カルトの定義

カルト(cult)とは、もともと熱狂的な崇拝を意味し、一種の原理や哲学に基づいた儀式、行動様式などを意味するような言葉になりますが、現代では反社会的な破壊的カルト集団を指す場合に用いられたりします。

カルトの定義としては、次のようなものになります。

精神の安定のために、絶対性を持たない原理に執著し、原理やそれと関連する人物、概念を熱狂的に崇拝すること。ならびにその崇拝対象がもたらす空間、組織。

熱狂的崇拝によって精神の安定を図るため、その主義、思想、哲学に沿わないものに対しては排他的になり、時に攻撃対象とすること。

語の詳細等々、より詳しい定義については後述します。

カルトの代表例はカルト宗教ですが、対象が人物であれなにかの主義のようなものであれ「熱狂的崇拝」という面で考えればその範囲は広がります。こうしたことから、カルト宗教の他、政治カルト、商業カルト、教育カルトといった分類があります。

カルトの分類

カルトの分類等々は、他の投稿で少し触れていましたが、再掲し、より深く触れていくことにします。

「カルト」には分類として宗教カルト、政治カルト、マルチネットワークなどの商業カルト、そして自己啓発セミナーなどの教育カルトなどがあります。

カルト宗教

カルト宗教というと、新興宗教とか原理主義などを意味しそうですが、人を傷つけ人生を台無しにするような洗脳搾取宗教や、原理主義過激派のようなテロリスト集団は破壊的カルト宗教として若干呼称を変える必要があります。

また、強制的な洗脳までいかなくても様々なマインドコントロールを行っているところについては洗脳カルト宗教と呼ぶにふさわしいでしょう。

しかし、何をもってカルト宗教とするかについては、一種の原理主義的な崇拝、信仰があればそれはカルトですし、僕から言わせると霊魂とか天国地獄を持ち出す霊感商法まがいの宗教法人などを含めて、世間一般の宗教の全てがカルト宗教です。

文化や風習などと言いながら、形而上学的領域、存在論的領域で人々を脅し、金銭を払わせたり行動をコントロールするような団体は、胡散臭い占い師や霊媒師、スピリチュアリストを含めて全てカルト宗教とみなして良いでしょう。

なお、カルト宗教は、その宗教の教義以外のものを信仰しているもの=「カルト」というような定義をしていたりします。

政治カルト

政治カルトとは、ナチス・ドイツのような熱狂的崇拝を伴った政党がわかりやすいですが、よくわからない主義に固執し、精神の安定を欠いているものは政治カルトと呼ぶにふさわしい形となっています。何かと「理想社会」を結びつけて固執するというのも一種の政治カルトであると考えることができます。

商業カルト

商業カルトとは、マルチネットワーク、マルチ商法に代表される、「理想の生活」を夢見させ、洗脳、マインドコントロールによって、交友関係や資産を喰らい尽くすような団体を指します。

マルチ商法(MLM)と洗脳

創業者への崇拝のようなマインドコントロールを伴ったブラック企業なども一種の商業カルトと呼ぶことができます。こうした点で考えれば、異常なまでに企業に忠誠を誓わせる大企業も一種の商業カルトであると考えて差し支えありません。

教育カルト

自己啓発セミナーなどに代表されるのが教育カルトです。

商業カルトに近い構造を持っていたり、それと併せて組織が形成されていたりする場合も多くあります。商業カルトよりは、より個人的になるのかもしれません。「できる自分」や「魂の解放」などと銘打って、セミナー、書籍購入、他の参加者の勧誘等々、人を奴隷化して収益を上げようとする団体が代表例です。

カルトの定義における「絶対性を持たない原理への執著」

熱狂的崇拝、熱狂的支持という点については、イメージを持ちやすいと思いますが、問題となりそうなのが、この「絶対性を持たない原理への執著」という点であると思います。

「思想信条の自由であったり、個人的な宗教観、一種の原理の選択はその人の自由じゃないか」

というのが世間一般の感覚になると思います。

しかしながら、絶対性を持ち得ないものというものはたくさんあります。確認が取れないため、反証もできないものの、それ自体の絶対性も保証し得ないというような構造のものであり、宗教の教義や主義、思想などがそれにあたります。普遍的な「理」に対して、解釈可能性のあるものすべてが、絶対性を持ち得ないものです。

