専門分野への沈黙の強要

小学生の時からずっと抱えている違和感にはなりますが、特に芸術分野などでは、「素人は語るな」とか「素人は手を出すな」的な雰囲気があります。

いくら文化といえど所詮遊びの延長であるはずの美術や音楽の分野において大学などができていったせいで、「しっかりと学んだものしか世に出してはいけない」というような雰囲気があります。

別に誰でも絵を描くことを楽しみ、楽器で遊ぶということをしてもいいはずですし、自由に語ってもよいはずですが、どうもそれが許されないような空気感が出ています。

そんな中近年ではそれが技術的な分野にも浸透し、同時に何故か語学的分野まで浸透しつつあるような気がします。

語学的正しさ

音楽アーティストの書く歌詞の英文法的な正しさや英語表現的な正しさ、果ては実際の歌に対しての英語の発音などまで指摘するような世の中になってきているような気がします。

こうした一種の「専門分野への沈黙の強要」は、根底に「弱者がもつ怨恨を発端とした解釈変更による自尊心の回復」という面が潜んでいることが否めません。つまりルサンチマン的であるということです。

何かしらの「学問的な正しさ」を武器に指摘をするような構造は、「バックには参考書があるんだぞ」的な感じがしてしまいます。

その上で、そうした指摘については、今後登場する様々な作品に対して「正しさ」を与えるというよりも、「制限」を与えることにしかならないと思います。

僕の感覚でいうと、語学だけが得意という人は、物事に対する考察が浅いという感覚を持っています。例えば、日本語、英語の辞書を頼りに、それを照らし合わせるくらいしかできないという感じです。しかし、色々な単語が持つ意味は多岐にわたっていたり、複数の解釈や用法があってその内容については議論されていたりするという背景があったりもするのです。

他言語の間を行き来するというのは一つのスキルとして良いですが、感覚で言えば、各言語を「各国の高校生レベルでしか考えられていない」という感じがしています。それくらいしか求められていないところで良い点を取って評価されてきたのだから、それがその人達なりのゴールであり、今まで培ってきたものを用いて何とか「他人に自分を評価させよう」という感覚なのでしょう。

という感じなのですが、そんな中、畑違いの「音楽」の分野で難癖をつけたりしているという感じになります。現代における語学的な着眼点で考えたとすれば、新約聖書の表現やゲーテの詩ですらその人達に馬鹿にされるようなものになってしまうかもしれないのに、という感じになります。

語学的視点で考えれば、文語的で「意味を厳密に記述する」という感じで検討されたりしますが、芸術的要素としての「曖昧さ」の中にある「くすぐり」や「解釈可能性」という面に洒落っ気が混じっているという面も無視されがちですし、その文法的な「誤り雰囲気」があえてその背後にある背景・文脈を演出しているという側面も無視されがちです。

例えば、高校生の時に書いた曲なら、あえてその「言語的な洗練さのない高校生らしさ」が沁みるという感じです。

ということで語るのはいいですが、ナンセンスということになるでしょう。

クラシック音楽を楽しんではいけないという雰囲気

さて、もっと昔からの雰囲気の方に戻りますが、特に音楽の分野では、なぜか「クラシックを楽しんではいけないという雰囲気」というものがあります。音楽大学に行っているような人、もしくは幼少期から習っていた人しかピアノやバイオリンで楽しんではいけないというような雰囲気です。

それどころか、鑑賞することすら一種の制限があるような雰囲気があります。まあ元々貴族向けの文化だったので、そうした雰囲気はクラシック音楽が登場した時からあったのかもしれませんが、今なおクラシック音楽は一部の人達のものという感じがどこかにあります。

そしてその雰囲気は音楽は「音を楽しむ」というものであるという感覚から人を逆行させてしまいます。

そして「楽しめない」という感覚が、人をクラシックから遠ざけているという感じがします。

素人は絵を描いてはいけないという雰囲気

またそれと同じように、美術大学に行っていた人でないと絵を描いてはいけないというような雰囲気もあります。

何だか「上手い/下手」というような感覚を含め、純粋に絵を描くこと自体を制限させるような「美術論」がいたるところで展開されているような気もします。

何事も自分の感覚を頼りにステップアップしていけば良いと思うのですが、一つの学問分野として「基礎を習った人でないと認めない」というような風潮があります。

そんな中、稀に「一切学んでいない人」が強烈に評価されたりしますが、今度はそんな人を学問的芸術領域で語ることで、その空間の内側に閉じ込めようとしたりもします。

別に世間で言う「下手くそ」であろうが、何かしらをやる権利は誰にでもあるはずであり、それが世間でどう評価をされるかはわかりませんが、家に飾ることも世に出すことも制限されるようなものではありません。

ところが、例えば自分が好きで書いた絵を家に飾っていたとして「芸術大学の教授が家に来る」という段になると変に緊張が走ったりもします。

そう思うと、「素人だが絵を描いて飾ろう」というような動機が一気に制限されたりします。

元々全体的な美術に関する能力の向上を目指していたような「学校の創設」ですが、ある程度それが社会の中で基盤化すると、今度は逆に人を制限するようなものになってしまうというような感覚です。

基礎はツールとして

そうした分野はある程度基礎が確立されていますが、義務教育的に基礎から段階的に登っていくのではなく、まず自由があって、自分の為したいことに対して「うまくいかない」というときに対して基礎というツールを使うくらいでちょうどいいのではないでしょうか。

でないと、先に固定観念ができてしまい、その道に進んでも結局大成できず、同時に学んだことに固執し「人に教える」ということを持って価値を生み出すくらいしかできなくなってしまうような気がします。

そしてそうした「地道に学んだこと」を他人に評価させるために、「専門分野への沈黙の強要」をするような人になってしまうのではないでしょうか。

そうした動機が作る空間は、対象に対する制限しかもたらさないような気がしてなりません。

Category:miscellaneous notes 雑記

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