最初から出ていた答え

遡って色々と振り返ってみると、最初からいきなり答えが出ていたというようなことが数多くあります。

そうしたことが多いので、今でも直感に従うことがよくあります。

世の中では「努力」についていろいろなことが言われていて「努力は絶対に必要だ」というような脳筋から、「努力は不要であり、嫌々する努力は逆効果」というようなものまでたくさんあります。

それは努力必要論、不要論の範疇に入りますが、それ以外にも、「努力というものでは何ともならない領域のもの」についてのお話もあります。才能が云々というものではなく、「努力とは別領域」といったようなものです。しかしそれはあまり語られません。

努力が通用しない領域

最もわかりやすいものは「仲の良さ」というようなものではないでしょうか。相手に対して何かしらを努力してできるような友達は、友達ではありません。友達というものは自然にできます。

そしてなるべく自然体でいる中で仲が良いというのが親友を作ります。

それと同じように、男女の仲においても「努力」では何ともならない部分があります。破綻しかけている時にどんな努力をしても効きませんし、いいところフラットくらいの関係に持ち込むくらいがせいぜいです。

ということで、努力でなんとかなるのは、喧嘩をせずに人間対人間として一応話せる程度までであり、努力で相思相愛になれるわけではなく、友情においても努力で親友になるわけでもありません。

相手が努力していると思うと、努力されている方は苦しくなります。もちろん努力している側もどこかしら無理をしているので苦しいはずです。

相性や才能の領域であると見切る

こうしたものは相性の問題であり、才能とはまた異なったものではあるものの、一種の先天的(といっても一応後天的)なものになりそうな感じです。

それを無理やりどうこうしようとするか、相性や才能の領域であると見切るかという感じになりますが、見切った上で考える方が賢明です。

努力でなんとかなるようなものなのかどうか、なんとかなるとして、いける範囲はどのあたりまでか、というようなことを考えずに猛進してもロクなことにはなりません。

見切る力については後天的に誰でも持ち得る能力となります。

そしてそれは経験則的に得ていくこともできますが、直感により勝手に気づくこともあります。

いけるときは、あまり根拠なしに「いける」と直感づくものです。それは超高性能である無意識による判断であり、表面的な意識よりも精度が高いものとなっています。

そしてそんな自然な感じの時は、なぜだかは説明がつかないほどツキが連続して、本当にその通りになったりします。

最初に一人でいった女子の家

そういえば人生で初めて一人で女子の家に行った時のことです。中学二年生でした。

そうなると思春期の真っ只中であり、一対一で女子の部屋となると鼻息も荒くなり、当然に興奮しそうなものですが、意外と自然な感じがしました。

「飲み物を用意してくれる」という男子同士ではありえないような感じで、紅茶を出され、「へぇ~これが女子かぁ~」とガチョウの雪雄のような顔をしていた程度だった思います。

なんだか最初から家族のような感じがしてしまいました。

ということで、特に何にもならなかったのですが、男女の感覚としてはこの感覚が一番自然で理想的な感じなのだということを直感的に理解しました。

その後、青い春が訪れ、様々な方々と様々な経験をしましたが、振り返るとやはりその感覚が正しかったということを思います。

特に興奮もなく、それでも部屋の中に差し込む陽の光の暖かさが全体を包み込んでいるような、ふんわりした感覚です。

Category:miscellaneous notes 雑記

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