燃やしてしまった写真

デジタルデータとして残すというのが基本となった現代では、写真を燃やすという行動が未だに個人レベルで起こっているのかはわかりませんが、昔はよく写真を燃やすという描写がよくありました。今それを垣間見れるのは、抗議行動かカラオケのイメージ映像くらいのような気もします(実際にあるのかは知りません)。

そういえば、中学校卒業の頃の話になりますが、「家にあるのは縁起が悪い」という理由などから、卒業アルバムの中の一部の同級生の写真を切り取って燃やすということが流行っていました。

当時、リング等々のホラー映画が流行っていたということも影響しているのかもしれません。

この燃やすという行為は侮蔑や否定などを表すということで、現代でも何かしらの象徴を燃やすということをする人がいますが、こうした行動はあくまで私的感情、個人レベルのうちにとどめておいたほうが良いと思いますし、外向きにやることは無駄な争いを呼び起こすことになります。

さて、そうしたことから思い出しましたが、現代美術というものに違和感を感じることがよくあります。まあ芸術など所詮遊びの延長で、かつ、好みの問題という部分もあると思うので、好きにやってもらう分にはいいのですが、無理矢理感が否めないという感想を持っています。

人にもよるでしょうが、遅すぎた反抗期という感じで、性格の悪い店長にいびられたことを「社会は間違っている」という感じで表現してみました的な感じがどうしてもしてしまいます。

自分の抱える学生数百人へのアンケートを実験と称し、雑誌のアンケート程度の統計を根拠に自説を唱えている心理学者と同じように、好きにやってもらう分には構わないものの、なぜそんなものに費用を払い、権威を与えねばならないのかということを思う時があるという感じです。

さて、「燃やしてしまった写真」についてですが、現代においては写真データの削除ということになりましょう。消し去るということは同じですが、やはり燃えていくというプロセスがないため、味気ないという感じにはなります。

アナログ写真であれば、滅多な機会がない限り再度見直すということはないものの、写真データの場合は、保存するハードディスクが大容量となったため、未だに使用しているパソコンに入っているということも多く、結構古い画像もたまに目に入ることがあります。

デジタル技術のおかげで存命中のピーコちゃんの画像もパソコンの中に入っていたりするということになるものの、やはり「…」な思い出の画像もたまに入っていたりします。

そうした画像をどう扱うかというところが「迷いが生じるところ」になりますが、今後の人生に不要なものであればどんどん削除すると良いと思っています。

直接的に写真とは関係ありませんが、仕事のメールなどについても同様の扱いをしています。ただ、それらは証拠としての部分もあるので、別フォルダに一応バックアップをとっておき、究極的には参照できるようにしています。

「消せば何かが消えていく」というよりも、「消すことで新しい何かが入ってくる」という感覚を持っていたほうが意識は鮮明になります。

Category:笑う月

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