扇子のように折りたたみ可能な印象

扇子のように折りたたみ可能な印象のものの代表例は、エリマキトカゲ理論であり、物理的な大きさによる威嚇を無意識的にしている人たちといったところでしょうか。

威嚇のみならず、異性へのアピールとして体を大きく見せるということは、孔雀やエリマキトカゲなど、様々な生き物で見られる現象です。同種間では魅力になるのかもしれませんが、「実際はもっと小さい」というところがポイントであり、一種の虚勢というような面もあります。

インドクジャク

インドクジャクのアピールタイム

インドクジャクくんは「扇子のように折りたたみ可能な印象」そのものですね。

情報の空間における大きさ

身体的な大きさ、物理空間での大きさも、強さの一つの尺度とはなりますが、人間界においては、物理のみならず情報の方にも空間認識が及んでいるので、物理的な大きさだけがモノを言うわけではありません。

最もわかりやすいものとしては、大きさとしては同じ程度の車であっても、価格が全く異なるようなものとしては、高級車の方が強く感じるというようなやつです。

ただ、あまり詳しくはありませんが、仏像においても「菩薩はジャラジャラ、如来は素」という感じで象徴されているように、まだ途中段階で弱さがあるからこそ、物でカバーするという感じになっています。

実際の戦闘能力

身体的な大きさはパワーという尺度では強さの一つの指針となりますが、動物的な強さにしても、実際の戦闘能力は体の大きさだけでは決まりません。

鼬のように小さいながらも強い生き物もたくさんいますし、戦術として「毒を用いる」等々特異なものを持っているという場合もあります。

小さいものが群れて大きく見せるというのも、一種の生存戦略であり、純粋な知性のようなものを感じたりします。

嵩増ししたような身体的な大きさ、体の割に大きい目、模様による擬似的な目による騙しというのもまた一つの知恵でしょう。

身体的な大きさによって勘違いを生み出し、傲慢さを生み出すのが脳筋体育会系ですが、人の実際の戦闘能力というものは心技体という順番になっています。

高校生くらいまでは何をしでかすかわからないアウトローを避けつつも、大学生などになり地元を離れて、力を誇示して傲慢になっていくようなタイプの人がいたりします。

後輩を侍らせて、胸板を張りながら、多少飲み屋が点々としているようなローカル交差点を闊歩するというのは、京都ではよく見かける光景です。

概ね身体的な大きさが特徴的なラグビー、アメリカンフットボール系の人たちであると推測されますが、いくら体が大きくても、本格的に武道や格闘技を経験している人には勝てません。

心と技の面において、素人と玄人の差があるからです。

ということを、理解できるなり、本能的に察知できるなりというのも本来一つの戦闘能力ひとつであるはずですが、その能力のない素人ゆえに勘違いをしてしまいます。

力が強くても、その力を利用されたらどうなるんだということです。

というような構造は、図体が大きくて一見強そうな大企業が分野によっては零細企業に負けてしまうというような感じに似ています。

大きいから強いというのは時に成り立ちませんが、小さくても強いというのは往々にしてよくあります。ただ、小さいから強いというわけではありません。

相手が人であれ、動物には変わりないので、一生懸命に羽を広げている孔雀くんや襟を広げているエリマキトカゲくんであると捉えれば、微笑ましさすら感じてくるはずです。

そうした視点は、闘争の空間にいない、客観性を持ったご婦人方のほうがよりよく理解されていたりします。

ただ、それはそれで自身が闘争の空間にいないからであり、闘争の空間にいる人を諭すには少し不十分です。さらに本質的なところを捉えようとするならば「その空間に巻き込まれている場合」の気持ちも理解する必要があります。

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