和解させる

一体哲学の課題は、子供が学んだものと大人が認識したものとを和解させることであるだろうか?青年たちは子供と大人との中間にあり、中間の欲望をもっているから、哲学はまさしく青年たちの課題であるだろうか?哲学者たちが現在どんな年齢で哲学の構想を抱く習慣であるかを考えると、― それは、信仰には遅すぎ、知識にはまだ早すぎる年齢年齢なのであるが― ほとんどはそのように思われてならない。 曙光 504

一ヶ月以上ぶりの曙光です。

今回は「和解させる」ということで、和解について書いていきましょう。

僕は厳密な意味では、昔から人と和解したことがありません。例外としては、身内くらいです。小中学生くらいの時ならば、「喧嘩して仲直り」ということもあったと思いますが、高校生くらいからは人と喧嘩や口論をした後に和解したということは一度も経験がないように思います。

確か10年以上前ですが、ある人とバトルになり、間にいる人が仲裁というか和解の仲人みたいなことをしてくれたことがありました。

その時、僕はその場に向かうのがほんとうに嫌でした。そして、やはり自分の想像した通りの結果になりました。

話すくらいにまではなれても、仲良くはなれない、ということです。

それが仕事などであればそれでいいのかもしれませんが、友人関係のようなものは、行動の約束をしたところで、会う目的が「楽しみ」などであるのですから、仲違いから関係性が表向きに修復したとしても、心の底から場を楽しむことなどできなのですから、和解などに意味があるのか、と考えました。

ただ、ひとつ利点があるとすれば、感情のエネルギーが落ち着くことくらいです。

一度でも自分を蔑視、軽視してきた相手

しかし、その人と仲違いになったのには理由があります。

僕は、一度でも自分を蔑視、軽視してきた相手とは、その人が生まれ変わるくらいの変化が起こらないかぎり、一生仲良くやれない自信があります。

その人が「自分を守るため」にやむなくとった行動くらいならば許容できますが、本質的にいわば「なめてきた」場合は、一生許しません。

それは自尊心の問題ではなく、その瞬間から相手を醜く思えてしまうからです。

人を欺こうという人は相手を蔑視している

例えば、人を欺こうという人は、相手を蔑視しています。

比較的な問題で「優先されなかった」という場合には、相手にも都合があり、何を優先するのかは相手次第です。そんなことはどうでもいい事柄です。

しかしながら、相手を陥れよう、欺こう、という人は、根本から人格が歪んでいます。

先の和解の件とは別の話ですが、こんなこともありました。

保険の勧誘

以前、というか、何度か友人からの宗教勧誘については触れていますが、あれはおそらく勧誘してくる本人が、僕に対して「幸せになってほしい」と本気で思っています。

その内容はどうであれ、根本的な動機は、陥れたり欺いたりするといった目的ではなく、「好きだからこそ幸せになってほしい」という純粋な動機でしょう(もちろん、だからといって勧誘を受け入れるわけはありません)。

しかしながら、昔ながらの友人が、保険の勧誘やマルチネットワークの勧誘をしてくる場合は、話が異なります。

人間をお金としか見ていません。

もしくは「上司に怒られないため」の踏み台です。

そして、アポ取りにしても、騙しに近い方法で、連絡をしてきます。

面白いことに、僕は、そんな保険外交員よりも金融を知っています。

ただ、僕は資本主義者ではありません。そういう「主義」は、生きていく上で不要です。

しかしながら、資本主義を知っています。

知っていることと主義を持つこととは全く別物です。

自分は資本主義者ではないものの、資本主義を知っていて、自分の身の周りは資本主義で、その人達がどんな思考をするかを読み取れるというだけです。

資本主義や金融システムは、本来、「合理的な経済活動を通じて人を幸せにするかもしれない」、という方法論です。

まあ事の発端は貴族の発想なので、考えとしては不完全な部分もありますが、その中で生み出された方法論が全く使えないというわけでもありません。

しかしながら、本末転倒です。資本主義に脅されて、「人をお金と見る」ということは、人を幸せにはしません。

「お金と見られた側」としては、「お金と見てきた側」をどう思うでしょうか。

そのようなことが起こると相手を信用できなくなります。

その先に行動としての和解があっても、心の底から和解はなかなか得がたいものがあります。

暖かい徳と冷たい徳

和解させる 曙光 504


基本的に人の意志など、その場その場の状況によってすぐに変化します。それは自分自身の自我についてでも同様です。最初から陥れるつもりでやってくる人については論外ですが、その瞬間は信用できるような状況であっても、後に状況が変わればその信用は裏切られることすらあります。

人を信用することと人間不信

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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