意識下で書きつづっている創作ノート

何だかんだで一度見聞きしたものは全て覚えていて、ふとした時にそれが意識に上がってきて影響を与えたりします。サブリミナル的に無意識に届くということもありますが、やはり基本的に意識が向く矛先とか解釈の仕方は認知バイアスによって取捨選択されているという感じにはなっているので、偏見なら偏見がどんどん加速していきます。

そんな感じで日常触れるものは意識の奥底でどんどん溜まっていって夢の中で整理され、「意識下で書きつづっている創作ノート」が日に日にアップデートされていきます。

ある日急に思い立って始める何かも、そんな日常触れているものが日に日に育っていった結果という感じになるのでしょう。

意識を向けだすと見える

「意識を向けだすと見える」ということに関して言えば、先日「オオルリ」の表記を今まで幾度となく見ていた「奥大山の天然水」のラベルの中で発見した、ということがわかりやすい例になるでしょう。

榛名富士登山の際、榛名湖畔で亡骸を発見し、ビジターセンター内の展示でオオルリということを確認して、「あの鳥はオオルリなのだ」ということを知ったわけですが、その時点ではその言葉を見ても「奥大山の天然水に載っている」ということには気づきませんでした。

しかし先日ふとペットボトルを見てみると、イラストとともに思いっきりオオルリと記載されていました。

その事に気づいたことすら、実際に本物のオオルリに触れ、呼称を確認したからこそという感じがします。

どんなモノを意識下に書き綴るか

安部公房氏の「笑う月」風に言うこの「創作ノート」は、重要度に応じるものの見聞きしたもの全てが材料として残っていくので、どんなモノを意識下に書き綴るかというところを工夫すれば、自ずと後で生まれる意図も面白いものになるのではないでしょうか。

まあこうした書き綴るモノや書き綴り方が、後に起こる出来事の色彩を変えていくので、言語表現一つとっても「肯定的で美しい言葉を使いましょう」という感じで語られるのでしょう。

ほとんど同じ意味なのであれば、表現として消極的で汚い言葉を使うよりも、肯定的で美しい言葉を使う方が良いと思いますが、あまりにそれに囚われすぎて行き過ぎると論理的におかしくなったり、カルト的な狂気を感じたりするのでほどほどが良いと思います。

また、時に行き過ぎると執著を生む場合もありますが、基本的に「いいなぁ」と思ったものは、近くに置いておくといいのではないでしょうか。日常的に触れていると、創作ノート上でそれが強化されていき「いいなぁ」と思う現象が起こりやすくなります。

逆に「嫌だなぁ」と思うものは、どんどん捨てると良いでしょう。もし捨てるのが名残惜しいと思う場合は、捨てる気持ちを育てるべくといいましょうか、頭の中で整理をつけるために、何かしら表現すると良いと思います。

外向きに表現したり、日常的に思い出すのも嫌ですが、「吐出口を求めているのに外に出れない」ということで、頭をぐるぐるしているという場合もあるからです。

そんな感じで意識下にあるものを表面化させるということは、勝手に綴っている創作ノートを能動的に整理するという感じになるのでしょう。

Category:笑う月

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