洗脳の結果としての消費行動

洗脳の結果としての消費行動ということで、消費社会においての個々人の消費行動は洗脳・マインドコントロールの結果であるという点について書いていきます。

久しぶりの「お金に関すること」テーマで実に1年半ぶり以上という感じですが、お金持ちになったりするをシンプルに考えれば、お金が出ていく量を減らしていくこともその方法になりますし、これはお金を稼いでいくこと、手に入れていくことにも密接につながっています。ということで、消費行動と洗脳について書いてみようと思ったしだいです。

消費社会と洗脳の関係としてよくメディア洗脳という感じでマスメディアによる情報が消費を触発しているという感じで捉えているはずです。それは要素として確かにその通りですが、既に「消費脳」のような状態になっている人達は、そんなことを薄っすら思いながらも未だにテレビを観たりしているはずです。

その上で、「テレビCMを見ようがそれで商品を買うわけでもないし、自分は洗脳されていない」と居直っているのがせいぜいでしょう。

最近では、単純接触効果なども広く知れ渡ってきているため、「無意識に選択した商品は、偶然ではなくCMでよく見聞きしたことがあるものだった」という理屈を何となく知っている人も増えてきました。

しかしながら、そうしたマインドコントロールを何となく分かっていても、結局同じような商品が並ぶ中の「選択のストレス」に比べれば、あまり気にせずに商品を選んでしまうことのほうが快適だと判断してしまい、結局消費行動を起こしてしまいます。

消費社会の洗脳は、メディアだけでなく国家的な教育でもなされていますし、消費行動のきっかけとなるようなインスピレーションは道を歩いていても、誰かのSNSの投稿を見ていても訪れます。

お金を使う人ではなくお金を稼ぐ人になろうと思った場合は、まずそうした消費を加速させる情報の本質や触発されてしまう自分の心をよくよく観察していくと良いでしょう。

なぜ、今手元にその商品があるのか?

普段はあまり深く考えることがないと思いますが、「なぜ、今手元にその商品があるのか?」ということを考えてみましょう。

「欲しいから買った」

という単純な答えもひとつですが、もっともっと奥深く、ほとんど全て網羅するほどに消費行動の原因の細かな要素を見極めてみましょう。

原因は具体的な一つではありません。

浅いところしか見ないようにすると、一つの原因しか無いように見えてしまいますが、必ず数々の細かな原因が潜んでいるはずです。

先日、実家に帰ると母から頼まれごとをされました。

「通販商品のコンビニ払い」を帰りにしておいてくれないか、というようなものでした。

お金とコンビニ払いの用紙を渡され、帰り道にコンビニに寄って決済を済ませたという感じです。

それはそれで大したことではないので別に良いのですが、その時に「なぜ母はこの商品を買うに至ったのだろう?」ということを考えてしまいました。

そう考えた時、メディアとの接点が無かったりという感じでその商品との接点が無ければもちろんその商品を購入することは無かったでしょうし、その固有の商品でなくとも類似品を買うとしてもその動機が無ければ消費行動を起こすことはなかったのではないか、ということを考えました。

もちろん母が自分のお金で好きなものを買っただけですから、他人がとやかく言う問題ではありませんが、問題はそうしたことではなく「消費の動機はどこから発生しているのか?」ということです。

それを考えると、通販商品のコマーシャルが直接的な原因ではあったものの、その裏に消費を促進させるような刷り込みがあったはずだということになります。

普段、消費社会と洗脳について語られる時、だいたい商品選択におけるマインドコントロールがテーマになったりします。

もちろんマイホーム・マイカー購入や就職市場などなどの「常識」を刷り込んでいくことも話題になりますが、根本的に資本主義を盲信した上での消費脳・消費思考になっている事自体への警鈴はそれほどなされることがありません。

その理由は簡単です。

消費を加速させる情報しか表に出ない

まあ根本的にマスメディアは収入源が広告収入・スポンサー収入です。

ということで、表に出る情報は消費を加速させる情報しか無いと思っておいたほうが良いでしょう。それは構造上仕方ありません。

そして、スポンサーの悪口になるようなことはもちろん、その商品の悪い点などはあまり語られることがありません。

僕自身は家にテレビがないので、最近ではどうなのかわかりませんが、例えば、お酒については叩かれている様子を見たことがありません。依存症の人や飲みすぎた人が悪いのであって、アルコールそのものは問題ではないというような感じで語られているはずです。

