反省と少しの勇気と決意

小説や楽曲、映画、アニメ等々においても、なんだかんだで好きな物語には特徴があります。

それは「今の自分よりも立派な人間になろう」というような反省と、そうなるべく起こる少しの勇気や決断、決意が含まれているようなものです。

ドラえもんの中でもたまにあるような感じですし、藤子・F・不二雄氏は「のび太にはひとつだけいいところがあります。それはたまに反省して立派な人間になろうと思ったりするところです」と言ったような感じで示されたりしています。それと同じような要素があるものを僕は好む傾向にあります。

というわけで、児童文学に分類されるようなもの、とりわけ12歳位の主人公が、少しだけ「大人」を決意するようなものが好きだったりします。それが同性である男子であればなおさら好きになってしまいます。

反省と少しの勇気と決意という面で言えば、となりのトトロもそれを感じる作品になると思います。メイがトウモコロシことトウモロコシを抱えて意気込む瞬間です。

また、みどりのマキバオーも、それぞれの立ち位置で、それぞれの精神的成長の姿が含まれていたりします。

「今の自分よりも立派な人間になろう」

「立派な人間」というのがいったいどういったものなのかを定義することは難しい面がありますが、難しく考えると難しくなるだけで、少年少女は感覚的に、また、直感的にそれを理解しているような、そんな感じがしてしまいます。

「考えたこと」や「思いついた方法」は間違っていることもあるかもしれませんが、そうした部分はさして重要ではありません。

「今の自分よりも立派な人間になろう」という反省と、何かに立ち向かう少しの勇気と、今回ばかりは折れないぞ、やってやるぞというような決意が大切です。

「保護される存在から自立した存在へ」という過渡期に起こる精神の変化はとても面白みがあります。

どこかの時期での「何か」をクリアしているかどうか

それがくっきり出るひとつのタイミングは、第二次性徴期に差し掛かる小学校高学年くらいですが、それ以外にもたくさんの時期で、その時期なりの試練や反省や決意があったりします。

「保護者の付き添い無しで、夜に一人でトイレに行く」といったことを始め、「勇気を出してデートに誘う」といったものまでたくさんの試練があります。

大人になって、周りの大人を見渡すと「どこかの時期での何かをまだクリアしていない」というような印象を受けることがあります。

印象的なものですが、能力的には起業して社長も務まりそうな人が、グズグズと思いだけを抱きながら勤め人を続けているという感じも、そんな「どこかの時期での何かをクリアしたかどうか」の差だけという感じがしてしまいます。

本当に紙一重の差にしか見えない感じがしてしまいます。

婚活に勤しみつつ、まったく進展がない人たちも同じようなものだと思います。うまくいくかどうかは数値化できるようなスペックのようなものではなく、精神の上での「どこかの時期での何か」をまだクリアしているかどうかだけであると思います。

一旦それが成り立っても破綻することが多い

稀にそうしたものをパスしても、一旦それが成り立つ場合があります。しかしたいていは破綻したりします。

基礎のない家のようなものですから、特に災害がなければ大丈夫そうではあるものの、災害が起こると一発で倒れる、といったようなものになるでしょう。

実力も無く、決意もないような、二代目三代目の道楽事業主などはその典型例です(「時代に適さない環境」を時代に適したものに変化させていったりしなければならないので、本来は事業を引き継ぐほうが難しいはずです。ただ、競合がいないような狭い業界や地盤が固められている企業においては、形の上では成り立ってしまう場合もあります)。

また、立派かどうかは別問題ですが、猟奇的な作品でもある「冷たい熱帯魚(R18+)」における主人公「社本」の精神の変化も「クリア」という面においてはひとつの要素として捉えることができると思います。

間違っていたとしても「少しの勇気」

能力として「できるかどうか」は魅力にはさほど関係ありません。

また、「理屈で考えれば別にどうってことはないだろう」と思って平気でクリアしてしまう人も世の中にはいますが、重要なのは、間違っていたとしても「少しの勇気」を持つかどうかというような点になります。

その間違いと恥を恐れて「デートの誘いに応じない」ということを繰り返して、運命の人を待ったところで時間だけが過ぎていきます。

間違いと恥を恐れて、自分とピッタリの事業が見つかることを祈っても、見つけた後に決断をしなければ、起業は空想だけで終わります。

「さようなら、ドラえもん」において、ドラえもんが未来に帰る時、のび太くんは思いだけを秘めて何もしなかったわけではありません。行動として適切だったかどうかはさておき、ドラえもんへの思いが溢れて、勇気を持ったわけです。

その精神のあり方が、僕を「鼻水ズルズル」にしてしまうという感じになります(僕のもとに帰ってきたドラえもん)。やはりどう考えても「さようなら、ドラえもん」は、史上最高傑作であると思ってしまいます(至高の芸術

最高傑作はドラえもんであるとしても…

それが自分を少し大人にしてくれるような気がして、意味なく暗い夜道を歩くような、そんな児童文学が大好きです。

「一時的な興奮では乗り越えられそうもない、そんな継続しつづける不安を乗り越えなければ、この先には進めないのか…」「理屈ばかりで情けないなぁ…」と思いながら、それでも前に進もうとするような、そんな20代の気持ちを描写したような曲も大好きです。

大切な存在がいるからこそ

「今の自分よりも立派な人間になろう」と思う時、そこにはたいてい大切な人がいます(もちろん人だけではなくそれは動物かもしれません)。

それは父や母かもしれませんし、おじいちゃんやおばあちゃんかもしれません。恩師かもしれませんし、兄や姉、弟や妹かもしれません。彼氏・彼女、夫や妻、我が子や孫という場合も多々あるでしょう。もしかすると存命ではない場合もあります。

その対象が誰かはわかりませんが、たいていは目に浮かぶはずです。

そんな人を思い浮かべながら、「今の自分よりも立派な人間になろう」と思い、反省と少しの勇気と決意をなす人が素敵でないわけがありません。

それがくすぐったく描写されるようなそんな作品が大好きです。

Category:miscellaneous notes 雑記

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