「真理」と「真理とは呼べないもの」

宗教空間においては真理とされているものでも、絶対性を持たないものはたくさんあります。

ただ、絶対性を持ち得ない仮止めのものであっても、「ある空間における原理」「ひとつの解釈の仕方」が精神の働きに作用する場合があります。

「空」でありながら実在するかのように働く機能

その効用だけに着目し、その人の中では絶対的な真理かのようになっていくというのが本当のところです。

そして、そうした選択可能な領域での「仮説としての原理」が正しいと思っていても、結局、絶対性を持たないものは変更することもできてしまうというような感じになっています。

信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造

なので、僕から言わせると、絶対性を持たないものに対する固執があれば全て「カルト」です。

熱狂的崇拝の理由

なぜ、熱狂的崇拝が起こるのか、という理由ですが「それが精神の安定のために機能するから」というところが一番わかりやすいのではないでしょうか。

カルト宗教にしても政治、商業、教育カルトにしても、洗脳、マインドコントロールの要素があったとしても何かしら「それを選ぶ、その空間に入る」ということが、心地よいからこそ、その空間にいるわけです。

親子の絆として、鬱憤晴らしとして、自尊心の欠落を補ってくれるものとして、現実生活からの逃避として等々、理由は様々ですが、熱狂的崇拝によって、それ無しの状態よりも良いと思っているからこそそれを選んでいるという感じになっています。

ただ、それは体感的に快い、心地よいというだけで、その教義や主義、原理、空間そのものの正しさを証明するものではありません。

もちろん心地よいと言っても、「崇拝前よりはマシ」という程度で、かなりのマイナスが、若干マイナスになったという「変化」を捉えている程度だったりもします。

そして、そうした心地よさの成功法則を否定されると困るので、主義や信条に反することを言う人達を攻撃したりするというような感じになっています。

つまり、主義、思想、哲学に沿わないものに対しては排他的になり、時に攻撃対象とする要因は、「精神の安定のため」であり、自身の成功法則を維持したいというような理由からということになります。

絶対性は持ち得ないもののそうした「一種の原理」を保っておかないと、精神が揺れ動き不快感が走るという程度です。

具体的なものを抽象化していくとある原理に固執することが異常に見える

ここでは宗教を例にしますが、ある狭義では「天使の力」で、ある狭義では「如来の力で」という感じで「病が治る」というようなことを説いていたとしましょう。

カルト的な発想では「どちらが正しいか?」となり、「自分たちが正しい」ということになります。近視眼的です。

しかし、それらを少し抽象化すると、「何かしら目に見えないような存在の力で病が治る」というようなことになります。

そうなると、気功のようなもの、偽薬効果といったものから「笑うと免疫が上がる」というようなものまで対象となります。

「いや、私には天使が見える」と一方は言い、「いや、私には如来が見える」ともう一方は言うでしょう。

しかし、違法薬物で「見える」ということも起こりますし、夢の中でならドラえもんにもブラックジャックにも会うことができるように、見えたからと言って実在する根拠にはなりません。

ということは、「精神状態の何か、情報空間上の何かが変化したことによって物理領域である身体に変化が起こった」というような感じで、具体的な「天使」や「如来」を取り外して捉えることもできるわけです。

それならば「天使」や「如来」の実在などどうでも良いことになります。

しかし、カルト宗教は、「相手の『如来』は自分たちの言う『天使』が『相手にわかるようにという配慮で変身したもの』である」というような解釈を持ってきたりします。そしてその逆もまた然りです。