その理由は簡単です。お酒といってもビールや日本酒などたくさんのアルコール飲料があります。そうしたものを抽象化した「お酒」や「アルコール」については、その下にたくさんのメーカーがぶら下がることになります。

そうなると、スポンサーからやってくる収入の量が桁違いになります。一社だけの問題ではなく、「アルコールについての話題」ともなると、数多くの企業からの収益が情報に影響を与えることになるのです。

車の話題となれば、どこか特定の企業だけの問題ではなく、スポンサーとなっている全ての自動車メーカーからの収益が情報に影響を与えることになるのです。

だからこそ、お酒を飲む事自体の危険性についてはあまり語られませんし、自家用車を所有すること自体があまり経済的に合理的ではないというような話題はなされることがありません。

しかし個人的には、毎日のようにお酒を飲むこと自体がかなり危険なことだと思っています。個人的には今ではお酒自体を自発的に飲もうとすら思いませんが、それはさておき、20代の頃にはあまり実感がなかったものの、自分の周りの友人知人の中で日常的に飲んでいる人たちが本当に危なくなってきています。

「脳が溶けている」ような感じで、味覚がおかしくなってきたり、物忘れが激しくなったり、思考が鈍ってきているような感じがしており、最近はそれを目の当たりにしてきています。

消費の目線でしか解釈されない

特にマスメディアでなくても、「情報に触れる」ということだけで消費行動自体は触発されたりします。道を歩いていても看板がありますし、広い意味では走っている車なども全て消費を促す情報になってしまいます。

かなり前になりますが、以前、SNSを少し覗いてみた時にふと思ったことがありました。

その当時Facebookなどでは胡散臭いコンサルなどがセミナー告知をよく流したりしていて、「なんか広告ばっかりになってきたな」と思っていました。

しかし、よくよく考えてみると、誰かがどこかの観光地に行った時の写真の投稿などでも、その観光地を宣伝していることにもなりますし、「どこかの店舗内でとった飯の写真」ももちろん、誰かの子供の写真ですらその子が着ている服の宣伝になっているということすら思いました。

ということで、「広告要素が一切ない『純粋な投稿』というのはほとんどありえないのではないか?」ということを思いました。

投稿した本人は意図していなくても、結果的に宣伝に加担しているという要素を持っています。

しかし、要素としてそうしたものが含まれているとしても、それをどのように見るかは見る側の問題です。

誰かが旅行に行っている写真を何回も見て「自分も行きたい」と思ってしまうのは、「消費すること」に意識の向き方がセットされているからです。

そういうわけで、現役でも消費を加速させる洗脳行動が行われていますが、それ以前の問題として、「消費の目線から見る」というフレームが既に出来上がってしまっているのです。

前提から考える事が抑制されている

消費と洗脳の関係として、「消費の目線から見る」というフレームが既にできてしまっているという感じで考えれば、「前提が隠されている」とか「前提は思考の対象となっていない」ということが見えてきます。

例えば、悲惨な交通事故のニュースが流れてきたとして、そのニュースの少しあとに自動車保険のCMが流れたりするものです。

そうした時に消費の目線からだけ考えた場合は、短絡的にはなりますが「交通事故のリスクがあるから保険に入らねばならない」ということくらいしか想起されません。既に加入している場合は「任意保険に入っているから大丈夫だ」と安心するくらいがせいぜいです。

この時、「根本的に車に乗らない」ということが意識に上ってこないのはおかしくないでしょうか?

