合理化によって失われた分を何かで補う

合理化が進んだ分だけ何かが失われて、その失われた分は何かで補わなければバランスがおかしくなるということで、結局かけているコストの総量としてはあまり変化がないような気がしたりもします。

ということで、便利になってできた余白は何かに使わねばなりません。でないとただ愚化していくだけになってしまいます。

そういえば最近店先で会計時にお釣りの小銭を減らそうと端数を少しだけ出したりすると店員さんが混乱されることがたまにあります。

つまり、暗算力がかなり低下しているということになるでしょう。おそらくその原因となっているものが、電子マネーや電子決済ではないでしょうか。

価格の端数を気にしなくて済むというようなメリットもありますし、会計自体はスムースに行えるということで合理的ではあるのですが、その分だけ頭の中で簡単な暗算をしたりするような機会が減り、慣れていない分頭が混乱するのではないかということです。

また、スマートフォンなどのデバイスに細かな情報を記憶させておいて、必要な時にそれを参照したりすることもできる他、参照せずともすぐに実行できるという感じで便利な感じになっています。ということで、単純な暗記というものも機会が減っているでしょう。

一応、僕たち世代から少し下の世代は「友達の家の電話番号を暗記している最終世代」くらいですが、おそらくそれ以降の世代の人達は、電話番号を覚えるという機会もあまりないのではないでしょうか。

まあ機械を失くしたり壊したりした時にお手上げになるというリスクもありつつ、機械に依存していると言えばそうなるのですが、その分だけ意識に余白ができるので頭を有効活用することもできます。

楽になった分、結局何かが失われていく

そのような感じで、技術の進歩自体はいいのですが、それによって楽になった分、結局何かが失われていくというような事がよく起こります。

少し前に「日々の体温と人々の記憶」で触れていましたが、記憶のあり方として「画像」、コミュニケーションのあり方として「画像を見せて一言コメント」というようなことについて触れていましたが、そうした流れ自体はある種一つのあり方として止めることのできないことでありながら、同時に頭の使い方自体が変化しているので、何か別のことで頭を使わないと結局愚化していくだけになるのではないかということです。

技術革新についての感情的な非難のようなものは古代アテナイでもあったくらいで、ソクラテスなんかは「文字に書き起こすこと自体が人の記憶力を低下させてしまう」と非難したくらいでした。

しかし「記号としての役割しか持たない人たちと社会的監視機能」で触れていましたが、街のあり方、商店のあり方が変化すれば、その分だけ社会的な監視機能を別件で確保しなければ不安感が拭えないというようなことにもなりながらも、やはり便利さや合理性の方が優先されてはいきます。それはある種仕方のないことです。

対人コミュニケーションについても、遠く離れていようがリアルタイムでやりとりができるという事自体はいいですが、その分だけ人とリアルに会ったりする機会が減ったりして、結局「寂しい」などといい出したりしながら、それを埋めるように何かに依存しなければならなくなったりもしているでしょう。

といっても、大人数の人が最先端の技術を利用している中、自分だけがやめたところで、リアルな付き合いが加速するかと言えばそうでもありません。だから時代の進歩自体はある程度そういう状況になっている事自体は受け入れる必要があります。ということで非難しても何も始まりません。

ただ、そうした少数派に属してリアルな生き方の方を選択するというのは一つの選択肢として成り立ちますし、周りがそうであるなら逆にアドバンテージを稼ぐこともできます。

感情的な短文コメントしかできない人たちの中、情報を整理して文章を書ける人は社会で重宝されたりもしますし、電子的なメッセージだけでしか口説けない人ばかりの中、直接花束を持っていけるような人がいれば一人勝ちです。

そういえば芸大で教鞭をとっている友人が「近年入学してくる学生の基礎デッサン力の低下」を嘆いたりしていました。

例えばイラストレーション一つとっても、ソフトウェアである程度様になるので、全体的な美術のことについての基礎がほとんどないという感じになっているようです。

ソフトウェアで描くという感じでスタートした人たちは概して基礎デッサン力があまりに低く、全体的な構図を捉える能力が養われておらず、全体的なクオリティが低いという感じのことを言っていました。

「昔ながらのやり方」にこだわる必要はありませんが、何かしらでそうした部分を補う必要があるということになるでしょう。

そして、結果的に「昔ながらのやり方」あたりが、「考えうる中で一番理想的な能力の磨き方だった」ということにもなったりしそうです。

何故か「補おう」と思い立った日

特に何のきっかけもなかったのですが、ある時ふと「そういえば友達の家の電話番号を覚える機会もなくなったなぁ」というようなことを散歩途中に思いました。20歳位の時です。

そして「以前は電卓がない時は、暗算するか紙に書いて計算したりもしたけど、携帯に計算機があるからそうした機会も減ったなぁ」などということを思いました。

あれだけ学校で計算問題などをやってきたのに、何だかもったいないというような気にもなってきました。

そして散歩途中だったこともあって、車のナンバーの4桁の前半分と後ろ半分を暗算で掛け算するということをしながら歩きました(1122なら11×22、7777なら77×77という感じです)。計算が完了するまでそれ以上進んではいけないという感じのルールで遊ぶ感じです。

非生産的ではあるのですが、散歩も遊びなら暗算も遊びなのでまあいいかという感じで遊んでいました。

僕の場合は、いつでも手元に計算機があるわけではないという時期といつでも手元に計算機があるという時代を10代の時に経験したので「そういえば…」ということも思いましたが、これだけ携帯電話などが普及した現代では、そんなことを思いすらしないというのが当然ということになるのでしょう。

しかし、どうしても便利さで失われた機会というものはどこかにあります。いざというときの正確性などの面において、現代の技術や便利さの方が理には適っていますが、人の能力については逆に低下してしまうことにもなりかねません。

といっても、片やライバルがコンピュータを使用する中、そろばんで計算していては追いつけないこともあると思うので、日常は便利さをふんだんに利用するほうがいいでしょう。

ということで、普段は普段で置いておいて、機会が失われた分だけ何かで補うか、もしくは「便利さのおかげでできた余白」で新しいことを創造していくというのが理想的ということになるでしょう。もし補うとすれば、旧来的で原始的な手法で補うのが最も良いのかもしれません。

合理化や最適化が機械にできる限界

進化と退化

Category:miscellaneous notes 雑記

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