ということになれば、お互いが言いたい放題であり、双方とも絶対性を示すことができなくなります。つまり、確認が取れないというようなことになります。

しかし、カルト、つまり熱狂的崇拝の中にいる場合は、こうした「相手の如来はこちらの天使の化身」解釈で、自分たちの正当性を保ちます。

一種の原理として、解釈問題としてはそれで一応クリアできますが「絶対性を示す」という部分はクリアできているようでクリアしていません。だから永久に論争が続きます。

「『笑うと免疫が上がる』ということも、天使の力なんですよ」というふうに言いたい放題ですが、天使の力であることが絶対的に示されているわけではない、ということになります。

論理上、「あちらの如来は、本当はこちらの天使であり、天使の化身である」というのが成り立つならば、その逆も成り立ちます。つまり互いが論理上成り立つので「こちらの絶対性」は成り立たない、ということになります。

具体的なものを抽象化していくと、「精神状態の何か、情報空間上の何かが変化したことによって物理領域である身体に変化が起こった」というような「方程式」が浮かび上がってきます。

その「何かが変化」とは、ある悪いものがあって、それを打ち消す良いものの力によって、体調が良くなるというようなものになります。

「それを打ち消す良いもの」に対して、「そこに何が代入されるか」というところが、天使や如来という概念であるだけであり、その他、精霊や言霊、良質の気、ポジティブパワー、笑いの力、何でもいいわけです。

そうなると、パーツ程度のものである「ある原理の中のある概念」に固執することは異常に見えてきます。そうなると、原理に固執することも異常に見えてくるはずです。

別のものと関連させる

そうしたものを示す場合にひとつの仮止め概念としてそうした言葉を使う程度ならば、さほど問題はありませんが、カルト的な問題としては、「それは天使の力。だから~~~」と別のものと関連させていくことにあります。

「つまり、別の言い方をすると、精神状態の何か、情報空間上の何かが変化したことによって物理領域である身体に変化が起こったということですね?」

ということを聞くと

「違う!天使の力でそうなったの!そして天使は言ってるの、~~~~ということを」

というふうになると、完全に異常性を持ったカルトです。

そうした概念に執著する必要はありません。むしろ、執著があれば怒りのリスクが高まります。

心の安らぎに対する条件が増えることになります。

つまり、苦を受け取る条件が増えることになる、という感じです。

そうなると、その天使は天使ではなく、天使のフリをした悪魔かもしれない、ということはどう反証してくれるのでしょうか、ということになります。

天使が天使である証拠は、その人の精神の安らぎ程度です。違法薬物のように、天使のフリをした悪魔が、一時的に快楽を与えているという可能性については、どう思っているのでしょうか。

そうした点についてはおそらく穴だらけになっているはずです。しかしそれは、具体的宗教的領域ではない、論理空間で捉えると必然的に起こる問題です。

ということで、絶対性を持ち得ず、確認し得ないことに対して固執しているだけということになります。という意味で、熱狂的崇拝、熱狂的信仰になるため「カルト」ということになります。

破壊的カルトについて

最後に破壊的カルトについて少しだけ触れておきましょう。

ナチスもそうでしたが、某カルト宗教も一種の殺戮・テロを行いました。

しかしながら、それはそうした殺戮を行わないと、自らの騒ぐ心を落ち着けることができないという、精神の不完全性を示しています。

つまり、心の安穏に殺戮という条件がついていた、ということになります。

毎度のことですが、「~しなければならない」という条件は、少なければ少ないほど良いはずです。

また、他人の理解を必要とするということは、条件を増やすことにもなります。

そんなものは本来必要ありません。

「ただ、自我が暴走しただけ」

その一言です。

そこになにかすごいものなど何一つありません。

聖戦というような言葉あったとしても「『人』に戦わせなければ成り立たないということ自体がおかしい」というふうには思わないものなのでしょうか。

誰かの狂気の空間に飲み込まれているだけ、ということは思ったりしないのでしょうか。

そうは思わないこと、それが熱狂的崇拝であり、カルトであるということになりましょう。

Category:miscellaneous notes 雑記

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