もし、そうであるならば、消費の洗脳の内にあると思っておきましょう。

実際に車に乗るとか運転するとかそうしたことは脇においておいて、思考の可能性としてそうしたことも検討の範囲に入るはずです。

携帯電話にしても、根本的に所有しないということも選択肢としてはあるはずです。

しかしながら、「どの会社と契約するか、どの機種にするか」というところからしか考えられなくなっていたり、「スマートフォンかガラケーか」というところくらいしか考えられなくなっているとすれば、既に携帯電話会社による洗脳がなされていると思っておきましょう。

書籍と番組の違い

よく、本を読むのは良くてテレビを観るのは良くないということが語られることがあります。

「共に外部から情報を得るという構造には違いがないのに、なぜなのか?」

と思う人も多いようです。

その理由は非常にシンプルで、テレビや雑誌にはスポンサーがいます。そういうわけで、数ある情報の中から、消費を加速させるための情報をピックアップし、さらに消費を触発するような解釈しか表に出さないという構造を持っています。

お金持ちの生活

例えば「お金持ちの生活」の特集があったとしましょう。

お金持ちにも色々なタイプがいますが、番組として「消費を加速させる」という意図を持ちつつ面白みがあるものを取り上げる場合は、お金持ちの中でも浪費家をピックアップするという感じです。

実際にそうした友人知人が多ければ実感も出てくるのですが、結構生活は質素だったりします。

勤め人の頃、商店街のお客さんのところに行った時にそんな感じを実感しました。ボロボロの前掛けをしてボロボロの長靴でボロボロの軽トラックで仕事をしているおじさんとおばさんがそれぞれ1億円以上の現金資産を持っていたりということもザラにありました。

プロの商人

その人達は商人としての金持ちですが、お金を持っていることをまわりにアピールする必要もなく、むしろそんなことをやろうものなら「じゃあお代まけてよ」ということにしかなりえず、損だということも知っているプロの商人です。

金持ちアピールをしたところで、恨みを買うか、値切りの動機を与え厄介味を言われるか、変な業者が営業に来るかくらいしか起こりません。良いことなど一つもないのです。

書籍の情報

一方、書籍の中の情報はほとんどがスポンサーを意図したものではありません。もちろん、消費を加速させるために書かれたものや、そうした内容を持っているためメディアが後押ししているような作品もゼロではありません。しかしながらテレビ番組と比較してかなり自由度の高い内容になっています。

消費行動を触発したり、人を「消費脳」にしていくような洗脳要素を持っているものもありますが、基本的にそうしたものを意図しているというよりも、もっとフラットに個々人の考えが書かれていたりします。

小説の中である地域が舞台となっていた場合、「その場所に行ってみたいなぁ」と思うことはあっても、その場所への観光需要を高めるためにその作品が書かれたわけではありません。

しかし、そうしたことを意図した作品もゼロではありませんし、メディアで特集されたり映画化されたりする場合には、観光需要を高めるための「作品の抽出」という意図がある場合もあるでしょう。

作品自体は特に何かの消費を促進させたり、需要を生み出したりする意図は持っていなくても、ピックアップして話題を作ることで意識の中の重要度を高めたりしつつ、その対象を盛り上げようというときに踏み台にされるということです。

メディアにおいて、美容師になりたい人を増やしたい時は、そうした人が主人公のドラマを制作し、銀行員になりたい人を増やしたい時、金融商品の存在を知らしめたい時は、そうしたことがテーマになっているものをドラマ化するという感じです。

ただ、書籍自体はそうしたことをあまり意図はしていません。

経典などは確実に消費を抑制するものになりますし、経済系・経営系の本でもたいていは消費を抑制し、投資的性質に変えることを促す内容になっています。

消費から投資へ

消費を問題視することは「我慢」を意味するという感覚を持っている人が多くいます。

いつもならば、消費行動自体が自尊心の補償行為としての要素が強いということで結びにはいるところですが、それは今までにもたくさん書いてきたので、ここでは消費思考から投資思考へ、消費脳から投資脳へと考えをシフトするというような点について触れて終わりにします。

ひとまず、消費を抑制すること自体を「我慢」と感じ「苦しい」と思ってしまうこと自体が洗脳の結果であり、自分の自由意志ではないということを先に理解しておくとよいでしょう。

さて、普通消費から投資へという感じのことが話題になる時は、消費物を購入するよりも、不動産や株式、債券などへと投資しましょうというような話題になります。

確かに資本主義の理論上はそれでいいのですが、ここではそうした具体的なことではなくて、基本的な消費の性質と投資の性質について触れた上で、洗脳の結果としての「消費」から脱し、有用な消費かどうかということを判断するための思考について触れていきます。

