テレビを見ない生活

もうかれこれテレビを見ない生活が十数年続いています。家にはもちろんテレビ自体がありませんし、今後も買うことはありません。ということで、自宅でテレビを見るというようなことは一生ないでしょう。

今年の台風で家のテレビのアンテナが吹き飛んでテレビがない生活ということを経験した人も結構いると聞きました。そしてアンテナを直そうにも、復旧工事が殺到していてなかなか順番が回ってこないという感じのようです。そしてさらに、まさにテレビ依存ということなのか、テレビのない生活に耐えられないということで、ひかりTVやケーブルTVを契約する人もいるくらいだという感じで聞きました。

僕からするとそれはまさに「依存」であり、そうした依存の方を問題視したほうがいいとすら思っていますが、生活の中の一部が切り取られたように感じ必死で戻そうとするのでしょう。

ただやはり、「やたらと意識の矛先を振り回してくるもの」はバッサリと切り落としたほうがいいですし、特に電○汚染されているような日本のテレビは見ないほうが心身ともに健康になり、偏った主義なども持つことなく、知能も向上すると思っています。

「常識」の刷り込み

テレビそのものを否定的に、悲観的に見ているわけではありませんが、より良きものはこの世にたくさんありますし、日常的にテレビに依存するということは、それら「より良きもの」を見る機会をなくしてしまう上に、変な常識を植え付けられてしまうおそれがあります。

例えば、タレントさんの世界は体育会系のような年功序列がありますが、彼らが「後輩のくせに」などと言う発言をする度に、まるでそれが日本の常識かのように思ってしまうという感じです。仮に民主主義的な一般論で考えたとしても、彼らの世界の方が「異常」であるのに、それが常識かのように思ってしまうという感じです。その人達の世界はその人達の世界で、ある種勝手にやっておけばいいのですが、それが普通なのだという感覚を与えかねないということです。

またこっそりとマインドコントロールを行ってくることがあります。

「恋をすることは日常のやる気を高めることに良い効果があるそうです」

ということまではいいですが、その後に

「これは直接的な恋でなくとも、例えばアイドルなどに対するものでも同様の効果があります」

と、こっそりアイドルブームを加速させようとしているとしか思えないコメントを添えてきます。

そうした時は

「臭!洗脳企業電○臭がする!」と思いましょう。意識に上げることで防ぐことができますからね。

「アイドルなどに対するものでも…はい来た洗脳!」

とつぶやいても構いません。

少し前に触れていましたが、テレビを見なくなった日、その日僕はテレビを叩き割りました(桃源郷への登竜門)。

その最たる理由は、一見害がなさそうに見えるサザエさんなどであっても、「これが普通なんですよ」という常識を刷り込もうとしているという意図が見えたからです。広告的な煽動はもちろんですが、何気ない番組、何気ない演出、何気ない一言であってもその奥に何某かの刷り込み意図を感じたということになります。

そして、「今後の自分には不要だ」と思ったのと、「洗脳・マインドコントロールしようとしているという意図」が見えた事が相まって、その怒りをテレビ本体にぶつけてしまったわけです。

それからというもの、銭湯の脱衣所やたまたま入った旅先の飲食店で勝手にテレビがついているのでない限り見ることは無くなりました。なお、映画などはパソコンで見ています。

テレビを見て賢くなっている人を見たことがない

また、テレビを見なくなるようになる少し前、よくよく世間の大人の人たちを見渡してみました。

テレビを見ないと話題についていけないとか、最新の情報を知らないと時代についていけないとか、何なら情報不足になるなどという感覚を持っている人もいるようですが、周りの人を見渡してみると、例外なくテレビを常に見ている人に頭のいい人は一人もいませんでした。

情報源としてテレビが有効なのであれば、数十年もテレビを見続けているのに、知識も浅ければ思考のレベルも低いというのはおかしいはずです。

例えば定年退職前のおじさんなら、おそらく半世紀程度テレビを見続けてきているはずです。何なら新聞も読んでいたかもしれません。しかし観察してみると、昼休みの会話内容としては最近テレビで得た知識をなぞるだけ、といった感じでした。

