崩す

Category:miscellaneous notes 雑記

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