まず根本的に消費とは、金銭の対価として得られるものは個人的な効用だということを再確認しておきましょう。実質的な効用を超えた分は「自分の気分を高める」という無形の部分になります。

もちろん自給自足等々、金銭を介さなくてもいい場合もありますが、基本的に生きている限り消費を避けることはできません。消費していないように見えても、結局誰かがお金を払ったり労力をかけてくれたりしているだけで、何かしらは消費しています。

ということで、必要な消費というものはあります。必ず要ると書いて「必要」です。無ければ死んでしまうくらいのことが必要なものです。

そうした必要な部分と必要以上の部分をしっかりと見極めれば、本当に必要なものが見えてきます。

で、投資というと、「必要なことに対して使って終わり」という感じでなく、資本を投じた上で、それが後からより高いお金を生み出すという性質を持っているものです。

そういうわけで、投資というと、株を買って配当を得ましょうとか成長銘柄を買って後にキャピタルゲインを得ましょうというような感じの話題になったりします。国債を買っておけば、10年後に元利合計金額が得られるというのも、広い意味ではそうですし、そう考えると定期預貯金も対象にはなります。

そんなマネーに関するテクニックだけでなく、投資はいろいろな事が対象となりますし、勉強しておいてより良い仕事に就くというのも一種の投資になります。

設備投資的な考え

しかし、投資というのはそうしたことだけでなく、「生産効率を高めるためにお金を使う」というものも含まれます。設備投資などはわかりやすい例です。機械を増やして同じ時間での生産数を増やしたり、別の機械を買って時間を短縮して生産コストを下げたり生産数を増やしたりという感じです。

もちろん、そうして生産効率を高めたとしても、いろいろ事を進めているうちにその製品の製品寿命が終りを迎えて投資が失敗するということもあります。だからどのようなものでも投資にはリスクがあるのです。

で、これを個人レベルで考えていくこともできます。ひとまず「時短」で考えてみましょう。

移動手段としては、徒歩、自転車、バイク、自動車などたくさんのものがあります。

今まで30分歩いて通勤していたところを自転車を購入して通勤時間が10分になったとします。すると片道20分の自由時間を稼いだことになります。これにかけた費用は1万円くらいだったとしましょう。そうなると毎日往復で40分が浮くことになるので、かなりのリターンです。

この時に起こるメリット・デメリットをいろいろと考えてみましょう。自転車の維持管理費用や保険代などが別に発生したりしますが、靴の底の減りはマシになるので、靴代はかかりにくくなります。

交通事故が起こる確率は増えますが、チカンやひったくりに遭う確率は減るでしょう。

自転車のメンテナンスのために自転車店に行く必要が出てきたりするので余計な時間もかかりますし、駐輪に困ることも起こるかもしれません。

ということを踏まえて、自転車・バイク・自動車を対象として全て検討してみましょう。自転車の中でもママチャリもあれば「タイヤの細いチャリ」もあります。バイクでも50ccのスクーターから125ccのスクーター、1リッターを超える単車まで、たくさんの種類があります。自動車も同様です。

それぞれにメリットがありデメリットがあります。

そうした時に「カッコイイ単車が欲しい」とか「ナンパしやすい車がいい」というような要素もどこかにあるはずです。

それはそれで要素として検証してみるのも良いでしょう。

その中で、時短やリスクなどを勘案しながら一番リターンが高いものを選択する、それも立派な投資的思考です。

企業活動においては、時間を短縮することは人件費に関わってきますのでイコールで投資的な意味がありますが、個人レベルの場合は時間が浮いたところで、それだけでは何の実りもありません。

もちろん「疲れがマシになる」というメリットがあったなら、疲れを癒やすことにかかる時間も短縮できる上に、普段も快適になりますので、時間だけでなく「疲れ」も検討材料に入れるべきです。