さらにいうと、専業主婦のような生活をしていた人たちならさらにテレビ漬けです。テレビで「もやし特集」があればもやしを買いに走るような人たちがまともな知識と思考レベルを持っているとは到底思えませんでした。

あくまでその当時の感想ですが、概して「テレビから得た情報で知ったつもりになっている」ということと「その知識はすぐに流れ、数日後には忘れている」という感じでした。

そんな人達を見て、例えば「せめてニュースくらいは見ておけ」というような意見に対しても、「知ったところで何になるのか?」というようなことを思いました。

以前にどこかで触れていましたが、何かの事件をきっかけにそれを深く掘り下げて研究するというのならば、思考の鍛錬にもなると思いますが、「1分で語れてしまうような事実的情報を知ったところで結局何になるのだ?」ということを思ったわけです。

「ネットで見れるから別にテレビじゃなくていい」

というわけではありません。

情報源の問題ではなく、そんな情報自体が不要なのです。

時間の浪費

たくさんの書物を読み漁っていた時期ということもありますが、そんな中、手塚治虫氏の「なるべくたくさんの一流に触れなさい」という言葉を思い浮かべていると、「テレビなどに一流のものがあるはずがない。ただの時間の浪費だ」ということを朧気ながら思いました。といっても仮に「ごっつええ感じ」が続いていたのなら、もうしばらくは見続けていたかもしれません。

ただ、そうしたある種の「たまには一流の番組があるかもしれない」という期待よりも「常識の刷り込み」への怒りの方が大幅に勝ったのでブラウン管を叩き割ったという感じになります。まあ結果的にそれでよかったのでしょう。

その時は既に「すべての謎を解き明かす」という強烈な動機を持って、自由時間の大半を哲学書を中心とした読書に費やしていたので、テレビはほとんど見ていなかったのですが、書物から離れるにしろ「触れるならなるべく一流のものでないと嫌だ」という感覚が徐々に芽生えていました。

僕の場合は、社会においてのし上がりたいとかそうした社会的なことには関心がなく、ただ18歳の時に痛感した「苦しみ」から脱することはできるのだろうか、ということにしか関心がありませんでした。

だからこそさらに時間の浪費という感覚を持ったわけです。例えば相手がどのような人であっても、人と話をして「人の心のあり方」に関して洞察している方がよほど有意義な時間となります。テレビに時間を使ってしまうと、自分の中の「すべての謎を解き明かす」というライフワークに対してあまり関係のないことばかり情報として入って来てしまうと感じたからこそ時間の浪費だと思ったという感じです。

不要な細切れの情報

意識への影響

今現在もそんな思いは変わりなく、所詮ネット情報も半分以上は一次ソースがテレビだったり、動画もテレビの動画だったりもするので、情報源がインターネットであろうがそんな浅い情報に用はないという感じです。

まあ今後も見ることはないので、個人的には何の問題もないのですが、「ネットで情報を得れるから別にそれでいい」という理屈ではないという旨だけ書いておこうと思ったという感じです。

世の中には無数の一流のものがありますし、人であれ自然であれ、リアルな情報はすぐ目の前にあります。

わざわざ仕入れても意味のない情報に意識を奪われ、そして振り回され、常識のようなものを刷り込まれ、煽動されている場合ではありません。

「刷り込まれていない」とか「煽動などされていない」という人もたくさんいるでしょう。

しかし、本来トラウマとは「思い出せないからこそトラウマだ」と定義されるように、「サブリミナル」とは「意識に上らないからこそサブリミナルなのだ」ということをお忘れなく。


感情に訴えかけたり科学的な正しさを示しながら都合の悪い部分を隠すというのは情報コントロールの常套手段となっています。

情報化社会における「情報の遮断」と「視点の教育」

Category:miscellaneous notes 雑記

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