友情

久しぶりの「曙光」です。前回の更新から2ヶ月近く経っていますが、再開です。今回から曙光を持ち帰ることにします。

さて、「友情」です。シンプルなタイトルですね。今回は引用は避けておきましょう。

最近、若い事業家仲間のひとりがマルチネットワークにハマり出しました。その話を、他の人から聞いたのですが、その人は彼に会った時にマルチネットワークに勧誘されたそうです。

それに関する投稿「マルチ商法(MLM)と洗脳を公開しました。

その話を聞いたとき、以前、友人に宗教勧誘された時の感情が再燃しました。

宗教勧誘により失うもの

やはり、友情はそういった出来事で一気に溝が深まるものです。もう、ある種の話題ができなくなりますから当然です。

宗教、そして宗教勧誘がいただけない理由の最たるものはやはりこの「会話内容が制限されてしまう」という点です。

僕達が小学生の頃はオウム真理教が大ブームでした。みんなこぞって尊師ごっこをしたものです。

同級生の一人は、紙粘土で箱庭のようなものを作るという工作の授業で、作品に「サティアン○○(彼の苗字)」というタイトルを付け、担任の先生に大激怒で指導されていました。

先日、思わずリツイートしましたが、例えば本当に最近、ある人が手塚治虫氏の言葉だと称して本を出版されました。

これは大爆笑モノです。

しかし、宗派が異なるからといって、宗教勧誘してきた友人には話せない話のタネです。

この溝は一生埋まらないと思っています。

そういえば最近友人と会っていない

僕は小学生のときジャンプ派ではなくコロコロ派だったので、特に藤子不二雄氏のような友情が大好きでした。卒業文集にもそういった友達との思い出、友情の大切さを書いていました。

(ジャンプ派とコロコロ派「性に合わない」)

しかしながら、最近大半の友人と会っていないどころか、ひとりとして友人と会っていません。

もう遊ぶことに価値を感じること無く、また、何かを語ることも無くなったからでしょうか。

直近では数ヶ月前に銭湯に行ったくらいです。

しかし、どうも話題が業種は違えどリアルなビジネス話程度、そのような話題ならば経営者仲間としている方が質が高いことは言うまでもありません。

たまに家に来る友人

この数年間、たまに家に来る友人もいるのですが、どちらかというと一方的に説法のようなことを話すだけで終わってしまいます。また彼らもそのようなことを欲している時にしか来ません。

そういう意味では、本当に友人というものは少なくなりました。下手をするとひとりとして「友人」ではないのかもしれません。

友情には「無責任でいい」という青春のようなもの、もしくは、まだまだ互いに何かを模索中という状況が必要なのかもしれません。

もう一生十代の時のような友情を感じることはないのかもしれない

そういう意味では、もう一生十代の時のような友情を感じることはないのかもしれません。

しかしながら、今後そのような感情を一切感じることがないのかというと、おそらくそうした機会が全く無いわけではないでしょう。ふとした時に友情を感じれるときはおそらくやってきます。でもそんな瞬間を求めているわけでもありません。

一方、たまに聞きますが、女性は友情を知らないまま死んでいくといいます。確かに「一緒にかわいくなろう」と誓い合った仲でも、同じ男を好きになった瞬間に仲は決裂するでしょう。

そういった意味で、安定した仲というものは経験せず、ただ卵巣の衝動のまま群れの性質に任せて「友情」だと錯覚しているに過ぎないのでしょう。

友人を目覚めさすために

そういえば最近友人から結婚式の招待状をもらいました。

彼はどうも、イオンモール組に汚染され、レベルが落ちているように感じています。

そこで年数回定期的に、彼を目覚めさせることにしています。

第400回の時にご紹介した「年賀・喪中は多大なるチャンス」です。

今回は招待状の返信だったため、誰かにご活躍いただくことはできないと考えたのですが、やはりこれもチャンスです。彼を目覚めさせねばなりません。

記念にご紹介しておきましょう。

結婚式の招待状の返信

友情 曙光 503

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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