その上で、余った力や時間をどう活用するのかというところからがさらなる投資的思考であり、投資の本質に近づいていきます。

それはそれで一旦置いておいて、そうした時間や余力の関係から考えると、「無駄な消費」とはどのようなものかが見えてくるはずです。洗脳され、他人に触発されて行ってしまう消費行動の域を脱して、より良いお金の使い方がわかってくるはずです。

何かを購入したり利用したりする時に「機能」に着目してくことがその第一歩となります。

そうして洗脳が解けていけば、「あの人はお金を持っているのになぜ贅沢をしないのだろう?」というような考えは無くなっていくはずです。

自己評価と金銭感覚

ただ、ひとつ皮肉なことに、無駄な消費行動は洗脳の結果である裏側で、その人自身の自己評価がお金を稼ぐことに関係しており、金銭感覚がその人の生き方を変えてしまうという面があります。

面白いのですが、営業の世界では「先にロレックスを買う」という文化があったりします。

もちろんすべての企業の文化ではありませんが、ひとまず新人の間であっても、ボーナスを頭金にしてローンを組み20歳そこそこの人がロレックスを買うということが文化になっている企業も世の中にはあります。

「ロレックスくらいが普通」という感覚を持って、営業さんとしての人格を作っていくという感じです。不動産や金融など、高単価のものを扱う業種の営業の世界ではよくある話です。

で、ロレックスの機能としては、単に時間を示すだけなのですが、それをつけている本人はそうした金銭感覚を持つ人格の方に変わっていきます。取り扱う商品が「何億」でも尻込みしなくなりますし、増して数百万円なら何とも思わなくなっていきます。そして結果的に営業成績が抜群になったりするのです。気づけば数ヶ月後の営業手当や次のボーナスでロレックスのローンを一括返済していたというのもよくある話です。

そんな感じで「どれくらいが普通か」という感覚によって、仕事のあり方などもどんどん変化していきます。ということで、思考上の合理性だけでは測れないものがあります。

これは先のプロの商人と矛盾しそうですが、特にそうでもありません。彼らは彼らで「稼ぎは人のお役に立ったという証である」「稼いだ分をさらに投資に回して『人の役に立ちましたポイント』を高めよう」というような、まるで「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のようなマインドでいるだけで、それがモノとして具体化されていないだけという感じです。

「どれくらいが普通か」という感覚が無形であるというだけになります。

そうした感覚、自己評価に合わせてお金の入り方や出方は変わってきますが、コストとリターンの感覚を持つこと、投資的思考ができることは、いずれの場合でもプラスになります。

しかしながら、その裏の自己評価として「お金を失いたくない」という恐怖心があると、理論上は合理的な選択になっていても、結果としてはあまりお金が入ってこなくなります。いわゆるケチで貧乏な人になってしまいます。

稼ぎ、使い、観察する

といっても、お金を持ったからといって幸せになれるわけではありません。それに付随して起こる人間関係の煩いも増えますし、所有による意識の柵や縛りも生まれることになります。

「必要」に応じて、ある程度身体的なストレスは、お金に比例して軽減されていきますが、何かの物やサービスで得れるものは所詮感情にしかすぎません。

ただ、それはやはり思考の上で考えた場合には「我慢」を強いられている風にしか思えないでしょう。そうしたことは、自分で稼いでさんざん自分で消費してみながら、自分の経験の中で掴んでいくしかありません。

物を買うとき、物を欲しいと思ったとき、その時の自分の意識を観察してその動機の奥にある「他人に植え付けられた価値観や考え方」を見破っていくしかありません。

ひとまず我慢を一切せずに散財してみて、その時の自分の意識と体感を観察していけばよいのです。

期待やあこがれがある分だけ、その物の感情的な付加価値を感じて感情が起こります。お金を持てば持つほど、「機能」しか見えなくなってくるはずです。消費によって得れる感情などしれていますし、無駄な消費はやはり洗脳による結果としての消費行動にしかすぎません。

感情の起こるところには、欲や執著や怒りがあります。そうしたものから解放されたところにこそ安穏があり、その安穏こそが最高の贅沢ということだけはお伝えしておきます。

何かを介して満足を得ようとするより、何も介さずして満足であるのが最高の贅沢であるということです。

Category:finance お金に関すること

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