湿っぽい虚しさに身をまかせながら

湿っぽい虚しさに身をまかせながら、感情に浸っていると、体の方にも部分的に痛みが走り、そして感情と共に消えていったりします。

「虚しさも、どうせならば楽しんでしまえ」という感じで取り扱ってみると、「案外楽しいかもしれない」と思えてきたりします。

もはや虚しさといえば、移り行く人の意識くらいなもので、それすらも諸行無常として捉えれば憂いすらありません。

考えてみれば、例えば両親であっても、小学生の時の自分と両親の関係、中学生の時の自分と両親の関係、といった感じで、常に一定ではなく、自分も相手も環境もそれぞれ各々が変化し、もはや原型をとどめていないという感じになっています。

今、感じる瞬間的な虚しさは、単に「ちょっとしたことで邪念が起こり、調子に乗り出したりする様」を垣間見るときくらいであり、それも「醜いなぁ」という程度で、別に苦しさがやってくるというわけでもありません。

良かれと思って手を貸すと「相手は自分の言うことを聞く」と言った感じで勘違いが始まり、パワーバランスで優勢になろうとしてきたりします。まあそこまではいかなくても、自尊心の補償を意図するような「いじり」をしてきたりするという場合もあります。そうした様子に対して「醜いなぁ」と思ってしまうという感じです。

まあそんな時には、下手に抵抗したりせずに、身を任せるように「ふわ~」としていれば、そのうちまた良いバランスになったりしていきます。

波的な構造とタイミング

二者以上で構成される様々な「社会」の中で、タイミング的に合わないという時があります。

体調を含めて自分は調子が悪く、また相手も調子が悪い時、嫌気がさしてきたりもしますが、どうせまた、自分も相手も調子のいい時であれば、また気分良く接することができるのだろうという、「波」的な構造が潜んでいます。

普段深い仲にある誰かに苛立ち、両者の中で軋轢が生まれたとしても、「どうせお互いに調子が良いときにはまた仲良くなれる」ということを思えば、「まあ、今は何かに影響されているか、調子が悪いんだろう」ということで喧嘩にはなりませんし、決裂することもありません。

ただ、深い部分で軽視や蔑視があった場合、今までの付き合い自体が上っ面で成り立っていたということになります。それに気づいたならば、「そのような関係性は不要であることに気づける」ということになるので、自然と離れていくことになるでしょう。

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